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断想:聖霊降臨後第16主日(特定20)の旧約聖書(2017.9.24)

2017-09-22 08:07:26 | 説教
断想:聖霊降臨後第16主日(特定20)の旧約聖書(2017.9.24)

思い直す(悔改) ヨナ書 3:10-4:11

<テキスト>
10 神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。
1 ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。
2 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。
3 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」
4 主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」
5 そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。
6 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。
7 ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。
8 日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」
9 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」
10 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。
11 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

<以上>

1.この主日の福音書
この主日の福音書は、マタイ20:1~16で、ぶどう園で働く労働者の譬えで、朝早くから働いた労働者も夕方になって雇われた労働者も同じ賃金だという話である。現代人が聞いたら呆れるような話であるが、イエスはそれが天国みたいなものだという。ここからいろいろなテーマが引き出される。雇い主の鷹揚さとか、雇い主と労働者との「契約」の厳しさとかである。それに対して、ヨナ書の3章以下の物語は何を語ろうとしているのだろうか。面白い対比である。

2. 神の悔い改め
ヨナ書は大きく分けて2つの部分によって構成されている。1~2章は、預言者ヨナが神から指定された任地へ赴くまでの話で、これは今年の8月13日の「断想」(特定14)で取り上げられた。3章以下の物語はそれとはまったく別な物語で、ここでは預言者ヨナの活動によってすっかり悔い改めたニネベの町における預言者ヨナとヤハウェなる神との関係が取り上げられている。ここでの主題は「神の悔い改め」である。
聖書の神の面白さは、神ご自身が悔改めることもあるということである。創世記の6章では、神は地上に悪がはびこっているのをご覧になり、人間を創造したことを「後悔し、心を痛め」、地上から人間を一掃しようと決意された。それがノア物語の発端であった。神ご自身が心で決め、実行なさったことを後悔する、というのは非常に興味深い。ヨナ物語では、ニネベの町の悪が「神に届いた」ために、神は40日間の猶予をもってニネベの町を滅ぼすことを決意され、「悔い改めの使者」としてヨナを派遣する。派遣されたヨナは、ニネベの町の悪の実態を知っていたので、まさか悔改めるということは想像もしていなかった。ところが、ニネベの町の人々はヨナの説教により、「身分の高い者も、身分の低い者も」(3:5)悔改めたという。そのことにより、神は町を滅ぼすという思いを改められた。すでに下された決定を神ご自身がひるがえされたのである。

3. ヨナの立場
これは驚くべきことである。そうなると、「滅びを予告した」ヨナの立場はどうなる。ここにヨナの怒りの正当性がある。神はヨナに語りかけられた。「お前は怒るが、それは正しいことか」と。ヨナはよく分かっている。「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」。ここで、ヨナはこうなることを「まだ国にいたとき」から予想していた、と言う。しかし、これはヨナの強がりであろう。神は確かにそういう神であると思っていたかもしれないが、まさかヨナの説教を聞いて、ニネベの人々が悔改めるとは予想をしていなかったのである。しかし、ヨナの説教は本当に神はニネベの人々を滅ぼすと信じていたからこそ迫力があり、だからこそニネベの人々は悔改めたのである。ここにヨナの矛盾がある。

4. ヨナの抗議
ともかく、納得しないヨナは座り込みをする。「すると、主なる神は彼の苦痛を救うため」に「とうごまの木」で日陰を作る。しかし、ヨナはその日陰が神から与えられたものであるということを認めない。しかし、この日陰のお陰でヨナの「不満は消え」(4:6)る。ここから、神のヨナに対する教育が始まる。翌日、神は「虫に命じて」とうごまの木の葉を全部食い荒らさせ、しかも熱風のような東風を送り、おまけに強烈な日差しでヨナを攻める。さすがのヨナも「ぐったりとなり、死ぬことを願って言った。生きているより死ぬ方がましです」(4:8)。
ともかく、ヨナはよく「死ぬこと」を考える預言者である。「死んだ方がましだ」。この「死んだ方がましだ」という発想の背後には妥協を許せない正義感が感じられる。そっちが死ぬか、こっちが死ぬか、ここには「共に生きる」道を求めるという発想がない。
再び、神はヨナに語りかける。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」(4:9)。ヨナが楽しんだ「とうごまの木」の陰はヨナが汗水流して得たものではない。いうならば、とうごまの木陰はヨナにとって「関係のないもの」であり、急に葉が繁って木陰を作ろうと、急に枯れてしまおうと、ヨナがとやかく言えるものではない。ところが、そのとうごまの木陰が無くなったことでヨナは怒っている。そこには「ヨナの正当性はない」。にも関わらずヨナはとうごまの木が枯れたことを惜しみ、怒っている。

5. 神の変心の正当性
ところが、ニネベの町は神のものである。ニネベの町を神が惜しむのには正当性がある。神が「思い直す」のには正当性がある。神の側に立つ預言者には、神の「惜しむ心」を分かって欲しい。
ヨナ書では、この後のことが書かれていない。後は、読む者がそれぞれに考えよ、ということであろう。

《懺悔して人が変われば神変わる、慈しむ神ここに極まれり》

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