ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:2017AE5旧約 顕現後第5主日の旧約聖書

2017-02-03 06:54:01 | 説教
断想:2017AE5旧約 顕現後第5主日の旧約聖書(2017.02.05)

静かに待つ (ハバクク3:1~6、17~19)

<テキスト>
1 預言者ハバククの祈り。シグヨノトの調べに合わせて
2 主よ、あなたの名声をわたしは聞きました。主よ、わたしはあなたの御業に畏れを抱きます。数年のうちにも、それを生き返らせ、数年のうちにも、それを示してください。怒りのうちにも、憐れみを忘れないでください。
3 神はテマンから、聖なる方はパランの山から来られる。[セラ] その威厳は天を覆い、威光は地に満ちる。
4 威光の輝きは日の光のようであり、そのきらめきは御手から射し出でる。御力はその中に隠されている。
5 疫病は御前に行き、熱病は御足に従う。
6 主は立って、大地を測り、見渡して、国々を駆り立てられる。とこしえの山々は砕かれ、永遠の丘は沈む。しかし、主の道は永遠に変わらない。
17 いちじくの木に花は咲かず、ぶどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる。
18 しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。
19 わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる。
指揮者によって、伴奏付き。

1.預言者ハバクク
預言者ハバククが活動した時代は、隆盛を誇っていたアッシリア帝国が衰退し、南から新興国バビロンが勢力を伸ばし、パレスチナ地方に進出し始めた頃に活動したと思われる。アッシリアがバビロンに滅ぼされたのがBC609年、ユダ国がバビロンの支配下に入ったのが605年、おそらくハバクク書はこの4年間に書かれたものと思われる。

2.ハバククの思想
彼の思想はキリスト教、特に使徒パウロに非常に大きな影響を与え、パウロの「信仰義認」の思想はロマ1:17「正しい信仰は信仰に生きる」というハバククの言葉を引用していることに現れている。この言葉ハバクク書を開いてみると「神に従う人は信仰によって生きる」(ハバクク2:4)と訳されているが、この「神に従う人」という訳語は新共同訳の一つの問題点で通常は「義人」と訳されている単語である。ロマ書の方の訳語も少し変で、口語訳では「信仰により義人は生きる」と訳されていた。両方の訳語には癖があるが、元々は同じ言葉で「義人はその信仰によって生きる」という言葉である。
預言者ハバククの中心思想は、義人とはどういう人なのか、その逆にどういう人が罪人なのかということにある。この点で使徒パウロが強く影響を受けたのであろうと思われる。

2.バビロンの罪
まず第1章の初めの部分で預言者はユダの民の現状を訴えている。暴力と不正とが横行し、正義が曲げられ、悪人たちが善人たちを圧迫している(2~4)。こういう状態ではやがてヤハウェはバビロン軍を用いてにユダの民を懲らしめることになるだろう(5~6a)。これはハバククが国際状況を見ての現実的に心配していること出会ったに違いない。そこに何らかの神の託宣があったのだろうと思われる。しかし、この点がハバクク書における最も重要なポイントである。バビロン軍の暴虐は国内の暴力や不正とは次元が違う。彼らは人を人とも思わない仕方で暴虐の限りを尽くす(6b~11a)。しかしヤハウェは最後にはバビロンに対して鉄槌を下される。それは彼らは神を畏れることがないし、自らを神としているからである(11b)。
ここまで述べてハバクク自信一つの疑問に直面する。正義の神が悪の力を用いて神の民を懲らしめてもいいものであるのか(12~17)。
この問いへのヤハウェの答えが第2章にある。しばらく待っているとやがてヤハウェからの返事があった。「幻を書き記せ」(2)という。しかし何を書き記せというのだろう。ここにはその語句は見られないが、全体から判断するに、神には神の計画があり、その計画は必ず実現する。すぐにそれが実現しないとしても、必ず実現するから「たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」(3)と、待つことが強調される。
その文脈でハバクク書における最も重要なメッセージが述べられる。新共同訳では「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」と訳されている。これをフランシスコ会訳では「見よ、心がまっすぐでない者は崩れ去る。しかし、正しい人はその誠実さによって生きる」。新改訳は「見よ、こころのまっすぐでない者は心高ぶる。しかし正しい人はその信仰によって生きる」。岩波訳は「見よ、増長している者を。その魂はまっすぐではない。義しい者は、その信仰によって生きる」。後半の部分はかなりはっきりするが、前半がよく分からない。おそらくマッソラ原文にかなり難しいことがあるのであろう。そうなると、ここでは、後半から前半を想像すると、今、威張っている連中は心がゆがんでいるので、まともな終わり方をしないであろう。しかし、義人といわれている人たちはその信仰の故に生き残ることが出来る。この「今、威張っている連中」にはユダの民の中の連中でもあるし、同時にバビロン人も含んでいるのであろう。5節以下で、延々とバビロン人の悪が数えられている(5~19)。ここには占領軍が敗戦国で犯すあらゆる悪が述べられ、5つの呪いの言葉「災いだ」(6,9,12,15,19)がある。その中でも最大の罪とは偶像礼拝の強要である。「災いだ、木に向かって『目を覚ませ』と言い、物言わぬ石に向かって『起きよ』と言う者は。それが託宣を下しうるのか。見よ、これは金と銀をかぶせたもので、その中に命の息は全くない」。
そしてこれらのバビロンの悪に対してヤハウェは黙っていない。「しかし、主はその聖なる神殿におられる。全地よ、御前に沈黙せよ」(20)。
ここまでがハバククの預言の言葉で、第3章ではハバククの祈りが記録されている。

3. このハバククの祈り
今日のテキストは第3章ハバククの祈りである。19節によると神殿における礼拝の中で弦楽による伴奏付きで歌われたようである。1節の「シグヨノトの調べにあわせて」という言葉があるが、これは「嘆きの歌」という意味で、おそらく哀調に満ちた調べであったと思われる。従って、「祈り」というより歌「反戦のような音楽を想像したらいい。
ここでの預言者ハバククの願いはただ一つ。バビロンによる支配からの解放である。そのことをただ一つの言葉で言い表している。それが2節の真ん中にある「生き返らせてください 」である。本日はこの第2節の言葉に焦点を合わせて考える。

主よ、あなたの名声をわたしは聞きました。
主よ、わたしはあなたの御業に畏れを抱きます。
数年のうちにも、それを生き返らせ、
数年のうちにも、それを示してください。
怒りのうちにも、憐れみを忘れないでください。

「あなたの名声」、口語訳では「あなたのこと」、岩波訳では「あなたの噂」、これは単純に1章、2章で述べられているヤハウェの約束であろう。あそこで「待て」といわれているのを受けて、数年のうちに実行して下さいと歌う。ここで注目すべき言葉は「生き返らせてください」。フランシスコ会訳では「それを再現させ」、新改訳では「それを繰り返してください」、岩波訳では「それを告知してくださるように」とそれぞれ苦労して訳している。要するにバビロンの捕囚によって死んだようにになっている民族を生き返らせてくださいということ願いであろう。文語訳はなかなか含蓄がある。「汝の運動(わざ)を活発(生きはたら)かさせ給え」。この句についての興味深い注解を紹介しておく。これは私個人にとっても深く関係している。私が東京聖書学院の学生であった頃、旧約聖書を教えていただいた米田豊教授の『旧約聖書講解』のこの部分で次のように書いておられる。「2節の『活発かさせ(リバイブし)給え』とは、よくリバイバルの祈祷として引用される言葉である。この節をパラフレーズすれば『エホバよ、我汝の誉れをききて、畏み拝す。エホバよ、願わくは此の艱難の年々、悲哀の真ん中に汝の古の御業を繰り返し、汝の力を表し給え。御怒りの中にも憐憫を憶い給え』となる。かく先ずリバイバルのために祈り、次いでシナイ山における神の御稜威と紅海徒渉、予習あの時代の勝利等、古えにおける救いの御業を詩的の美わしき言をもって賛美し(3~15)、それによりて現在の艱難の中にも将来の救いを確信し、大韓機をもって結んでおる(16~19)」。ついでにもう少し引用しよう。「預言者は1章において疑問をもって始めたが、2章において高ぶれる敵の滅亡と義しき者の信仰によれる救いとを黙示せられてより希望と歓喜に溢れ、本章は全章を通じて信仰の凱歌である。彼をしてかく疑問より讃美へ、悲観より楽観へ転調せしめたもうのは信仰である」(下巻696頁)。

以上のように読むとき、本日の日課からは外れているが、16節後半は非常に重要である。「わたしは静かに待つ。我々に攻めかかる民に、苦しみの日々が臨むのを」。神に対する絶対的な信仰とは「静かに待つ」ということにほかならない。

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