ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:顕現後第1主日・主イエス洗礼の日の旧約聖書

2017-01-06 08:05:16 | 説教
2017A旧約 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日(2017.01.08)
心に適う者  イザヤ 42:1~9

<テキスト>
1 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ彼は国々の裁きを導き出す。
2 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。
3 傷ついた葦を折ることなく暗くなってゆく灯心を消すことなく裁きを導き出して、確かなものとする。
4 暗くなることも、傷つき果てることもないこの地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
5 主である神はこう言われる。神は天を創造して、これを広げ地とそこに生ずるものを繰り広げその上に住む人々に息を与えそこを歩く者に霊を与えられる。
6 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼びあなたの手を取った。民の契約、諸国の光としてあなたを形づくり、あなたを立てた。
7 見ることのできない目を開き捕らわれ人をその枷から闇に住む人をその牢獄から救い出すために。
8 わたしは主、これがわたしの名。わたしは栄光をほかの神に渡さずわたしの栄誉を偶像に与えることはしない。
9 見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前にわたしはあなたたちにそれを聞かせよう。


1. 主イエス洗礼の日
顕現後第1主日は「主イエス洗礼の日」でもある。ルカ福音書によるとイエスは誕生の8日目に割礼を受け、イエスという名前が付けられてと言われているが(ルカ2:21)、イエスがいつ洗礼を受けたのかということは記されていない。ただ、洗礼者ヨハネが登場し、人々に洗礼を授けるという一種の民族刷新運動を展開し、「民衆が皆洗礼を受け」ているときに、「イエスも洗礼を受けた祈っていた」という記事がある(ルカ3:21)。マルコは軽く、「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(マルコ1:9)とだけ述べている。マルコの記事を深読みすると、イエスはヨハネの民族刷新運動に共感して、わざわざナザレから丸二日ほどの歩いて、ヨハネの元にきたらしい。マタイ福音書ではその点をはっきりと「洗礼を受けるため」に出てきたという(マタイ3:14)。ところがそのとき洗礼者ヨハネは「あなたは洗礼を受ける必要がない」と断っているが、イエスがいろいろ理屈を付けて、とにかく洗礼を受けたらしい。ヨハネ福音書にはイエスの洗礼の記事はない。ともかく、イエスが洗礼を受けたという出来事がイエスが公に世に現れた最初の出来事だということでこの日が「主イエス洗礼の日」とされた。従って、1月1日のイエス命名の日から顕現日を間においてその次の主日が顕現後第1主日で、それが同時に「主イエス洗礼の日」で、この間に30年近くの時間差がある。
共観福音書ではイエスが洗礼を受けたときの状況を描かれている。そのポイントはイエスが洗礼を受けたとき、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」という神の言葉があったということである。「心に適う者」という意味は「ずっと私と一緒にいて欲しい者」「一緒にいるだけで楽しい相手」「一緒にいることが私の喜びである」「あなたのために私は最善のことをする」という関係を示している。

2. イザヤ書42:1
さて、この日に読まれる旧約聖書は3年周期で同じイザヤ書42章1~9節が読まれる。何故、この日この個所が読まれるのだろうか。このテキストは第2イザヤ書の4つある、いわゆる「下僕の詩」(1~4節)とその付録(5~9節)で、主の下僕の使命が述べられている。<第2の下僕の詩(49:1~6)、第3の下僕の詩(50:4~9)、第4の下僕の詩(52:13~53:12)>
ここで述べられている「主の下僕」(以下、慣例に従って「主の下僕」と呼ぶ)とは誰のことか、イザヤ書研究者の間でもいろいろ説がある。第1の考え方は、共同体としてのイスラエルの民そのものが「主の僕」であるとする。その根拠はイザヤ41:849:3などである。第2の説はペルシャのクロス王、その根拠はイザヤ44:28、45:1など。第3の解釈は著者の第2イザヤ自身であろうとする。その他に、終末に現れるであろう「メシア」とする。いずれにせよ、いろいろ難点があり、決定的な見解はない。だから謎のままである。
ともあれ、1節で主の下僕を選び、立てたのはヤハウェ自身であり、ヤハウェの心に適った者であるとされている。そしてヤハウェは彼に「わが霊」を授けるので、彼は全世界に正義をもたらす、と宣言されている。2節から4節で、主の下僕がどのような生き方をするのか、何をするのかと言うことが語られ、全世界は主の下僕の登場を待っているということでこの詩は結ばれている。
5節から9節は、この主の下僕の詩に付け加えられた編集者の注釈であろうと思われる。6節の「あなた」は主の下僕を指し、ヤハウェが下僕に対してその働きを支え助ける約束が述べられている。

3.イエスが主の下僕
イエスこそ、まさに第2イザヤが預言していた「主の下僕」であると、教会は考えた。おそらく、1節の「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」という言葉がイエスが洗礼を受けられた時に天から響いた言葉と関連しているのであろう。この「喜び迎える者」という言葉は口語訳では「心に適う者」と訳されている。この言葉の出典がイザヤ書のこのテキストだと思われるからであろう。イエスが神の子であり、神の心に適う者であったということを福音書は語る。基本的にはすべての福音書はそのことを語るために書かれたと言っても過言ではない。神は彼の上に神の霊を注ぎ、イエスは神のためにすべてを奉げて33年の生涯を生き抜かれた。しかしイエスの生涯は決してこの世でいう幸福な生涯ではなかった。その生涯はまさに苦難に満ちたものであり、最後は残酷な死であった。しかしイエスはそのことを決して嘆かず、黙って生きられた。それはまさにイザヤが語る「主の僕」そのものの生き方であった。

4. 神の宣言
神はこの様な生き方をする「主の下僕」に対して「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(口語訳)であると宣言なさる。イエスが洗礼をお受けになったとき、天からこの宣言があった。しかし、この宣言はイエスにだけ向けられたものではない。それは同時に、イエスに従って洗礼を受けるすべての人々にもかけられている言葉である。そうでなければ、この言葉はイエスの洗礼という不可解な出来事の情景描写にすぎなくなる。イエスの受洗という出来事を、私たちの受洗と結びつけてこそ、この言葉は生きてくる。というよりもむしろ、この言葉によってイエスの受洗と私たちの受洗とが結びつけられる。
洗礼を受けてキリスト者になるということはイエスと共に「神の子」になることであり、また神から「わたしの心に適う者」であるという宣言を受けることでもある。イエスに従うすべての主の下僕たちにとって、たとえ、どの様に苦労に満ちた生涯であったとしても、神からこの言葉を宣言されたならば、それだけで満足である。私たちにとってそれ以上の光栄はないし、喜び、誇りはない。この一言によって、すべての苦労は報いられる。
使徒パウロは、洗礼についてこのように言う。
「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活されたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ロマ6:3-4)。
この主日から大斎節前の緑の季節になる。この期間は私たちがイエスと出会い、イエスの従い、イエスの弟子になる季節である。今年は2月19日まで7回の主日が続く。顕現節としては最長の期間である。共に、じっくりとイエスの生き方を旧約聖書の視点から学ぼうと思う。

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