ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/07/10~07/16

2016-07-16 15:27:57 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/07/10~07/16

2016 日々の聖句 07月10日(日)
あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり、あなたの神の御手の中で王冠となる。(イザヤ62:3)

わたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。(黙示録21:2)

私の黙想:
今日の主題は「喜びの終末」だ。何だかんだあっても、終わりはこうなる。「終わりよければ、すべてよし」という信仰だ。ここには、だから結局こうなる、という「論理」はない。人間が、あれこれ努力したりサボったりしても、結局はこうなる。信仰者にはどこかにこういう意識がある。それをこの世への「無責任」というか、あるいは、だから「諦めない」、ということになるのか。私は後者でありたい。

2016 日々の聖句 07月11日(月)
アモスは言った。「主なる神よ、どうぞ赦してください。ヤコブはどうして立つことができるでしょう。彼は小さいものです。」主はこれを思い直され「このことは起こらない」と言われた。(アモス7:2~3)

どのような時にも、「霊」に助けられて祈り、(願い求め、)すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。(エフェ6:18)

私の黙想:
「イナゴ」という害虫を神が作り、そのイナゴが畑の作物を食い尽くす。現実の世界ではこういうことがしょっちゅう起こる。こんなことでは弱い私たちは生きていけない。この災いは神による審判だと理解して、預言者アモスは神に「赦し」を祈る。そのとき、神は「思い直され」、もうこんな事は二度と起こさないと約束された。
今朝の聖句は、実に「嫌な個所」である。なぜ、こんな個所が、よりによってこの朝、突き付けられるのか、思い悩む。まだ、しばらくは「イナゴの大群」に悩まされるのか。

2016 日々の聖句 07月12日(火)
善を求めよ、悪を求めるな、お前たちが生きることができるために。(アモス5:14)

何事も愛をもって行いなさい。(1コリント16:14)

私の黙想:
昨日もアモス書からの聖句であった。今日もアモス書からだ。今の時、アモス書をじっくり読み返す必要がありそうだ。5章の1節から12節までを読むと、正義が軽んじられ悪が勢いをもつ社会が鋭く描かれている。そして、その結論が13節だ。「それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ」。さて、「知恵ある者」は沈黙する。それでいいのだろうか。この「知恵ある者」を他の訳では「賢い者」と訳している。そこでは賢者は騒がない。「善を求めよ、悪を求めるな」。といわれている。悪と同じレベルに立って、正面から悪と戦うのではない。人間社会の「原点」、こう在るべき事をこう在るべき事として生きる。15節には同じように「悪を憎み、善を愛せよまた、町の門で正義を貫け」と語られている。ここで言う「町の門」とは、公に語る言葉を意味するのであろう。媚びず、諂わず、語るべき時には語る。16節以下を繰り返すことは必要ないであろう。しばらくは「闇」が続く。

2016 日々の聖句 07月13日(水)
わたしは言いました。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。」(詩39:2)

ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。(エフェ4:29)

私の黙想:
ここでいう「舌の過ち」とは道徳的意味ではない。「神に逆らう者が目の前にいる」から、情報発信に気を付けろ、という意味である。悪い時代においては、発言に気を付けなさい。いや、逆に言うと、発言に気を付けなければならないような社会は悪い。だからと言って、悪に妥協せよ、ということでは断じてない。それが「私の道」である。これから、ますます情報管理が厳しくなるであろう。どこに「ヒッカケ」があるかも知れない。そして、「炎上」ということが興る。

2016 日々の聖句 07月14日(木)
主を愛する人は悪を憎む。(詩97:10)

善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。(1ペトロ2:15~16)

私の黙想:
非常に単純な文章で、この文章を成り立たせている「論理」ということになると、長い説明が必要になる。この言葉、口語訳では「主は悪を憎む者を愛し」となる。これはほとんど説明不要である。岩波訳を見ると「ヤハウェを愛する者たちよ、悪を憎め」、この文章なら「主を愛すること」と「悪を憎むこと」との「論理的関係」は求められない。単純化すると「あなたは悪を憎め」という文章になる。フランシスコ会訳、聖公会祈祷書訳は口語訳とほとんど同じで、文語訳、新改訳は岩波訳とほとんど同じである。どこから、どうしたら、新共同訳になるのか理由は不明。さて、どの訳が正しいのか、私には判定する能力はない。この詩全体の雰囲気からいうと、口語訳が最もスッキリする。岩波訳も悪くはないが、強すぎる。

2016 日々の聖句 07月15 日(金)
姦淫してはならない。(出20:14)

結婚は(すべての人に)尊ばれるべきです。(ヘブル13:4)

私の黙想:
当たり前のことを真っ正面からズバリと言われると、何を黙想するのだろうか。「そりゃソーダ」としか言えない。律法学者のように、「姦淫する」とはどういうことか、と問い直しても、そこからは何も出て来ない。マタイ福音書でイエスは「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:28)と言う。この言葉、文語訳では「されど我はなんじに告ぐ、すべて色情を懐きて女を見るものは、すでに心のうちに姦淫したるなり」と訳されている。口語訳でも「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」。新共同訳の「他人の妻」という言葉はどこから出て来たのであろう。「他人の妻」でなければ、「姦淫」にならないのか。何か「いい訳がましい」。
イエスの言葉のポイントは「姦淫」ということの内面化ということで、姦淫に限らず罪を内面の問題だとしていることである。イエスの場合の「内面化」は決して「観念化」ではない。罪を徹底的にリアルの問題として問う。

2016 日々の聖句 07月16日(土)
主よ、わたしの力、わたしの砦、苦難が襲うときの逃れ場(よ)。(エレミヤ16:19)

ヤイロが来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。(マルコ5:22~24)

私の黙想:
全国に流れているかどうか知らないが、関西では「551の豚まんがあるとき、551の豚まんがないとき」という面白いCMがある。関西では有名な中華料理屋の豚まんの宣伝であるが、「あるとき」はとても幸せな家庭が描かれ、「ないとき」は冷たくて寂しい家庭が描かれている。
今日の聖句を読んで、そのCMのことを思い起こした。「逃れ場があるとき」と「逃れ場がないとき」。人間には「逃れ場」が必要である。いざという時、「苦難が襲うとき」、逃れ場があるのと、ないのとでは普段生活が全然違う。預言者エレミヤにとって「主」が逃れ場であるという。
話は全然飛んでしまうが、具体的に、「教会」は最善の逃れ場であると思うし、教会はすべての人の最も安全な逃れ場なければならないと思う。教会の飛び込めば、クリスチャンであろうと、なかろうと、何とか守られる。そういう場である。そこにはたとえ考え方が違っても「人を助けようとしている人」がいる。その人の背後にはグローバルなネットワークがある。その意味で、教会は最大の逃れ場ネットワークでありうる。

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