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ぶんやさんの記録

断想:降誕後第1主日(2019.12.30)

2018-12-28 16:19:41 | 説教
断想:降誕後第1主日(2019.12.30)

わたしたちはその栄光を見た  ヨハネ1:1~18

<テキスト、超超訳>
1.序詞「ロゴス讃歌」<1:1~5、9~10a、14a>

  始めに ロゴスがあった
  神の  ロゴスであった
  ロゴスは 神であった

  神のロゴスが 始まり
  神のロゴスにより 万物は生成されたる
  神のロゴスが 万物の根源である

  ロゴスは 生命である
  生命は  人の光
  光は   闇の中で輝き 
  闇は   光に勝てない

  真の光が ある
  真の光は すべての人を照らす

  真の光が 人の世に来た
  真の光が 人の世にある
  世界は 光によって生成された

  ロゴスが 人となった
  ロゴスが 人間と共に生きている
  私たちは その栄光を見た

著者による挿入:Jh.1:6~8
ヨハネという人が証言者として神から派遣されました。彼は光について証言しそのことによって、すベての人が信じるためです。彼は光ではありません。光について証言するために神によって派遣されたのです。

教会的編集者による挿入:Jh.1:10b~13 Jh.1:14b~18

<以上>

1.降誕後第1主日の福音書
降誕後第1主日福音書のテキストは毎年同じ箇所が読まれる。そのため、この箇所についてはすでに2007年12月30日に掲載している。ただし、ヨハネ福音書がテキストで選ばれている場合は恩師松村克己先生の『ヨハネ福音書註解』(1951年発行)の「再話」を掲載している。この注解書および「再話」についてはそこで説明してるので参照のこと。という訳で、ここでは松村先生の注解およびその他の文書を含めての、わたし自身の「断想」を試みることとする。
ヨハネ福音書の1:1~14については降誕日の福音書にルカ2:1~20と共に選択という形で選ばれており、クリスマスシーズンではなじみ深いテキストである。そして降誕後第1主日でもう一度、今度は15節~18節まで追加されて読むことになる。このことはこのテキストを選んで説教をする場合なかなか興味深いことである。15~18節を中心として取り上げるべきか、この箇所全体を取り上げるべきか。もっとも聖書のテキストのこだわらない説教者にとってはどうでもいいことかも知れないが、私にとってはなかなか興味深い。そのことは同時に降誕後第1主日を降誕日との関係でどう捉えるのかということとも深く関係している。
端的に結論だけを言うと、降誕日とは出来事そのものを中心とする祭りである。それに対して降誕日の次の主日は御子の降誕という出来事に対する私たちの関係、あるいは反省である。本日のテキストに当てはめると14節の前半と後半との関係である。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という出来事に対して「わたしたちはその栄光を見た」(14節前半)と告白し、見た内容を「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(14節後半)と報告(証し)する。それが降誕後第1主日の意味である。従ってどちらかというと、説教者としての立場としては降誕日よりも降誕後第1主日の方が力が入る。ところが非常に残念なことであるが、クリスマスと正月の間にある降誕後第1主日はしばしば勝負が決まってしまった後の消化試合のような感じで受け止められているきらいがある。

2.ヨハネ福音書における「見る」
本日のテキストのキイワードは「わたしたちは見た」ということであろう。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」(14節)。
それを最初に見た人間が洗礼者ヨハネであった。彼がその人に洗礼を授けたとき、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(32、34節)と言う。その上で、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(29、36節)と繰り返し語る。
「見る」ということを重視する著者は、「見ない」ということも重視する。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。しかし、今わたしたちは皆、神を見た。御子イエス・キリストを通して神を見た。
また最初の弟子たちが行った宣教の最初の言葉は、「来て、見なさい」(1:46)であった。ナタナエルの弟子入りの際にイエス自身の言葉として、弟子になったら経験することとして、「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」(1:51)と語られた。またニコデモとの会話の中でイエスは「わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない」(3:11)という言葉を残している。またパンの奇跡においては「人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った」(6:14)とされる。
9章には興味深い出来事が記録されている。シロアムの池の畔で一人の盲人が見えるようになったという奇跡物語である。この物語の圧巻は最後のファリサイ派の人々とイエスとの会話である。イエスは言う。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。それに対してそこに居合わせたファリサイ派の人々は「我々も見えないということか」と言った。それに対して、イエスは言う。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(9:39~41)。
結論としてヨハネの手紙1の冒頭で「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」(1:1~3)。

3.「見る」という経験
ここからが問題である。見る眼が肉眼である以上、見えるのはあくまでも目の前の現象である。ところが、ここで「見た」とされる神のロゴスとか永遠の光は肉眼の対象になり得ない。ここが重要なポイントで弟子たちは肉眼で肉体であるイエスを見ることを通して肉眼では見えないものを「見た」。もし神のロゴスが肉体をとってこの世に現れなければ、私たちは永遠に神のロゴスを見ることができなかったであろう。
洗礼者ヨハネは洗礼を施しているイエスを見て、「わたしは、『霊』が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」(1:32)と証言をしている。その時イエスの姿はその場にいた人ならば誰でも見えたに違いない。ところがヨハネだけが人びとに見えない出来事を見ていた。なぜ、そういうことが起こるのか。

4. 「見る」を成り立たせる証言
さて私たちが日常経験する「見る」という行為は、「見る者」と「見られるもの」との関係である。「見る者」は見ているものについてのある程度の理解(前理解)がなくては、「見る」という行為すら成立しないし、見ていても、すぐ忘れてしまうし、見たという経験として残らない。ただボーッと眺めていたにすぎない。それは決して「見る」という行為ではない。その場にいたすべての人に見えなかったのに、なぜ洗礼者ヨハネには見えたのか。ここに一つの重要な秘密がある。ヨハネがそれをどこから得たのか分からないが、ともかくヨハネには一つの強烈な予感(前理解)があった。それを示している言葉が1:33である。「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた」。ヨハネは、そしてヨハネだけがあらかじめこの言葉を聞いていた。従って洗礼を受けに来ている人びとに対する見方が違っていた。だからこそ誰も気が付かないことにも気付く。そしてヨハネは言う。「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(1:34)。その予感通り、ヨハネは「見た」。だから証人になった。見た人が証人になる。ヨハネの証言を聞いて信じた人びとはイエスにおいて神のロゴスを見た。ヨハネ福音書では洗礼者ヨハネを「証しをするために来た」(1:6)人とする。ここがほかの福音書と異なる点である。ヨハネ福音書においては信仰に至る道において、この証言(=前理解)ということが決定的な意味を持つものとして語られている。
5. 「見ないで信じる」
見るということと信じるということとの関係において証言(=前理解)のもつ意味は重要である。そのことを端的に示しているエピソードがヨハネ福音書の最後に記録されている。例の疑い深いトマスのエピソードである。ストーリーは省略するとして、ここで注目すべき言葉は「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」である。この言葉が「わたしたちは見た」(1:14)という言葉で始まったヨハネ福音書の結論であり、最後の締めくくり言葉であり、後代の人びとへの重要なメッセージである。
私たちはイエスにおいて神のロゴスを見た。それを同じ著者と見られるヨハネは第1の手紙1:1で次のように語っている。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものをを伝えます。すなわち生命の言葉について。この命は現れました。御父と共にあったこのこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなた方に証しし、伝えるのです」。要するに私たちは見たから、その証人(目撃証人)になる。
その意味では復活のイエスが始めて現れたときに、そこに居なかったトマスの物語は肉体を持ったイエスを見ることができない私たちを象徴する。トマス以外の10人の弟子たちは「イエスを見た」。だから、その時不在であったトマスに私たちはイエスを見たと証言した。しかしトマスは彼らの証言を信じずイエスの復活も信じなかった。見ていないのだから信じることができなかった。しかしイエスが2度目に現れたとき、トマスはイエスを見た。だから信じ、「わたしの主、わたしの神よ」と告白した。そこでイエスの言葉である。「見ないで信じるものは幸いである」。言い換えると弟子たちの証言だけを聞いて信じるものはトマス以上に幸いであるとイエスは語っている。
使徒時代以後イエスの姿を見た者はいない。それは当然である。イエスの肉体がない以上、肉眼ではイエスを見ることはできない。しかし、私たちには教会を通して伝えられた使徒たちの証言がある。その証言を通して私たちはイエスを神の御子、永遠の光、生命の言葉として信じ、仰ぎ見ることができる。

6. 説教にならない
この断想では説教にならない。ただ「見ること」と「見ないで信じる」ということの説明に過ぎない。説教では「わたしたちはその栄光を見た」という点に思索を集中させ、ヨハネ福音書第9章が提起している問題を語るべきであろう。

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