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ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第9主日(T11) の福音書

2016-07-16 08:33:32 | 説教
断想:聖霊降臨後第9主日(T11) の福音書
「一つのこと」  ルカ10:38~42

1. イエスとマルタ・マリア姉妹との関係
マルタとマリアの姉妹のことについて述べているのはルカとヨハネだけである。ヨハネではラザロの生き返りの出来事との関係と「純粋で非常に高価なナルドの香油」を塗った出来事が取り上げられている。ルカはここだけである。興味深いことは、ヨハネの2つのエピソードとルカの1つのエピソードとを並べてみても、これら3つのエピソード内部では相互に矛盾する点は見られず、もともとは同じ伝承によるのではないかと思われる。
彼らはベタニア村の住人である。ヨハネ11:18によると「ベタニアはエルサレムに近く、15スタディオンほどのとろこにあった」とされる。約3キロほどの距離、徒歩で1時間弱の村である。(ヨハネ1:28の「ベタニア」は別の場所と思われる。)イエスが最後の1週間エルサレムで活動したときの隠れ家であったものと思われる(マルコ11:1,11,12、マタイ21:17)。ヨハネ福音書によると、イエスの足元に高価なナルドの香油を塗ったのはこのマリア、通称「ベタニアのマリア」であるとされる(12:3)。弟ラザロの生き返りの事件といい、マリアの行為といい、ヨハネはこの家族とイエスのとの関係をことさらに強調している。ルカによるとイエスが昇天したのは「ベタニアのあたり」(ルカ24:50)である。

2. ルカ福音書における女性
ルカ福音書の一つの特徴は奉仕する婦人たちが描かれていることであろう。シモンの姑は、イエスに病気を癒してもらうと「すぐ起き上がって一同をもてなした」(4:39)といわれ、8章のはじめの部分ではマグダラのマリア等病気を癒してもらった「何人かの婦人たち」、「その他多くの婦人たち」は「自分たちの持ち物を出し合って,一行に奉仕した」と記されている。イエスの十字架を最後まで見とどけたのも「ガリラヤから従ってきた婦人たち」(23:49)であり、イースターの朝墓まで出かけたのも「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たち」(25:55)であった。
ルカが描く教会婦人の姿は「一同をもてなす」(4:39)、「一行に奉仕した」(8:3)。その意味では、ここで論じられるマルタとマリアの関係から見ると、どちらかというとマルタ型の女性像が支配的である。

3. マルタがイエスを迎え入れた
ここでは「ある村」の出来事とされる。マルタとマリアの住んでいる場所を「ベタニア」としたのはヨハネで、ルカは彼女たちのことをそれほど詳細は知らなかったのであろう。
この出来事の背景は素朴な情景である。先ず注意を引くのはイエスを歓迎した主体はマルタである。単純にマルタが姉だからということではないであろう。イエス一行を迎えたのはマルタで、マルタにはマルタの願いがあったのであろう。ところがマリアはマルタの思惑など無視して客を独占してしまう。この物語を読む場合、このことをはっきりさせておかねばならない。ここでのマルタの行動と言い分はイエスの一行を客として迎え入れた者として当然のことである。客が満足するためにはいろいろな配慮が必要である。10人以上の客である。かなり忙しかったであろうことは十分に想像できる。ところが頼りにするマリアはイエスの足元に座り込んで、話しに聞き入っている。マルタはイエスとの親しさからつい愚痴をこぼす。問題はマルタの愚痴に対するイエスの答えである。マルタに対するイエスの言葉には愛情が籠もっている。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」。名前を重ねて呼びかける言葉には愛情がこもっている。イエスはマルタを叱っているのでもないし、批判しているのでもない。イエスは「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。ここでイエスは「必要なことは」と言う。この場合、必要とは何を意味するのだろう。何のために、誰のために必要なことなのだろう。単純に考えて、イエスを迎えるために必要なことであろう。
「イエスを迎えるために必要なこと」という言葉を口にした瞬間、この言葉はこの限られた状況を越えて、一挙に私たちの信仰の問題に直結する。あなたも一度口に出して見てください。「イエスを迎えるために必要なこと」。
イエスを迎えるということは、普通の客を迎えることとは次元の異なることである。マルタはイエスを「大切な客」として完全にもてなそうとした。しかしイエスは言う。「私を迎えるのに完璧さは必要ではない。ただ一つのことだけでいい」。ここで注意すべきことはイエスはマルタを批判していないし、マリアを賞賛もしていない。ところが、多くの人はマリアが賞賛されていると誤解している。ただ、それをマリアから「取り上げてはならない」と言われたのである。

4. 一つのこと
伝統的には、このイエスの言葉は誤解されてきたのではなかろうか。マルタは「多くのことに思い悩み」(41節)、マリアは「ただ一つのこと」(42節)に心を集中させたということで「良い選択をした」と誉められた。そこで対比されていることは、「多くのこと」と「一つのこと」である。マリアは「一つのこと」に全てをかけた。イエスはそのマリアを賞賛した。マリアにおいては「一つのこと」が全てである。その一途さが賞賛に値する。
この物語と引き合いにされるのが、一人の青年である。彼は議員であったという。彼はイエスに言う。「先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。イエスは彼に「あなたは掟を知っているはずだ」と答える。それに対して、その議員は「それらのことは全て子どもの時から守ってきました」という。その時、イエスがその青年に「あなたに欠けているものがまだ一つある」(ルカ18:22)と述べられた。

5. 内面性への集中
現実的に、わたしたちが生きていくということには、様々な課題がある。仕事のことも重要であるし、家族関係ということも無視できない。学生ならば勉強するということも重要な課題である。そして、それらに伴う人間関係も大切であろう。それらのことを無視せよと言っているのではない。重要なことは、それらをすべて十分に配慮し、完璧にやってきたとして、それで完全かという問題である。むしろ、それらを完璧にこなしているということによって、何か重要なものを見失っていないのか。それらはすべて「多くのこと」ではないのか。つまり自分自身が外に向かって関わることではないのか。自分自身の内部に向かって何をしているのか。何を失ってはいけないのかという課題である。ここに自分の内部に向かう課題と外部に向かう課題とがある。そして外部にばかり気を遣っていると、自分自身のことがやせ細ってしまう。時には自分自身の内部への課題と周辺の人々への心遣いとが対立することもある。そういうときには思い切って外部への配慮を切り捨てなければならない。私たちの精神生活という面から考えるとこのような内面への集中ということは非常に重要である。その意味で禅宗等における座禅とか、カトリックにおける観相は意味を持っている。しかし、このマルタとマリアの物語におけるイエスの「一つのこと」という発言をそのような意味にとらえていいのであろうか。

6. 一つだけでいい
むしろ、ここではイエスを迎える際に必要なものはただ一つだけであるということが重要である。そのただ一つのこととは精神の集中とか、あらゆる欲望やこの世への配慮を捨てるというストイックなものであるというより、誰でもできること、すぐにでものできることを意味している。言い換えると、イエスを迎えるのには完璧であることは必要ない。むしろ、完璧であろうとするその思いを捨てて、ただ「聞くこと」、子どもが親の言葉に耳を傾けるように、わかるとかわからないという次元を越えて、ただ耳を傾けていることである。マリアはそれをしている。それをマリアから取り上げることはできない。
このマルタとマリアの物語はそういうことを私たちに語っているように思う。

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