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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/08/31~09/06

2014-09-07 06:01:08 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/08/31~09/06

2014日々の聖句 08月31日(日)
順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ。人が未来について無知であるようにと神はこの両者を併せ造られた、と。(コヘレト7:14)
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ロマ8:28)

私の黙想:
今日の聖句、口語訳とはかなり違う。「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである」。フランシスコ会訳と新改訳では「考えよ」のところを「反省せよ」となっている。「こう考えよ」というのと「反省せよ」というのとではかなり異なる。岩波訳は斬新である。「(災いを)見つめよ」。
さて、どう考えたらいいのだろう。前の文章は新共同訳に軍配を送るが、後の文章が分かりにくい。その点ではフランシスコ会訳の「あれも、これも神のなさることである。それは、将来、何が起こるか、人には見通せないからである」。文章は分かりやすいが、この文章だと「反省せよ」という言葉としっくり行かない。いろいろ比較した結論として、後半の文章については新改訳が明解である。「これもあれも神のなさること。それは後のことを人にわからせないためである」。
つまり人間には一瞬先のことも闇である。もし、5分後に起こることがわかったらどれほど助かるか分からない。しかし考えてみると(反省してみると)、分からないから、いいのである。突き詰めると、将来のことが分からないから、将来に対して「無責任」であれる。(もちろん、準備不足という責任はあるが)。じゃあ、その準備とは何か。人間には将来のことはわからないということを徹底的に自覚することにほかならない。分からないからこそ「最悪の場合」を想定しなければならないのであるが、それも不確定である。結局、コヘレトの言う通り、神は過去も、現在も、未来も全ての「順境」も「逆境」も「神のなさること」と言わざるを得ない。人間は「こう考え」ざるをえない。だから、信仰者は使徒パウロの言葉、ロマ書8章28節の立場に立つ。

2014日々の聖句 09月01日(月)
来て、神の御業を仰げ、人の子らになされた恐るべき御業を。(詩編66:5)
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。(エフェソ1:3)

私の黙想:
この詩にはイスラエルの民の「民族的感謝」(1~13)と「個人的感謝」(14~20)とが組み合わされている。1節の「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ」という呼びかけと16節の「すべて神を恐れる者よ、来て聞け」(口語訳)とが見事な対になっている。これは何かの「民族的祭典」を背景にしている。民族的祭典はまた同時に個人の祭典でもある。全国民が心を一つにして喜び祝うときに民族的祭典は盛り上がる。「祭り」とはそういうものであろう。祭りは共同体に属する一人ひとりが、普段の苦しみや悩みを忘れて「馬鹿騒ぎ」をし、大盤振る舞いをする時である。この時、一人皆んなから背を向けて、グジグジ思い悩んでいるのはよくない。この詩にはこっちに来て、一緒に喜ぼうよ、という呼びかけが響いている。

2014日々の聖句 09月02日(火)
主は、主を呼ぶ人すべてに近くいまし、まことをもって呼ぶ人すべてに近くいます。(詩編145:18)
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。(フィリピ4:6)

私の黙想:
典型的「賛美の歌」。これは歌う詩(歌詞)であるから、同じ言葉を繰り返すことは特別なことではないが、たとえば、1節後半と2節後半のように。しかし、「近くいましという言葉を何故2回も繰り返して訳しているのであろう。原文では冒頭の一回だけである。この詩はアルファベット詩であるから、冒頭の言葉には歌う者も聴く者も注意を集中させている。そこに「主は近い(カローヴ アドナイ)」という言葉が響き、「主を呼ぶすべての人に」という言葉が発せられ、その言葉に引き寄せられて、そうだ「彼を呼ぶすべての者に」とエコーのように繰り返され「誠をもって」とむすばれる。ここでもう一度「近くにます」という言葉が繰り返されると力が抜けてしまう。これを「蛇足(蛇の足)」という。何故なら最初の「カローヴ アドナイ」という言葉が歌う者、聞く者の心に倍音のように響きいているからである。

2014日々の聖句 09月03日(水)
わたしの主よ、あなたのほかにわたしの幸いはありません。(詩編16:2)
弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」(ヨハネ6:66~68)

私の黙想:
今日の聖句は何か甘ったるい。それは「わたしの主」という言い方と「幸い」という言葉との組み合わせから来るのであろう。「わたしの主」の主は聖なる四文字ではないアドナイである。つまり身近な主人。「この幸い」という言葉の訳し方が問題。どうでしょう。「幸い」とか「幸福」という言葉は決して悪い言葉ではが、例えば「幸福論」とか「ささやかな幸せ」という言葉には「軽やかさ」が漂っていないだろうか。私自身はあまり使わない。今日の聖句は非常に重い言葉である。自分の人生をここに賭けるという重さがある。ここで「幸い」と訳されている言葉は、例の「トーブ」という言葉の派生語である。天地を創造された神がそれらを見てすべて「良しとされた」のトーブである。そこには絶対的な「善」(文語訳、フランシスコ会訳)の保障がある。全肯定である。「あなたのほかに」という比較級では表現出来ない「全肯定」の告白である。「あなたの上がない」、つまり「最上級」「ベスト」、フランシスコ会では「勝るものはない」と訳している。

2014日々の聖句 09月04日(木)
主は再び我らを憐れみ、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。(ミカ7:19)
イエスの言葉:わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。(ヨハネ12:47)

私の黙想:
ミカはアモス、ホセアに継ぐ、イザヤと同時代の預言者。つまり、アッシリアによる滅亡の直前、北のイスラエルの危機の時代の預言者。「再び」とは捕囚後の回復の預言とみられる。3章までが滅亡の預言、4章以後が回復の預言。7章ではイスラエルの指導者たちの「罪」による社会の混乱が列挙されている。これが国を指導する者たちの罪の結果である。指導者たちの犯罪の最たることは、預言者から預言活動を取り上げ、彼らのためになる言論だけを撒き散らす(2:6、3:5)こと、つまり言論統制である。この部分で注目を引く言葉は1節の「わたしの好む初なりのいちじくもない」。何故この言葉が私の注目を引くのか、それは謎としておこう。
民族の回復は民の中から完全に排除することによってなされる。ここで特に指導者たちと限定せず「われらの咎」「(われらの)すべての罪」とされていることである。民族の指導たちの咎と罪は、「われらの咎であり、罪である」という自覚は重要である。

2014日々の聖句 09月05日(金)
わたしの時は、あなたのみ手にあります。(詩編31:15、口語訳)
明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ6:34)

私の黙想:
ここで用いられている「時(複数形)」とはコヘレト3:1以下の「時」と同じである。「何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある」。また詩編1:3の「ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない」という「時」である。フランシスコ会訳のように「わたしの生涯」と訳してしまうと抽象的すぎる。その意味では新共同訳の「わたしにふさわしいときに」という訳はいい訳である。ヘブル書4:16の言葉を思い起こす。「時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」。口語訳では「時機を得た助け」と訳されている。人生には「ここ一番」という時がある。普段どれほど強い力士でも、「ここ一番」で負けてしまう力士には応援し甲斐がない。普段どれほど喧嘩している相手でもイザという時助けてくれる友が真実の友である。いつもいつもダラダラと「共に居る」神は、鬱陶しすぎる。しかし「時宜にかなった(神の)助け」はありがたい。それは人間の身勝手であろうか。

2014日々の聖句 09月06日(土)
主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。(イザヤ61:1)
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。(ロマ8:14)

私の黙想:
「神の霊」という言葉で私たちは何を想像するのだろう。多くの人々は「霊」という言葉に異常な現象を想像する。私は「神の霊」という言葉を聞くと、先ず想像するのは創世記1章2節の「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。これは何か異常な現象であったのだろうか。これは単に創造以前の状況の中でも神は働いていた、ということを表現しているに過ぎないではないか。もう少し考えると神の霊は混沌に働きかけて秩序付けをする働きということであろう。つまり散らかされた部屋を掃除して、散らばっているものをあるべきところに片付けて、整理整頓するのが「神の霊」である。パウロも言う、「神は無秩序の神ではない」だから「預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです」と。この文脈はいわゆる「異言を語る者」に対する戒めの言葉、また同時に異能者に対して傾倒する人々への警告の言葉である。
「神の霊」は混乱した状況を整理し、変な人を普通の人に戻し、戦争状態を正常化し平和にする。
預言者イザヤが「神の霊がわたしをとらえた」という場合、これからあなたは何をすべきかという使命を与えたということで、その使命の内容は「わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み捕らわれ人には自由をつながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年わたしたちの神が報復される日を告知して嘆いている人々を慰め、シオンのゆえに嘆いている人々に灰に代えて冠をかぶらせ嘆きに代えて喜びの香油を暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」(1~3)と記されている。まさにこれこそ、イエスの使命でもあった(ルカ4:18~19)。

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