ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/04/13~04/19

2014-04-27 07:58:35 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/04/13~04/19

2014日々の聖句 04月13日(日)
真実をわたしの口から奪わないでください。(詩119:43)
群衆は、イエスの前に行く者も後の従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(マタイ21:9)
私の黙想:
私の口から真実を奪う者は神ではない。神が真実を奪うはずがない。人間である。私が真実を語ることを最も怖れているのは人間である。しかも「権力」を持つ人間である。権力者は自分の利のために真実を歪め、虚偽の真実を作り出す。
42節、43節の場面は真実の言葉の戦いの場である「裁判の場」をイメージしている。ここには「私を辱めた者の(言葉)」と「私の言葉」と「神の言葉」とが交錯している。42節で「私を辱めた者」に反論させてほしいと言う。岩波版ではここの部分を「私は言葉を返そう」と訳している。この言葉こそ「私の口から真実を奪う者」の言葉である。弱い立場にある「私」にとって「神の真実」こそが頼りである。私から真実を奪う者に対抗し、私の口から真実を語らせるのは神の真実のみである。
今日はいわゆる「棕櫚の日曜日」(パームサンデー)である。私にとって、受難週の最初の主日が「棕櫚の日」であることには非常な違和感がある。今週の金曜日のことを思うとき、今日の主日の「ホサナ」の歌声は虚しく響く。棕櫚を手にして「ホサナ、ホサナ」と歓迎の声を挙げる群衆の「お祭り騒ぎ」、これは一体何なんだろう。この群衆の騒ぎの背後に蠢くイエス殺害の企て。この企てを知りつつ、群衆の歓呼の声に応えるイエスの態度。勝利(棕櫚)の祝いの声で始まる受難の物語、この大きなギャップにおいて喜劇化された人類の悲劇が提示されている。

2014日々の聖句 04月14日(月)
あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである。(申命記4:24)
イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」(ルカ19:45~46)
私の黙想:
新共同訳が「熱情の神」と訳している単語は、旧約聖書において3回用いられているが、いずれも伝統的には「妬む神」と訳され、現在でも新共同訳以外では「妬む神」と訳されている。(出エジプト20:5、34:14)「妬む」という生々しい表現は神にふさわしくないとでも思ったのであろうか。ここでは「妬む」どころか「焼き尽くす」というさらに無慈悲、残酷な神として宣言されている。まるで嫉妬にかられて愛する相手を奪おうとする「恋仇」をただ殺すだけでは足りず、「焼き尽くす」という。旧約聖書が語る神はお上品な「情熱家」ではない。この神の恐ろしさを知ったら、もはや浮気なんかしておれない。これが旧約聖書の神の「生々しさ」である。

2014日々の聖句 04月15日(火)
大小の生き物はすべて、あなたに望みをおき、ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。あなたがお与えになるものを彼らは集め、良い物に満ち足りる。(詩104:27~28)
神は御自分のことを証ししないでおられたわけではない。恵みをくださり、天の雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださる。(使徒言行録14:17)
私の黙想:
イエスは「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」(マタイ6:26)と語られた。詩104の詩人もただ自然の営みそれ自体を神の恵みのみ業として語っている。両者に共通するもの、それが神を信じるということの原型(原風景)となっている。そこには何の理屈もない。使徒言行録の著者は一寸だけ理屈っぽく、そのこと自体が「神がご自分のことを証ししている」ことだと語る。私たちはあまりにも原罪論とか贖罪論とか、十字架論とか復活論という神学に振り回され過ぎているのではないだろうか。それも大切だと思うが、それらのすべての議論の根底に、この素朴ではあるが堅固な信仰の土台がなければならないと思う。

2014日々の聖句 04月16日(水)
主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。(出エジプト13:21)
イエスの言葉:わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。(ヨハネ8:12)
私の黙想:
今日の聖句「雲の柱・火の柱」私の好きな言葉の一つ。これは体験して初めてわかる言葉であろう。順風満帆の時には雲の柱も火の柱も見えない。しかし逆風の中、あるいは暗中模索の中、あるいは将来が不透明な時、見上げるとそこに雲の柱・火の柱が見える。「見える」というよりも、第一歩が踏み出せる。その第一歩は私の判断であり、私の決断であるかもしれないし、偶然のかもしれないが、後から考えてみると、あの時確かに私は雲の柱・火の柱を見たのである。方向感覚がまったく失われた砂漠の真ん中で、遠くに見える雲の柱、深黒の闇の中でかすかに浮かぶ星の輝き、そこに神の導きを信じて第一歩を踏み出す。それが信仰の道である。

2014日々の聖句 04月17日(木)
主よ、あなたは弱い者の砦、、苦難に遭う貧しい者の砦豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける陰となられる。(イザヤ25:4)
イエスの言葉:これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ16:33)
私の黙想:
イザヤ24章~27章は「イザヤの黙示」と呼ばれ、内容的には第2イザヤに似ているとされる。ひしひしと迫る国家存亡の危機、想定される「想定外の災禍」、強大国の襲来、自力ではどうにもならない弱小国イスラエルの運命やいかに。最終的にはそれらから守るというヤハウェの約束。
この危機感は、6節から9節で描かれているヤハウェによる「山の上での祝宴」で終わる、という。今日の黙想は、それ以上の展望を望めない。現実的な危機感の中で将来の「祝宴」を語る預言者は愚者か、狂気か、正常か。

2014日々の聖句 04月18日(金)
主よ、あなたは恵み深く、お赦しになる方。あなたを呼ぶ者に、豊かな慈しみをお与えになります。(詩86:5)
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。(ルカ23:46)
私の黙想:
ヤハウェがを「恵み深い方」というのは、あまりにも平凡すぎる表現であるが、実はこの言葉は良い(トーブ―)という言葉が用いられており、直訳すると「ヤハウェは良い(あるいは「善い」)方だ」となる。対象が良いか悪いかを決めるのはヤハウェであり、人間が神に対して「トーブー」というのは珍しい。勿論、皆無ではない。詩34:9、52:11、73:1、86:5、100:5、106:1、107:1、118:1、29、119:68、135:8,、136:1、145:9、エレミヤ33:11等、「後期の文書」に見られる。
この「善い」という言葉を巡ってはイエスと金持ちの男との対話が思い出される。この男が、イエスのことを「善い先生」と呼びかけたところ、イエスはムキになって「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」(マルコ10:18)と言われたという。一見どうでもいいことに何故イエスはそんなにムキになったのか疑問であったが、この「トーブー」という用語についてのユダヤ人独特の価値観があったのであろう。極論すると、トーブーとは神がトーブーと言われたものがトーブーなのであって、人間が判断できることではないとでも言うのであろうか。その意味では、この言葉については天地創造に際して、創造主は被造物を一つ一つ見て、「トーブー」と言われたということの意味が深く考えさせられる。つまり、ヤハウェに対して「トーブーな方」という時、その意味は単に「善い神」ではなく、トーブー(あるいはトーブーでない)を決定される方という意味合いがあるように思う。旧約聖書を読む場合に、この「トーブー」という言葉の使い方には注意を向ける必要があるであろう。

2014日々の聖句 04月19日(土)
主はシオンを再び慰められる。(ゼカリア1:17)
キリストの言葉:わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。(ヨハネ16:22)
私の黙想:
今日の鍵の言葉は「再び」。ゼカリア1:17には「再び」という言葉が4回繰り返される。「再び、呼びかけて言え。万軍の主はこう言われる。わたしの町々は再び恵みで溢れ、主はシオンを再び慰め、エルサレムを再び選ばれる。』」ここでの鍵括弧の使い方が不明瞭だ。その点フランシスコ会訳ははっきりしている。「わたしの町々」いかが二重括弧になっている。これがヤハウェの言葉である。
人生における重要な経験は「再び」の構造を持っている。一度だけの経験は「経験」という言葉に当てはまらない。例えば、誕生という出来事は事実ではあるが「経験」ではない。しかし、もう一度生まれ変わった時、いや生まれ変わるという経験をした時、あの「誕生」は「私の経験」となる。一度の出会いはハプニングであるが、再開した時「ああ、あの時のあなた」となり、「我」に対する「汝」になる。その時人は「運命」を感じる。エマオの途上で2人の弟子はイエスに気が付かなかった。しかし食事の席で「パンを裂く」姿を見て、「ああ、あの時のイエス」を思い起こした。それが彼らの復活経験であった。イエスの死後、失意の中でペトロたちは元のガリラヤ湖に戻り、漁師にな戻っていた。その時、語りかけるイエスを思い起こし、再びイエスに従う者になった。これも二度目の出会いであった。外国語の単語にしても一度覚えて、忘れて、もう一度出会った時自分の言葉となる。最初のエルサレムは「ダビデの町」であったが、それは滅び、再建されたエルサレムは「神の都シオン」となった。

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