ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 06/24~06/30

2012-07-03 09:58:44 | ローズンゲン
losungenj 2012.06.24(sun) 
見よ天にはわたしのために証人があり高い天にはわたしを弁護してくださる方がある。(Job16:19)
神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。(1Tim2:5)
私の黙想:
私が存在する限り創造者なる神は存在する。同時に問題性を抱えた人間にとって、神に対して人間の問題性を理解し、問い、弁護する者も存在しなくてはならない。その方が居られて初めて神の完全性が貫徹される。これがヨブ記が提起するユダヤ教の根源的問題である。この問いに答えられない限りユダヤ教は不完全である。エレミヤやイザヤはこの問いに答えを出そうとした預言者であるが、結局、ヨブの問題意識にさえ到達できなかったのではなかろうか。
<追記>
イエスはヨブのこの問いをどう受け止めたのだろうか。今のところ暫定的な答えではあるが、イエスは無邪気さ(=幼子の心)に答えを見出したのではなかろうかと思う。今日の主日、礼拝に集うすべての人に主の祝福が豊かにありますように。

losungenj 2012.06.25(mon)
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われた。(Ex3:14)
わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。(Rev21:6)
私の黙想:
神が名のる。名前のない神が自ら名を告げる。敵か味方か分からない相手が、自ら名のることによって先祖の時代から関わりのある相手であることを知る。今まで会ったことがないと思っていた父親が突然目の前に現れて「私はお前の父親だ」と宣言したようなものである。

losungenj 2012.06.26(tue)
わたしは彼らに恵みを与えることを喜びとする。(Jer32:41)
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(Joh3:16)
私の黙想:
預言者エレミヤを通して与えられたヤハウェの言葉。まるで恋人に求婚を迫る愛の告白の言葉である。残念ながらこの言葉はイスラエルの民には届かなかった。しかし、ヤハウェは諦めない。執拗に迫る。民は益々頑なになる。仲介者エレミヤはただウロウロするだけ。

門叶国泰 直訳(KJ)は、「I will rejoice over(アル) them to do them good.」この箇所で用いられているマソラ原文の動詞「喜ぶ」には「アル(=over)」が付いている。同じ用法に、申命記28:63、30:9、イザヤ62:5、ゼファニア3:17、詩編119:162がある。日本語でこの「アル」を訳出することはなかなか難しい。「彼らを喜ぶ」では、「彼ら」が目的語になってしまう。「喜びとする」では、対象が不明瞭。新改訳(フランシスコ会訳)は、「彼らをわたしの喜びとし」と訳しているが、直訳としてはこれが精一杯の訳であろう(意味は反って分からなくなっているが!)。この点で、英訳は容易である。(朝から、辞書と遊んだだけのこと)
文屋善明 辞書と遊んだだけでは決してない。確かにこの部分の翻訳は難しい。何しろ片思いのラブレターなのだから。ハッキリ言ってしまえば、「貴女の喜びは私の喜び、私は貴女が喜ぶなら何でもする」という意味であろうと、私はイメージします。

門叶国泰 「片思いのラブレター」は頂きます。愛されていることに気がつかないで過ごす日々、気がついた時の驚きと喜び、イエスの視線を感じたペトロに思いを重ねます。

losungenj 2012.06.27(wed)
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。(Ps23:1)
キリストの言葉:わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(Joh10:10-11)
私の黙想:
旧約文学の珠玉の一句。この言葉でどれ程多くのユダヤ教徒、キリスト教徒が慰められ、励まされたことだろう。この「主」という言葉を普通名詞化してはならない。ユダヤ人には「ヤハウェ」、キリスト教徒には「キュリオス」。私には「あなた」。

losungenj 2012.06.28(thu)
力強い御業のゆえに神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。(Ps150:2)
神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。(2Cor1:20)
私の黙想:
ここで用いられている「ゆえに」は賛美する理由ではなく、「力強さ」や「大きな御力」が神の属性であることを示す言葉である。人間には神そのものを賛美する能力も資格もない。もし神を賛美することが許されるとしたら、それは神が為さっている行為だけである。ここでの「賛美」とは現代風に表現すると「認識」を意味する。

losungenj 2012.06.29(fri)
御手には力と勢いがあり、あなたに立ち向かうことのできる者はいません。(2Chr20:6)
神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。(1Cor6:14)
私の黙想:
「うちの父ちゃん、強いねんぞ」と自慢する子供のようなもの。歴史的事実はともかく、子供はその言葉には少しの濁りもない。この思いが国を支え、列強の間での弱小民族の自尊心を高めている。これが「ボクの父ちゃん、社長だぞ」となると、この子供の将来を心配した方がいい。

losungenj 2012.06.30(sat)
主よ、あなたの御名のために罪深いわたしをお赦しください。(Ps25:11)
イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(Luk23:34)
私の黙想:
神との関係において「存在することが許されている」ということと「赦されて存在している」ということの違いとは何か。日本人であるキリスト者は、この2つの文章の間に挟まれて悩む。思い切って後の文章を切り捨ててしまったらキリスト者でなくなるのか。
イエスと律法学者との議論でイエスは言われた。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。(マタイ9:5-6)

ユダヤ人にとっては神との「契約違反」が罪であり、その罪を赦す権利があるのは神のみである。日本人にとって先ず神との「契約関係」があったのか、どうか。むしろ日本人の深いところでの神との関係は「存在することが許されている」ということであり、違反とは人間であることを止めるということである。つまり「獣」になることが罪である。なんて言うことを考えています。

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