ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 11/16 沖縄は勝った

2014-11-18 06:31:07 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。午前、整形外科に寄って、散髪。聖研の年間プランを作成。滝澤武人の『マルコの世界』、田川健三のエピゴーネンだけど面白い。練習30分、昼寝15分。夜は「NHKスペ、激化する豪雨」を見て9時半に就寝、4時半起床。体調、快調。チュン、チュン。

金丸 勝彦さん、鈴木 ゴリ 宣仁さん、播 稔さん、他18人が「いいね!」と言っています。

村田 多鶴子 おはようございます~♪昨夜は、冷えたせいか骨折した足の指の痛みが酷く、早々にベッドに入りました。今朝も、足が痛くて目覚めました。そんな朝ですが、今日は日曜日。み言葉に依る養いを受けられる幸いを感謝しつつ教会へ参ります~♪(^^♪先生ご夫妻の今日の歩みが祝されますようにm(__)m

萩野 秀子 おはようございます。礼拝、婦人会、チラシ配りをします。祝された時となりますように。お祈りします。
posted at 04:56:47


文屋 善明
今日の名言:RT @Jewish_proverb:
毎日新しいことが起こる。これは神の贈り物である。(ユダヤの格言)
<一言>今日はどんなに楽しいことがあるのだろうか。それを想造するだけで、何か楽しくなってくる、よね。確かに。

金丸 勝彦さん、鈴木 ゴリ 宣仁さん、杉浦 紀明さん、他20人が「いいね!」と言っています。

Kiyosi Muramoto おはようございます。幸せな休日をBIGに、お過ごしください

播 稔 こういう考えができてば、幸い、最低なのは「取り越し苦労」。
posted at 06:31:33

「昨日のツイート 11/14 クリスチャン・ジャーナリズムの提案」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/ba1af924eb219bd35830cdd62902325…
posted at 08:08:32

「今週のローズンゲン 2014/11/09~11/15」をブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/d337686b2690de06e1660fb289d1350…
posted at 08:19:29


文屋 善明
お目覚めの花。「今日は主日、かなり冷えていますが、声高らかに、主をほめ歌いましょう」。

金丸 勝彦さん、細野 洋子さん、Yoshiyuki Sakaeさん、他38人が「いいね!」と言っています。

村田 多鶴子 はい、そう致したいです~♪♪♪


文屋 善明
11月16日 5:59 ·
2014日々の聖句 11月16日(日)
ヨブは主に言った。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(ヨブ42:5~6)
神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。(黙示録22:3~4)
私の黙想:
ヨブ個人に対する神の語りかけ(40:6~41:26)に接し、ヨブは震え上がり、神に告白する。感動的な場面であるが、少し冷静にこの部分を読んでみると、神は「嵐の中から」語っているのであって、ヨブは神の姿を「見ている」わけではない。その意味では神の言葉を「聞いている」のである。その意味では「耳にしていた」が、今や、この目で「見ている」というのは言葉の綾である。むしろ、ここでのヨブの「告白」は、神の「(直接的)顕現」に出会って、今までの信仰が観念的であったということであろう。では、今までのヨブの信仰は観念的であったのだろうか。ヨブ記1章におけるヨブの信仰は決して「観念的」ではない。現実の中で生きた信仰生活を送っていた。ヨブの信仰にサタンさえ羨んだ。神も呼ぶの信仰には絶対的と言えるほどの信頼をおいていた。だからこそ、神はサタンにヨブの信仰を試みさせたのである。
それではヨブの信仰のどこに問題があったのだろうか。私は今日の聖句の中で「自分を退け」という言葉にひっかかる。口語訳では「みずから恨み」、フランシスコ会訳では「わたしの言葉を忌み」、新改訳では「自分をさげすみ」、文語訳では「みずから恨み」、岩波訳では「私は退けます」と訳している。うーん、なかなか含蓄がある。この文章では、何を退けているのか、何を恨んでいるのか、何を蔑んでいるのか、内容は明白ではない。問題は「わたし」である。私を退けているのが、私が退けているのか。私が恨んでいるのか、私を恨んでいるのか。つまり、ヨブは何を「悔い改め」るのか。岩波訳の並木浩一さんは、「(この文章は)退ける対象を語らない。この不完全な構文は意図的である」という。その意図は「読者に考えさせる」ためであろうという。私は考える。ヨブに何か「悔い改めること」があるとしたら、「自分」つまり現代的な言葉を使うとしたら「自我」であろう。具体的に言うならば、「私の信仰」「信仰者としての私自身」を退ける。もはや、私は信じているなんて言えない。またもや、「わたしは信じます」と告白する主日に相応しくない黙想になってしまった。

金丸 勝彦さん、播 稔さん、清水 晴好さん、他26人が「いいね!」と言っています。

Kiyosi Muramoto おはようございます。幸せな休日を・・・

門叶 国泰 アーメン。同じ個所に着目していながら、どうしてこれほど黙想の深浅が異なるのか!と、主の日の朝から落ち込んでいます。

播 稔 ヨブといえども人間です。だれよりも神に正しい人が、苦しまなけらばならないのか?ヨブは本当に神に向いていたのか。先生がおっしゃる「自我」は正解でしょう、この哲学的用語の「自我」が。

播 稔 しかしせんせいは良くかんがえましたねー。

文屋 善明

今日は主日でもあるので、教会のことを一言。
教会暦と特祷、聖書日課
プロテスタントの諸教会では教会暦を採用しているところとそうではないところがある。教会暦とは、1年をいくつかの季節、例えば、降臨節、降誕節、顕現節、大斎節、復活節等によって仕分けて教会生活に節目を設けるということを意味する。そのような仕分け方をするということを「うちの教会では教会暦に従っている」という言い方をするが、それはいわば中途半端な便宜的な考えにすぎない。
ほんとうの意味で、教会暦に従うということは各主日にその日(あるいはその週の)特祷が定められ、その主日に読まれるべき聖書のテキストが定められ、その教団に属するすべての教会がそれに従って主日礼拝を守っているということである。
日本聖公会の場合は、現行の祈祷書によると聖書のテキストは旧約聖書から、使徒書(使徒言行録以下の文書)から、福音書からと3つのテキストが読まれ、3年周期(A年、B年、C年)で繰り返される。A年は主にマタイ福音書から、B年は主にマルコ福音書から、C年は主にルカ福音書から、ヨハネ福音書は3年間にそれぞれの主日相応しいテキストが振り分けられている。ただし復活節(復活日から聖霊降臨日までの8回の主日)に読まれる福音書は全部ヨハネ福音書から選ばれている。一寸、例外的なテキストとしては、復活節には旧約聖書に代わって使徒言行録からのテキストが読まれる(オプションとして旧約聖書のテキストも準備されている)。
3つのテキストのうち、中心は福音書で、福音書を中心として使徒書、旧約聖書のテキストが選ばれている。ただし、聖霊降臨後の諸主日では福音書との関連は薄く、使徒言行録以降の文書が万遍なく読まれるように配慮されているようである。
特祷は1年周期で毎年同じ祈りが繰り返される。ところで、この「特祷」、これだけ聞くと「その日のための特別な祈り」と思ってしまう。確かにその通りであるが、実は意味合いが違う。カトリック教会ではこれを「集会祈願」と訳している。これも一寸違う。英語では「collect 」と訳されている。カトリック教会では昔は「集祷」と言っていた。起源となるとかなりややこしいので省略するが、その主日に各教会で祈られる様々な祈りを集めた祈りということを意味しているようである。昔、ローマ市内に7つの教会があった頃、会衆たちはそれぞれの教会で礼拝を行った後、その日に主教が司式をする教会まで他の6つの教会の会衆が行進(プロセッション)して集まり、主教によるミサに参加するという習慣があったと言われている。その時に主教が捧げた祈りが「集められた祈り」という意味で「コレクト」と呼ばれるようになったという。
現在は逆にこの祈りを各教会で捧げることによって全教会の礼拝が一つの礼拝になると理解されている。つまり全教会は「特祷」によって結ばれ、同じ礼拝に参加しているということを意味している。
古い祈祷書では、降臨節第1主日の特祷は降臨節の期間中、つまり「降誕日の備え日(前日)の朝まで、毎日その日の特祷につづいて用いる」と規定されていた。同様に大斎節では大斎始日(水曜日)の特祷は「当日の朝から受苦日の前夕まで、毎日その日の特祷に続いて用いる」と規定されていた。これらの規定は現行の祈祷書では削除されている。非常に重要な特祷だと思うが、非常に残念なことである。
今日は主日でもあるので、教会のことを一言。
教会暦と特祷、聖書日課
プロテスタントの諸教会では教会暦を採用しているところとそうではないところがある。教会暦とは、1年をいくつかの季節、例えば、降臨節、降誕節、顕現節、大斎節、復活節等によって仕分けて教会生活に節目を設けるということを意味する。そのような仕分け方をするということを「うちの教会では教会暦に従っている」という言い方をするが、それはいわば中途半端な便宜的な考えにすぎない。
ほんとうの意味で、教会暦に従うということは各主日にその日(あるいはその週の)特祷が定められ、その主日に読まれるべき聖書のテキストが定められ、その教団に属するすべての教会がそれに従って主日礼拝を守っているということである。

日本聖公会の場合は、現行の祈祷書によると聖書のテキストは旧約聖書から、使徒書(使徒言行録以下の文書)から、福音書からと3つのテキストが読まれ、3年周期(A年、B年、C年)で繰り返される。A年は主にマタイ福音書から、B年は主にマルコ福音書から、C年は主にルカ福音書から、ヨハネ福音書は3年間にそれぞれの主日相応しいテキストが振り分けられている。ただし復活節(復活日から聖霊降臨日までの8回の主日)に読まれる福音書は全部ヨハネ福音書から選ばれている。一寸、例外的なテキストとしては、復活節には旧約聖書に代わって使徒言行録からのテキストが読まれる(オプションとして旧約聖書のテキストも準備されている)。
3つのテキストのうち、中心は福音書で、福音書を中心として使徒書、旧約聖書のテキストが選ばれている。ただし、聖霊降臨後の諸主日では福音書との関連は薄く、使徒言行録以降の文書が万遍なく読まれるように配慮されているようである。
特祷は1年周期で毎年同じ祈りが繰り返される。ところで、この「特祷」、これだけ聞くと「その日のための特別な祈り」と思ってしまう。確かにその通りであるが、実は意味合いが違う。カトリック教会ではこれを「集会祈願」と訳している。これも一寸違う。英語では「collect 」と訳されている。カトリック教会では昔は「集祷」と言っていた。起源となるとかなりややこしいので省略するが、その主日に各教会で祈られる様々な祈りを集めた祈りということを意味しているようである。昔、ローマ市内に7つの教会があった頃、会衆たちはそれぞれの教会で礼拝を行った後、その日に主教が司式をする教会まで他の6つの教会の会衆が行進(プロセッション)して集まり、主教によるミサに参加するという習慣があったと言われている。その時に主教が捧げた祈りが「集められた祈り」という意味で「コレクト」と呼ばれるようになったという。
現在は逆にこの祈りを各教会で捧げることによって全教会の礼拝が一つの礼拝になると理解されている。つまり全教会は「特祷」によって結ばれ、同じ礼拝に参加しているということを意味している。
古い祈祷書では、降臨節第1主日の特祷は降臨節の期間中、つまり「降誕日の備え日(前日)の朝まで、毎日その日の特祷につづいて用いる」と規定されていた。同様に大斎節では大斎始日(水曜日)の特祷は「当日の朝から受苦日の前夕まで、毎日その日の特祷に続いて用いる」と規定されていた。これらの規定は現行の祈祷書では削除されている。非常に重要な特祷だと思うが、非常に残念なことである。

金丸 勝彦さん、宮脇 温子さん、濱 和弘さん、他31人が「いいね!」と言っています。


文屋 善明
沖縄は勝った。

塩澤 紀子さん、藤岡 秀興さん、Yutaka Tanabeさん、他45人が「いいね!」と言っています。

Yoko Rin Yonaha · 共通の友達: 清水 晴好さん、他16人

文屋 善明 本当の勝負はこれからです。

児島 良一 那覇市長選の結果も驚きでした。(^^)

文屋 善明 琉球が大和に勝った。

杉浦 紀明 https://www.youtube.com/watch?v=0w9JRlV_ICo

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