ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第25主日(特定27)(2018.11.11)

2018-11-09 13:16:24 | 説教
断想:聖霊降臨後第25主日(特定27)(2018.11.11)

2枚の小銭   マルコ12:38~44

<テキスト、超々訳>
◆律法学者を非難する(12:38~40)
イエスは説教の中でこんな話をされました。「律法学者に気を付けなさいよ。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場で挨拶されることや、また会堂では上席に座ること、宴会では上座が好きな連中です。また、未亡人たちの家で飲み食いし、見えのために長い祈りをします。彼らこそが最も厳しい裁きを受けることになるでしょう」。

◆やもめの献金(12:41~44)
イエスは賽銭箱の前で座り込み、群衆が賽銭箱にお金を投げ入れる様子を観察しておられました。多くの裕福な人たちは、沢山の高額なお金を投げ入れていました。ところが、1人の見るからに貧しそうな未亡人やってきて、小銭を2つを入れました。それは1コドラント(一般に通用している通過の内の最小のもの)に当ります。そこで、イエスは弟子たちを呼び集めて言われました、「よく聞きなさい。あの貧しい未亡人は誰よりも沢山のものを賽銭箱に入れたのですよ。他の人たちはみんな、ありあまる中から投げ入れましたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからです」。

<以上>

1. 賽銭箱の前での出来事
 41節に描かれているイエスの情景は珍しい。というより、ここ以外には見られないのではなかろうか。「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた」。福音書で描かれているイエスは常に見られる立場であるが、ここでは「見る」立場にいる。イエスはどんな顔をして見ていたのだろうか。何気なくボーッとしていたのか。それとも真剣に哲学者のような目をして観察していたのか。そのようなイエスの姿を弟子たちはどういう思いで見ていたのだろうか。著者マルコはイエスは「賽銭箱の向かいに座って」というように、それがかなり意図的な観察であったことを示唆している。同じ場面を描くのに、マルコの文章を参照しているはずのルカは「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた」(21:1)と語る。同じ場面を描くのに両者の表現にはかなり違いが見られる。ルカは金持ちたちと貧しいやもめのとを対照的に描いている。それに対して、マルコは「群衆が賽銭箱に金を入れる様子を」イエスは見ていた、と記す。つまり、誰かを意図的に見るというよりも、多くの人々がお金を入れる様子を見ている。そこにはいろいろな人々の姿が観察の対象になっている。つまりマルコはイエスが「見ている」ということそれ自体に関心がある。

2. 「見る(=テオリア)」
その意味では、ここで用いられている「見る」という単語も慎重に選ばれている。ギリシャ語にはいくつかの「見る」ということを意味する動詞があるが、ここで用いられている「テオレオー」という動詞は特別な意味あいを持っている。理由はよく分からないが、ルカはマルコが用いている「テオレオー」という単語を避けて、ごく一般的な動詞「エイドン」という言葉に変えている。ところが非常に興味深いことは、この直後に置かれている神殿崩壊の予告においては、マルコは「エイドン」という動詞を用い、ルカは逆に「テオレオー」を用いている。つまりマルコはイエスが賽銭箱の前の情景を見る場合にテオレオーという動詞を用いているのに対して、ルカはテオレオーという言葉を神殿を見るという場面で用いている。その理由については、いろいろ詮索する必要があろうが、ここでは深入りしない。
マルコがどういう意図を持ってこの「テオレオー」という単語を用いたのかということと、あまり関係がないかも知れないが、もう少しこの言葉について考えたい。
「テオレオー(=見る)」という動詞の名詞形「テオリア」という言葉はギリシャ哲学においては非常に重要な概念で、プラトンをはじめアリストテレス等の哲学者たちによって議論された言葉である。哲学用語事典等では通常「観想」という言葉に翻訳され、「感覚では直接に掴むことができないものを、頭の中で考え、心の目でそれを見ようとすること」、あるいは「物事の真相を把握する活動」などと説明されている。アリストテレスは人間の活動を「テオリア(観想)」、「プラクシス(実践)」、「ポエシスあるいはテクネー(制作)」と3つに分け、そのうちでテオリアを人間の精神活動のうちで最も高貴なものであるとした。このテオリアによって把握された内容が「セオリー(=理論)である。
つまり、「テオレオー」という見るは、目の前の現象を見ることによってその現象の真相に迫ることを意味している。これがなかなか難しい。リンゴが木から落ちるという現象を誰でも見ているが、この現象を通して「引力」を「発見する」ことはそう簡単に誰にでもできることではない。

3. 人間の真相
イエスは賽銭箱の前で起こる出来事を見て(テオレオー)いた。賽銭箱の前で起こっている現象を通して人間の真相を見ている。賽銭箱の前は人間の真相を見るのにふさわしい場所である。見ようとしているものは抽象的な人間の本質というようなものではなく、具体的なひとりひとりの人間の真相である。その人間がどういう生き方をしているのか、その人の願いは何か、その願いを実現するために何をしようとしているのか。その人の賽銭箱の前での仕草、態度、捧げ方(投げ方)、金額等を注意深く見れば、その人自身のあからさまな真相が見えてくる。それは医者が患者の血液を採って、その人の生活習慣や性格や健康状態を判断するのと似ている。
イエスは大勢の金持ちたちがお互いに競い合って大金を賽銭箱に投じているのを見た。彼らは明らかに見られていることを意識している。いやらしい。その中で、一人の貧しいやもめが、ソッと2枚の小銭(文語、口語では「レプタ」、新共同訳では「レプトン銅貨」、田川訳では「小銭」と訳した上で「コドラント」)(当時の最小の硬貨)を入れているのも見た。おそらく、もじもじとしていたのだろう。イエスが弟子たちに注意を喚起する余裕があったことから推測される。その態度や金額から、イエスは弟子たちに「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」(43~44)と語られた。
もっとも、ここで語られている物語自体はかなり誇張や変形があるだろう。イエスがどのようにしてやもめが捧げた献金額を知り得たのか。なぜ、それが彼女の「生活費の全部」であるということを断定できたのか。それよりも、「生活費の全部」を賽銭箱に投げ入れるということの異常さ等々、何も説明されていない。いくら何でもそこまで洞察することはできないだろう。

4. 原始教会における「貧しいやもめ」問題
何故マルコはこのエピソードをここで語っているのかということが重要である。マルコ福音書の流れから見ても、このエピソードがここに挿入されているのには違和感がある。38節から40節までの律法学者に対する批判の言葉はある程度納得できるが、必ずしもこのエピソードをここに挿入する必然性はない。むしろ、このエピソードはマルコ福音書の文脈上の必然性ではなく、マルコがこの福音書を執筆しているときの教会内部における必要性ではなかろうか。
原始教団においては当然様々な問題があった。ユダヤ人問題、異邦人問題、食物規定や割礼についての議論、等々。それらと並んで「貧しいやもめ」の問題があった。これは他の諸問題ほど深刻な問題ではなかっただろうが、「厄介な問題」であったのは間違いない。使徒言行録によると、最初期の原始教団はガリラヤからエルサレムまでイエスに従ってきた人たちで構成され、おそらく共同生活をしていたものと思われる。もともと彼らはエルサレムにおいて生活基盤がなく、共同で生活するしか仕方がなかったのであろう。その中核を占めていたのが婦人たちであった。最初の頃は、彼らはそのような生活形態は長く続くとは思っていなかったようで、終末(イエスの再臨)までの「しのぎ」というのが彼らの考えであった。組織の内部に生産手段を持たない彼らの生活費を支えていたものは、基本的には新規に加わる信徒たちの寄進であった。共同体が小さい間はそれ程問題は生じなかったであろうが、使徒たちの活動により、原始教団が急激に拡大し、信徒たちも多様化し始める生活費は底をつき、貧困化する。このようにして、教団の中核にかなりの人数の「貧しいやもめたち」が生まれた。「貧しいやもめたち」の「日々の分配」(使徒6:1)は問題の種になり、その不満が時々爆発する。使徒言行録6:1によると、この問題は原始教団ではかなり「厄介な問題」であったと思われる。この問題の解決のために教団内部に「執事職」を設けるほどであった。
そのような状況において、初期の原始教団の美しい相互扶助精神は弱まり、お金持ちはもてはやされ、特に「貧しいやもめたち」の立場は軽んぜられるようになったものと思われる。そういう雰囲気をマルコは我慢できなかった。多く捧げた者も、少なく捧げた者も、全財産を捧げたことにおいて変わりはない。特に、豊かな信徒たちが自分たちの生活は共同体の外に確保しつつ、その中から幾分かを捧げたとしても、それは金額は大きかったとしても、それは決して全てではない。しかし貧しいやもめたちは「自分の持っている物をすべて、生活費を全部」(44)捧げ、この集団に加入しているのである。教会はこういう人たちこそ大切にしなければならない。そういう気持ちで、マルコはこのエピソードをここに挿入したものと思われる。

5. 偽善者
2枚の小銭を捧げたやもめの物語をそのような文脈で読むとき、その直前の律法学者に対するイエスの批判もこの物語を無関係ではないことが明らかになる。イエスのテオレオー(見る)は賽銭箱の前だけではなく、「町に広場」や「会堂の中」や「宴会の席」にまで及ぶ。つまり、「見られること」を非常に気にし、人の目を自分の行動の基準に置いているすべての人に向かって、イエスの批判の言葉は向けられている。「長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」(38~40)のは彼らだけではない。原始教団内部にも同じような連中がいるではないか。マルコの批判はイエスが律法学者に対してした批判よりも鋭い。イエスは「律法学者に気をつけなさい」と言う。マルコは教会の指導者たちに気をつけなさい、と言う。

6. 神の目
さて、本日のテキストを通して私たちはどういうメッセージを聞くのだろうか。読む人によって、いろいろあるだろうが、私はただ一つのことを聞く。それはイエスはあるいは神は、私たちの生活の全てをしっかりと見ておられるということにほかならない。私たちは誰の目を意識して生きているのか。貧しいやもめは、「世間」とか「人の目」を避けて行動している。しかし、だからと言って、何も隠れて何か悪いことをしているのではなく、「神の目」を意識している。それに対して律法学者やお金持ちの連中は、「神の目」ではなく、「人の目」を意識し、それに支配されている。
昔はこういう人たちのことを「偽善者」と呼んで軽蔑した。今から考えると「偽善者」という軽蔑の言葉が生きていた頃は「善」ということが人間の生き方として重要な価値を持っていたのだということをつくづく考えさせられる。ところが現在では「善」ということに人々はあまり関心をもたず、むしろ「かっこいい」ということに取って代わられている。しかも、その「かっこいい」という言葉には、身だしなみの良さとか、健全な常識というものからほど遠い。しかし、いずれにせよ、現代人の多くは「人の目」を気にして生きている。

7. 「人の目」
「人の目」を気にすること自体はそう悪いことではないが、問題は「神の目」が完全に無視されていることである。「神の目」などというと何か抹香臭い感じがするが、実は「神の目」から見えるものはその人の真相ということで、「神の目」を無視するということは自分自身の真の姿を見ようとしないということである。「人の目」から見える自分を自分自身だと思い込み、自分自身を見失ってしまうことを意味している。
しかし「人の目」もそう単純ではない。「人の目」も外観だけを見ているわけではない。律法学者の外観だけを見て、単純に尊敬する人もいるかもしれないが、すべての人がそういうわけではない。「人の目」もしっかり見ることのできる人ならば、彼らの真相をはっきりと見ぬくことができる。もし本当に「人の目」を気にするならば、そういう人の「目」を気にしなければならない。何か矛盾したような言い方になるが、こういう人たちの「目」を気にするということは、自分自身に正直になることである。そして「見られて恥ずかしくない自分」を磨くこと。これ以外にない。
そこで最も重要なメッセージ。残念ながら私たちはどんなに自分を磨いても「見られて恥ずかしくない自分」になることはできない。ただ私たちが「神の目」の前に立てること、自分の真相を見ぬくことのできる人の「目」にさらされても生きることができるのは、「赦しの福音」を信じるからである。

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