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今週のローズンゲン 2017/08/13~08/19

2017-08-19 08:57:48 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/08/13~08/19

2017 日々の聖句 8月13日(日)
主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。(詩34:19)

アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」(使徒9:17)

私の黙想:
主は穏やかに生活をエンジョイしている者には近づかれない。悔いる霊を救うのであって、悔いのない者には手の施しようがない。今日の主日の福音書では、「逆風のために波に悩まされいる弟子たち」のもとに、嵐の中を歩いて近づかれたのであるし、信仰がなくて溺れそうになったペトロに手を差し伸べられたのである。
ということで、今朝の黙想はもう種切れです。

2017 日々の聖句 8月14日(月)
あなたたちの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めを守りなさい。(ヨシュア22:5)

パウロの手紙:わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者とるように。(フィリピ1:9~10)

私の黙想:
モーセの後継者ヨシュアの第1の課題は、「約束の地」においてイスラエルのためがそれぞれ与えられた土地で安定した生活を営むように指導することであった。こうの個所は、そのなかでもとくにヨルダン川の東側の土地が当てられた部族へのはなむけの言葉である。おそらく、この言葉はすべての部族にも与えた言葉であろう。しかしヨルダンの東側はイスラエル本体からは少々距離があり。それだけに自主的な部族運営が期待されていたものと思われる。述べられていることは、イスラエルにとっては言い古された言葉である。とくに注意すべき点は「主を愛し」で、主を愛する心があればすべてうまくいく。この言葉には二つのポイントがある。一つは異民族の神々の間で「主」だけを愛することの難しさ。二つ目は、主を「愛する」ということについての具体的は施策である。それが「その道を歩み、その戒めを守り」という言葉に込められている。「その道」という抽象的な表現であるが、これを新共同訳以外の訳では「すべての道」と訳している。つまり、結論を言えばおよそ40年間、荒れ野を放浪したときの全ての経験を意味していると私は解する。それはこれから始まる農耕生活に対する放浪生活、あるいは牧畜生活で経験したことで、たとえカナンの地で農耕生活に入ったとしても、その時の生活、そこで身につけた戒めを崩してはならないという意味であると解する。つまり、土地にべったり縛られた生活とは異質の生活、現代風にいえば、この世の物質に囚われない「潔さ」を意味すると私は思う。その潔さは神へ向かう基本的姿勢であり、それが神を愛するという生き方の具体相である。この伝統は、当然キリスト者も受け継ぐべきものと思う。この世に生きつつ、この世の物でない生き方、ヨハネ福音書では「もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである」(ヨハネ15:19)という。

2017 日々の聖句 8月15日(火)
わたしは苦難の中から呼び求めるあなた(お前)を救った。(詩81:8)

さて、ハンセン病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちま病は去り、その人は清くなった。(マルコ1:40~42)

私の黙想:
「日々の聖句」の編集者は「あなた」を思い切って「お前」と訳し変えている。日本では「苦しい(困った)ときの神頼み」という、信仰を揶揄した言葉がある。普段はほとんど宗教などに関心がないのに、苦しいときにだけ「神さま」という姿勢を批判する言葉である。日本人の潔癖症からでた格言であろう。そういう風に茶化されたときに「人生に苦しくないときがあるのか」と開き直っても空しい。私たちの神さまはそんなけち臭いことを仰らない。「苦しいときに私を呼び求めるなら、いつでも助けるよ」と仰る。それで良いではないか。詩人はここで面白いことを言う。ここで語られる神の言葉は「思いがけない言葉」だという。口語訳では「まだ知らなかったことば」と訳し、フランシスコ会訳では「耳にしたことがない言葉」だという。翻訳者によっていろいろに訳しているが、「苦しいときに神が助けてくださる」ということはイスラエルの民にとっても「意外なこと」なのだ。もっと面白いのは、この事実は「雷鳴に隠れて」なさるということである。やや、ややこしいので、整理すると、私たちが苦しさの中から神さまに「助けて」と呼びかけたら、神さまは助けてくださるが、それは「雷鳴に隠れて」なさるのだ、というのである。要するに、周囲の人たち意は気が付かれないような形で神さまは私たちを助ける。ひょっとすると、ご本人も気が付かないような仕方で神さまは助けてくださるのだろう。要するに「苦しいことがあれば神さまに呼びかけたら」、神さまがなんとかしてくださる。「苦しいときの神頼み」、いいじゃないか、と神さまは意外なことを仰る。

2017 日々の聖句 8月16日(水)
正義を洪水のように、(恵みの業を大河のように)尽きることなく流れさせよ。(アモス5:24)

種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。(2コリント9:10)

私の黙想:
今日の聖句では括弧の中が省略されている。この省略が危ない。人間が「正義」を振りかざし、それを洪水のように無尽蔵に流すときに悲劇が起こる。「正義」には必ずどういう正義なのかが語られなければならない。それが括弧の中の「恵みの業」なのである。恵みの業と組み合わされて始めて正義は正義となる。
この部分は、口語訳では「公道を水のように、正義をつきない川のように流れさせよ」、「恵み」と「公道」ではかなり違う。フランシスコ会訳では「正しい裁き」、新改訳では「公義」、岩波訳、関根訳でも「公義」である。その公儀とはどういう意味かと問われたら、フランシスコ会のように「正しい裁き」、勿論これは神の前での裁きを意味すると答えるべきであろう。なぜこれを新共同訳は「恵みの業」と訳したのか理解に苦しむ。
人間の考える正義は常に神の前での裁きというフィルターが必要である。太平洋戦争の時に日本が掲げた「大東亜共栄圏」という正義も、神の前に裁かれなければならない。面白いことに、広辞苑には「公義」という言葉はみっれない。あるのは「公儀」で、それは単に「公のこと」という意味である。ここら辺りに日本の「正義」についての思想の浅薄さがあるのかも知れない。日本には「公義」がないのである。

2017 日々の聖句 8月17日(木)
主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出してくださる。(詩34:20)

パウロの手紙:(無駄ではなかったどころか、)知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。(2テサロニケ2:2)

私の黙想:
新共同訳の「主に従う人」とは通常は「正しい人」。正しい人にはその正しさの故に災いが多い。この「災い」をどう考えるか。新改訳では「悩み」、文語訳では「患難」、関根訳では「不幸」。問題はその「災い」は外から降りかかってくるものなのか、正しい人の内面的なものなのか。どちらかに断定するわけにはいかないが、もう一歩踏み込むと、「私は」こうあるべきだと思うことに対して、「この世では」そうではないということから生じる「居心地の悪さ」、「住みにくさ」、「対立」、「迫害」であろう。ある意味で、それは仕方がないことである。そうなると、問題は「主はそのすべてから救い出してくださる」という救い方の内容になってくる。勿論、問題の程度にもよるが、私はそのことから救い出して欲しくない。むしろ、その緊張なのかで、その緊張自体を楽しみたい。イエスも弟子たちのために父なる神に祈っているではないか。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」(ヨハネ17:15)。緊張の中で「守られている」という感覚、これはむしろ快感につながる。

2017 日々の聖句 8月18日(金)
あなたたちは喜びのうちに、救いの泉から水を汲む。(イザヤ12:3)

イエスの言葉:渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。(ヨハネ7:37~38)

私の黙想:
預言者イザヤと水との関係は深い。アッシリアの攻撃を受け、北のイスラエルはあっさりと占領され、最終的には歴史から姿を消したが、その時、預言者イザヤは徹底的な抗戦を主張し、籠城することになったが。籠城するものにとって絶対に必要なものは「水」である。そこでイザヤの勧めにより秘密の泉から場内に水を引いた(イザヤ8:5~10)。それがヨハネ福音書に出てくる「シロアムの池」であり、これによって守られ、囲んでいたアッシリア兵は諦めて退散したという。このとき、人びとは言った。「神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから」(イザヤ8:10)。「インマヌエル」という言葉は旧約聖書ではイザヤ特有の言葉である。それは具体的には「私たちの中には命の泉がある」ということに他ならない。

2017 日々の聖句 8月19日(土)
あなたの太陽は再び沈むことなく、あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり(あなたの嘆きの日々は終わる)。(イザヤ60:20)

わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えられました。(1ペトロ1:3)

私の黙想:
電気という便利なエネルギーが人類の手に入る前の、「光」を太陽と月とに依存していた日常生活を反映している。非常に美しい詩である。その頃、人類は「永遠の光」に憧れていたのであろう。
そして今、人類は電気を発見し、電気を利用するようになり、ある意味で「永遠の光」を手に入れた。そして人類は「嘆きの日々は終わった」のだろうか。事実は、私たちが日々に体験しているように、不安と嘆きの日々である。もはや人類はこのように美しい「詩」を書けなくなってしまった。次に、何をシンボルとして神を待ち望むのであろう。

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