ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 12/02~12/08

2012-12-11 08:51:38 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 12/02~12/08

losungenj 2012.12.02(sun)
知れ、主こそ神であると。(Ps100:3)
前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。」(Mk11:9)
私の黙想:
祝祭日の行列詩編。「ヤハウェこそ神である」と宣言しながら町中を歩き回る。いわば整然としたデモ行進。非ユダヤ人の領域に行って同じことをしたら袋だたきになることは確か。いわば「内向きの確認」。これをしなければならないということ自体が問題である。その逆に、ユダヤ人の領域内でヤハウェ以外の者を「○○さんこそ神である」と叫びながらデモ行進したら袋だたきになること間違いなし。

losungenj 2012.12.03(mon)
あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。(Ps25:5)
キリストの言葉:求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。(Lk11:9)
私の黙想:
信頼していた友人に裏切られ、人間不信に陥った詩人が、信頼できるのは神だけだと歌う。悲しいかな、人間は裏切られて深められ、成長する。パウロは教会の柱と呼ばれていた主の兄弟ヤコブから裏切られ、ユダヤ人に引き渡され、ローマの軍隊に保護され、神殿で祈っていたとき、「急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである」という主の言葉を聞き、本格的に異邦人伝道に向かう(使徒22:17ff)。

losungenj 2012.12.04(tue)
あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うならば、 あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。(Deut28:2-3)
イエスは言われた。「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」(Lk11:28)
私の黙想:
「町にいても、野にいても」を職業の選択と理解する。公務員であれ、商人であれ、百姓であれ、職人であれ、教師であれ、事務員であれ、大型トラックの運転手であれ、タクシーの運転手であれ、「町にいても、野にいても」、規模の大小はあっても、意味の大小はない。たとえ聖職と呼ばれる職務についても、その職を汚す人間はいる。要はその人自身と神との関係が肝心だ。

losungenj 2012.12.05(wed)
主はわたしのためにすべてを成し遂げてくださいます。(Ps138:8)
だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。(Rom8:33)
私の黙想:
この詩は全てを神に委ねきっている信仰者の神賛美。彼は「心を尽くして」神を賛美する。神は彼のために全てを成し遂げる。この全てとは「私の願いの全て」ではなく、「神の意志の全て」である。信仰者の全てと神の全てとが見事に歌われている。

losungenj 2012.12.06(thu)
神に従う人の道は輝き出る光、進むほどに光は増し、真昼の輝きとなる。(Prov4:18)
わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。(1Thes5:5-6)
私の黙想:
こういう単純な光と闇との二元論はどうしても好きになれない。と言うより、黙想を妨げる。現実の人間は光と闇とが入り交じった曖昧さの中で生きている。そこで見える光は靄に包まれたボヤーッとした光りである。私たちはその光りに惹かれ、光りに寄っていく。私は真昼の太陽より、日の出前の朝焼け、雲に包まれ沈みゆく太陽の輝きに感動する。

losungenj 2012.12.07(fri)
主は恵み深く正しくいまし、罪人に道を示してくださいます。(Ps25:8)
イエスによる罪の赦しが告げ知らされました。(Act13:38)
私の黙想:
この詩においては神に対する「罪」は「恥」ではない。恥とは他人から自分に向けて投げかけられるものである。それを「辱め」という。正当な恥もあれば、不当な辱めもある。詩人は人々から不当な辱めを受けているのであろう。一旦、悪意に満ちた不当な辱めを受けると、それを排除することは非常に難しい。詩人にとって神だけが頼りである。

losungenj 2012.12.08(sat)
すべて御もとに身を寄せる人に、主は盾となってくださる。(Ps18:31)
イエスは弟子たちに言われた。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。」(Lk12:22-23)
私の黙想:
そういう時もあるし、そうでない時もある。なぜそうなるのか、私たちには分からない。分からないついでに言うと、実はそうなっているのに、それに気付かないときもある。イエスの場合、神は「イエスの盾」にならなかった様に見える。にも拘わらず、私達は信じる。ここに復活信仰の鍵がある。(使徒言行録2:29-32)


最新の画像もっと見る