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ぶんやさんの記録

「自然災害の猛威と宗教者の役割~3.11大震災と原発事故への反省と実践~」

2012-08-27 09:17:04 | ときのまにまに
比叡山宗教サミット25周年記念「世界宗教者平和の祈りの集い」(2012年8月3日~4日)
「自然災害の猛威と宗教者の役割~3.11大震災と原発事故への反省と実践~」

マイケル・イップグレイブ(英国教会ウーリッジ教区主教)

今日、私は三つのことをお話しします。昨年の東日本大震災と津波、及びその後の福島第一原子力発電所の危機が引き起こした人々の反応について話します。そして、このような状況で求められている宗教的リーダーシップの諸相について話します。しかしまず、その前提となる世界理解について手短にお話ししましょう。

私は、クリスチャンとして、世界は全ての人々を育み、安心して住める家として神さまによって創造されていると信じています。私たちは創造の秩序を尊重する責任ある生き方をすることで繁栄することができます。このビジョンが私たちの前に置かれた理想であり、私たちが目指すべきゴールです。それは現在私たちが生きている世界では実現されていません。しかし、イエス・キリストにおいて、平和と正義と調和の御国が訪れ、そこで全ての人々が真に我が家と感じられるようになるという確かな約束があります。キリスト教的な言葉遣いをしましたが、安全に生きることのできる全ての人のための家という世界のビジョンは、他の宗教の教えとも響き合うものです。俳人松尾芭蕉が津波に遭った地域のただ中にある松島湾を描写するのに用いた言葉が思い出されます。「松島湾には無数の島々がある。…まるで子や孫を可愛がっているかように、他の島々を背負っている島があり、他の島々を腕にかき抱いている島がある」と。芭蕉は、自然環境を育み守る家として、人間を語るようにして語っています。

※「島々の数をつくして欹つものは天を指し、ふすものは波にはらばふ。あるは二重にかさなり三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。負へるあり、抱けるあり児孫を愛するがごとし。」(『奥の細道』)

人々はこの自然災害とエネルギー危機にどのように応じてきたでしょうか。それは三重のもの、苦しみの経験、反省の動き、そして家を失ったという根底にある感覚から成るものでした。

人々は苦しんできました。現在もその苦しみは続いています。住んでいた場所を破壊されたことによって直接的に。また原発事故によって間接的に。過剰に放射能を被爆することで被った身体的な被害の程度を私たちはまだ知りません。さらに、私たちは、今回の災害や、将来また起こるかもしれない災害がもたらす、相当な精神的な苦痛や心の痛みのことも考えなければなりません。今回の災害は、自然災害と人的災害が結びついた恐ろしいものでした。将来が見えないことや専門的な知識が不足していることで、被害はさらに大きくなっています。この凄まじい状況下に置かれながら普通の日本人が示した勇気、品位それに団結力は、世界中の人々に深く感銘を与えてきました。

第二に、今回の災害の原因とその重大性を反省する動きがあり、それは次第に大きくなっています。これは、心に大きな傷を残す出来事に対して自然にわき起こる反応であって、それぞれのケースで異なった形をとるものです。「純粋なる自然の」災害が発生すると、西欧では「神はどうしてこのようなことが起こることをお許しになられたのか?」という神学的ないしは哲学的な問いが問われます。しかし、今回の場合は、自然災害と人為災害の区別をつけることは容易ではありません。そのため、反省のプロセスは抗議や追及の様相を帯びてきました。会社側の不十分な対応について、原子力発電所を設置した場所について、原子力の利用そのものに対して、私たちの社会におけるエネルギー消費の程度に対して、疑問が投げかけられるようになりました。福島第一原子力発電所の事故がこうした疑問を引き起こしているのは、日本においてだけではありません。

苦痛と不安の経験や追及と抗議の動きの根底には、家を奪われたという感覚が深いところにあると、私は思います。松尾芭蕉の詩的な描写とは対照的に、被害に遭った人たちは、もはや環境を心から「我が家」と呼ぶことができるものとは感じられなくなっています。私たちを喜んで迎え入れ、育んでくれる場所、安心感と意味を与えてくれる場所とは感じられなくなっています。自分を自分の場所と編み合わせる所属の絆を引き裂いたのは人間の行いだと考えられています。この家の喪失の感覚が、洋の東西を問わず、今、私たちの文化の中で増大しています。それは、殊に原子力の問題について、また広くエネルギー利用の諸問題について、関心を集中させています。

人々がこのように応答している中、宗教指導者の役割は何でしょうか。キリスト教の指導者は、イエス・キリストを手本とします。イエスの働きは、伝統的に、預言者、祭司、そして王の「三重の職務」として説明されます。イエスは、祭司として、悩み苦しむ人々に手を差し伸べます。預言者として、社会に真実を伝えます。そして、王として、この世界が神の御国に作りかえられることを示します。このことから、福島に見ているような危機に取り組む全ての宗教指導者に意味を持つ三重の責任を考えることができるでしょう。

苦しんでいる人たちに手を差し伸べ、住む場所を失った人々に住まいを提供し、亡くなられた方々のために祈り、不安を抱える人々を力づけ、社会で最も弱い立場に置かれている人々~例えば、高齢者、精神的な問題を抱えている方、少数者~を特別に気遣う、祭司的役割があります。エネルギー問題が重大なものになるほど、社会の周縁にいる人々の苦しみはますます大きくなるでしょう。彼らを助け、慰めることは我々の仕事です。宗教団体の役割は、昨年の大災害に対する諸宗教団体の数多の働きの内に大いに示されました。

次に、預言者的な役割があります。自然界に於ける人間の立場を我々の社会に思い起こさせ、それを通してエネルギー政策を問うことです。こうした問題は、場所が異なれば、異なるものです。日本での原子力の問題は、イギリスでの問題とは異なります。しかし、どんな状況でも、私たちは、普段何気なく想定していること、期待していること、そして生活の仕方に対して疑問を投げかける必要があります。そうした問いかけをすることは、社会にとっても私たち自身にとっても心地よいものではないでしょう。

クリスチャンにとって神の国の約束は未来への希望を語るものです。どんな宗教も希望を与える力を持っており、それを分かち合うことができます。自然災害や人為災害に揺さぶられ、地球規模のエネルギー危機に直面し、人々はこの世界で家を失ったと感じています。宗教指導者として、私たちには人々に希望のビジョンを示す役割があります。世界は、私たち全てを育み、守る、本当の意味での家なのです。

真野 玄範 今夏、カンタベリー大主教の名代として比叡山宗教サミットに来られたマイケル・イップグレイブ師父のスピーチです。教区(管区?)から英文と和訳が送られてきたのですが、訳にいろいろと問題があったので、長坂聖マリヤ教会で配布するにあたってほとんど訳し直すことになってしまいました。
基本的で、かつ洞察と示唆に富む言葉で簡潔に語られています。是非お読みください。

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