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ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨日(2018.5.20)

2018-05-18 13:28:54 | 説教
断想:聖霊降臨日(2018.5.20)
聖霊経験ーーリバイバルについてーー   ヨハネ20:19~23

<テキスト、教会的編集者>
19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

<以上>

1.聖霊降臨日に読まれる福音書
毎年、聖霊降臨日の福音書は、ここかあるいはヨハネ14:8~17になっている。後者の方は原本の言葉と教会的編集者の言葉とがかなり複雑に入り組んでいる。(もちろん、「原本」と「教会的編集者」との区別が認識される以前のテキストである)。
通常、この個所は復活にイエスが登場したという場面であるが、ここでの重要ポイントは復活者イエスが弟子たちに「聖霊を受けよ」いか、現実世界における教会の課題が述べられている。(ヨハネ福音書においては、40日間の権限者の現れとか、焦点とか、は50日目(ペンテコステ)の出来事については、一切知らない。

2.使徒言行録を読んでいて気付くことであるが、4章までと5章以後とでは明らかに雰囲気が違う。もちろんそれは使徒言行録の著者、つまりルカの編集方針によるとも思われるが、それよりもむしろ最初期の教会の雰囲気そのものによるものが大きいと思われる。使徒言行録はそのような雰囲気を次のように語る。「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(使徒2:41~47)。
このような雰囲気は「美しい門」での奇跡とそれをめぐるペトロの説教とその後の出来事をはさんで、4章の終わりまで続き、「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」(4:32-35)という言葉で閉じられる。この最後の財産の共有ということをめぐって、一種のスキャンダル「アナニヤとサフィラ事件」がおこり、それ以後初期の教会の一種独特の雰囲気はなくなる。
このごく初期の短い期間の独特の雰囲気の中心に、ペンテコステ(五旬祭)の出来事がある。この日の出来事については、ルカだけが述べていることであり、ルカ独自の歴史観(神学)にそって描かれている。ルカによると、この出来事こそがイエスが在世当時食事の席で弟子たちに命じられた「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(使徒言行録1:4,5)という約束の実現である、とされる。
つまり、ルカにおいてはペンテコステの出来事こそが「教会の時代」の幕開けであり、その意味で一回切りエポックメイキングな出来事として描かれている。実際に起こった出来事はルカが描くようではなかったとしても、教会という一つの新しい運動が始まるときに一種の集団的な興奮状態が発生したと考えることは当然であろう。使徒言行録の4章までの部分で見られる教会の雰囲気はそのような集団的興奮状態である。その後のキリスト教史においてしばしば見られるいわゆる「リバイバル(信仰復興)運動」の原型がここに見られる。

3.教会史におけるリバイバル現象
教会史において、しばしば見られる霊の高揚期を「リバイバル」と表現する事自体が、使徒言行録第2章に記されたペンテコステの出来事を原型とするという理解を前提としている。
わずか100年あまりの日本におけるキリスト教史においてもいくつかのリバイバルと呼ばれる現象が起こっている。その中でも大正8年および昭和5年に起こった日本ホーリネス教団における2つのリバイバルはその後の日本のキリスト教史においても「聖霊運動の源流」(池上良正「聖霊派の現在・過去・未来──ホーリネス教会に起こった二つのリバイバルについて──」(第5回宗教社会学研究会の記録)とされる。
わたしの両親は昭和5年のリバイバルの体験者で、この体験の結果、それまでの職業を辞め、聖書学院に入学し、牧師になった。両親の話によると、その時のリバイバル現象はすさまじいものであったらしい。リバイバルという現象は、信仰者にとっては聖霊の働きであり、客観的現実である。従って、その経験は生涯にわたって強い影響を残し、「あの経験をもう一度」という願いは生涯を通じて持続し、その経験を共有する者の連帯感は強い。
このリバイバル経験というものを再現するための「信仰技術」というべきことをかなり工夫され、ある種の宗教的興奮というようなものを作り出すことが出来るが、それは本物のリバイバルとは異なり、失望に終わるのがほとんどである。最近のペンテコステ系のカリスマ運動にホーリネス系の信仰者たちが冷ややかなのはそういう事情がある。(わたし自身はリバイバルという現象を直接的に経験したわけではないが、少なくともそれを直接的に経験し、その再現のために涙ぐましい努力をしている人たちの影響の元に育ったので、いわゆるカリスマ運動に対する冷ややかさは共感できる。)

4.聖霊について
「聖霊」について考えたり、言葉で表現したりすることは非常に難しい。「神」について語ることは、いわば哲学的な理屈の問題で、その意味では考えたり、話したりすることはそれ程難しい事柄ではない。またイエス・キリストについて話すことも、いわばヒューマニズムのレベルで考えることもできる。ところが聖霊ということになると理屈でもないし、道徳や倫理のレベルで考えたり、語ったりすることができない。むしろ、きわめて宗教固有の問題であり、私自身の全人格を揺さぶるような経験である。従って、現実的な生き方に深く関わりつつ、常識的な倫理や道徳のレベルを超えたところがある。と言っても非常識ではない。そこが聖霊について考えるときの難しさである。たとえば、今日のテキストにおいても「(聖霊を受けたら)、誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」(20:22,23)という言葉は、日常的な「赦し合い」や「愛し合い」のレベルで言っているのではないことは明白である。つまり、聖霊を受けた人が誰かの罪を赦した場合、その人の罪は神の前でも赦される、というのである。そんなことは、私たちの常識では考えられない。私が赦せるのは、私に対する罪だけである。それが日常生活のレベルの常識である。ところが、聖霊を受けると、私たちは他人と神との間に立ち、執り成しの祈りを捧げ、赦しを願うことが出来るようになる。言い換えると、人間のレベルを超える。考えてみると、これは恐ろしいことである。
リバイバル状況、あるいはその原型となったペンテコステの出来事に見られるように、聖霊経験というものは日常性を越えた非日常的な人間関係や異常に昂揚した精神状況を示す。しかし、その状況はその人たちがこの世界で生きている限り、何時までも続くものではない。初期の教会における場合、迫害という強烈な外圧によって潰されたとも言えるし、それよりもアナニアとサフィアの事件のように組織内部からの崩壊の方がより大きな原因となって急激に冷却し、日常性へと回帰する。もちろん、一人ひとりの個人の内部では強烈な思い出として、その後の人生に大きな影響を残すことは否定できない。

5.常識の枠
日常生活において私たちは常識的に生きることを強いられている。常識に逆らって、あるいは非常識に、要するに「常識にはずれること」は、世間からはみ出すことを意味する。確かに、世間の常識に従って生きていれば楽である。かくして、大人たちは子どもに常識に従う人生を無言のうちに強いる。常識の範囲の中で、常識に従って生きることは、言いかえると「個性」を捨てるということにつながり、自己を求める純真な心の持ち主には絶えがたいことになり、手っ取り早く「自己」を主張しようとして意識的に「非常識」な道を選ぶ。若い犯罪者たちのただ「目立ちたかった」という言葉を語る時に、私にはそのもだえを感じる。聖霊経験は、そのような閉塞的な日常性という強固な殻を破り、人間を解放する。また同時に、この聖霊経験を共有することによって、強固な人間関係が築かれる。

6.憑依(ひょうい)現象
厳密な意味で、このような現象を宗教学では憑依(ひょうい)という。憑依(spirit possession)とは、「超自然的存在が来訪し、トランス状態に入ること」、と説明されている。古代社会においては、民族的あるいは個人的レベルで、危機的な状況において、難しい判断を下す際に頼りにされた現象である。確かに、人間はトランス状態になると、思いもよらない能力が発揮される。
現代人の常識ではなかなか理解できない現象であるが、注意深く社会を観察すると、現代でもこの現象はいろいろな場面で広く見られる。本物の憑依現象かどうか断定は出来ないが、たとえばマスコミで活動している細木数子の発言などを見ていると、あの断定の仕方や語り口などはかなり憑依的である。しかし、語っている内容はいたって常識的で、その点が一般受けするのかも知れない。
現実に起こっている事柄について一つの判断をしようとするとき、いろいろな要素が絡み合って結論を下すことが非常に難しい。そういう場合に、様々な要因を切り捨て、最小の条件に絞り込んで断定する。これは常識レベルにおける偽憑依である。
結局、本物の憑依か偽物かを判断するのは語る者と語られる者との信頼関係である。

7.本日のテキスト──権威の問題
本日のテキストでは、イエスは弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と語っておられる。つまり、この場で聖霊を授けておられる。その上で、聖霊を受けたら、どうなるということについて、ただ一つのことだけを述べている。「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」(20:23)。
これは非常に重要な発言で、現実の人間にそんなことは許されるのかと思う。誰か自分以外の人間と神との関係を決定する権限というものがあり得るのか。共観福音書にもこれに類する発言がある。ペトロが「あなたはメシア、神の子です」と告白したとき、イエスはペトロに「天国の鍵」を授け「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16:19)と語られた。マタイでは信仰を告白したペトロにこの権限が与えられたとし、ヨハネでは聖霊を受けた者にこの権威が与えられているとするのは興味深い。ルカやマルコにはこのような叙述は見られない。

8.聖霊を受けた者の権威
聖霊を受けた者の判断は、天に通じるというイエスの発言は重要である。聖霊を受けるということは特別な経験である。普段の私にはない特別な能力が与えられ、その能力によって赦したり、断罪したり、つないだり、切ったりする判断力が与えられる。
日常的なレベルで、私が誰かに対して「あなたは嫌いだ」と言うとき、それは私自身の好き嫌いの感情を述べただけで、その人自身の価値を述べたものではない。同様に「あなたは間違っている」と言ったとしても、それは私自身の価値観に従って相手を評価しただけで、その人のことについてはまったく別な評価もありうる。ところが、学会などで権威のある人が誰かの論文を「あれは駄目だ」と評価した場合、その言葉は普遍的な評価として絶対的となる。権威というものはそういうものである。
「誰でもあなたがたが赦せば、その罪は赦される」という場合、その「赦し」は個人的なレベルを超えて、普遍的な価値を得て、絶対的なものになるということを意味する。これは大変なことである。聖霊を受けるとき、私たちはそういう権威を得る。それは、最早通常の私ではない。聖霊が私に乗り移って、語らせているとしか考えられない。生きることにあくせくしている日常的なレベルの私の能力をはるかに越えた特別な興奮状態にある私である。 「火事場の馬鹿力」という諺がある。火事というような緊急事態になると、重たいタンスを一人で担ぐなど普段とは異なる力が出てくることを語っている。これは精神力においても、あるいは知的な能力においても、異常な能力が発揮される。作家や作曲家の創造力なども一種の興奮状態における能力である。それを私たちはインスピレーション(霊感)と呼ぶ。

9.聖霊を受けなさい
イエスの「聖霊を受けなさい」という言葉は、今まだ受けていないが、これから受けなさい、あるいは受けるであろうという意味に理解してしまう。しかし、ヨハネはそういう意味でこの言葉を述べているのだろうか。私にはそうとは思われない。 イエスの息が吹きかけられたとき、弟子たちは聖霊を受ける。イエスの息の吹きかけは、今ここで、というよりも厳密に言うと、イエスと3年間共に生活をしたという事実である。その3年間、彼らは毎日「イエスの息」を受けていた。つまり大きな流れから言うと、弟子たちが3年間イエスと共に生きた期間が、聖霊を受けた特別の期間である。その期間、弟子たちは通常の人間の能力以上のことをしてきた。その3年間こそが、いわば非日常性の中での生活に他ならない。
そこでは、毎日毎日が興奮状態であった。毎日がお祭りと言った方が実態に合っているだろう。この点について、イエスは面白いことを言っている。人々がイエスのところにきて、「ヨハネの弟子とファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と尋ねた。その時イエスはこう答えておられる。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿がいるかぎり、断食はできない」(マルコ2:19)。つまりイエスと共にいるときは、婚礼パーティーなのである。日常的な、平穏な日々ではない。そこでは日常生活における常識を越えた考え方や、生き方が求められていた。言い換えると、日常生活における様々なしがらみから完全に自由にされた別天地であった。イエスと共に過ごした、聖霊に満たされた生活とは、そういう解放された生活を意味する。そこでは、そこにふさわしい特別な感性に従って生活した。

10.日常への回帰
しかし今、イエスは彼らの元から去ろうとしている。これからは彼らはイエスなしに生きなければならない。最早、ハイテンションな日々はない。弟子たち一人ひとりは日常性の中で生きることになる。その日常性においてイエスとの共同生活がどれ程生きてくるのか、それが問題である。弟子たちにとってはこれからが勝負の時である。
彼らの生活は特別な興奮状態が醒めて日常に回帰する。回帰した日常においてイエスと共に過ごしたあの自由な経験がどれだけ生かされるのか。具体的に言うと、聖霊経験において人間の解放を経験した者が、日常生活においてどれ程解放された者として生きるのか。それが彼らの課題でもあった。最初期の弟子集団は一種の「共同生活」であったに違いない。しかし、そのような集団生活が何時までも継続することは非常に困難なことであり、その生活を支える「経済(収入源)」をどうするのか。いろいろな試行錯誤があったに違いないが最終的に落ち着いた制度がおそらく、「主日生活」である。
さて、問題は私たちのことである。私たちも弟子たちが経験したようにイエスと共に生きる空間を共有したいと願う。しかし、それはできない。しかし私たちにとって重要な課題がある。それは主日礼拝である。最初期の弟子たちが残してくれた遺産としての「主日礼拝」こそ、私たちにとって特別時間であり、祭りの時である。そこで、ささやかではあるが、弟子たちがイエスと共に過ごした時と同じ時を経験する。そこで私たちはイエスの肉と血とに与り、聖霊を受ける。そして、そこで経験したことが月曜日から土曜日までの普段の生活で生かされる。
その意味で聖餐式における最後の祈りは重要である。

永遠にいます全能の神よ、この聖奠にあずかった者を、み子イエス・キリストの尊い体と血をもって、養ってくださることを感謝します。主はこれによって、わたしたちがみ子の体の枝であり、み国の世継ぎであることをいよいよ明らかにしてくださいました。天の父よ、わたしたちはみ子によって、心も体も生きた供え物として献げます。どうか、聖霊によってわたしをこの世に遣わし、み旨を行う者とならせてください。栄光は世々に限りなく、父と子と聖霊にありますように。 アーメン

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