ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

国家の庇護 パスポート

2009-08-13 16:04:25 | 旧満州の思い出
        【写真:真夏の藤棚(正助ふるさと村にて)】

一昨日、「旧満州、終戦後の暴虐」というタイトルで、朝日新聞に掲載された元福岡銀行会長の佃亮二さんの戦争体験を紹介したが、その中で佃さんは「戦争と終戦後の体験で、国民を保護すべき『国家』とは何なのかを考えさせられました」と述べておられる。当時、小学生であったわたしにはそこまで考えることはしなかったが、やはり問題はそこにあったのである。国家の庇護を剥奪された、言い換えると国家から「棄てられた(=棄民)」人間の悲劇と不安、それが佃さんの敗戦経験であり、またわたし自身の「国家」というものの不在の経験であった。
日本人が日本国内で生活している限り、「国家」というもの、特に「国家の庇護」というものをあまり意識しない。しかし、一歩国外に出たら、そこは完全に「自己責任」の状況である。病気をしようと、交通事故に遭おうと、すべてを自分自身で処理しなければならない。
もちろん、国家間レベルで「友好関係」が維持されている限り、人道的見地によって最低限の庇護を受けることが出来るが、その場合には、自分自身が「友好国の人間」であることを証明しなければならない。
わたしが仕事の関係でちょくちょく海外に出かけていた頃、パスポートを手にしてツクヅク眺めたことがある。そのとき、面白いことに気がついた。パスポートは単純に身分証明書だと思っていたが、実はそれだけではなかったのである。本人が通過しようとしている相手国の政府に対する日本国政府からの保護依頼の文書がパスポートの本来の機能である。パスポートには次のような文章が記されている。
『日本国民である本旅券の所持人を通路故障なく旅行させ、かつ、同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係の諸官に要請する。 日本国外務大臣(公印)』
『The Minister for Foreign Affairs of Japan requests all those whom it may concern to allow the bearer, a Japanese national, to pass freely and without hindrance and, in case of need, to afford him or her every possible aid and protection. 』
国家というものの庇護がこれ程端的に記された文書は多くはない。国家間の友好関係がなくなると、その国では誰も生命財産を保護してくれるものはなくなる。それこそ、拳銃でも機関銃でも、あるいは日本刀であれ自分自身で武装して守らなければならない。日本国政府は、自国民だけではなくパスポートを所持して正規に入国した外国人の生命財産を保護する責任がある。それが公式に外交関係を結んでいる国家間の約束である。
実は、我が家は終戦と同時に、日本政府からの庇護を失い、「適性国」ですべての財産を奪われ、命からがら引き揚げてきたのである。国には国民の生命持参を保護する責任があり、国民はそのために税金を納めている。国が国民の保護を放棄したら、誰が守ってくれるのか。

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