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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/04/20~04/26

2014-04-27 08:10:04 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/04/20~04/26

2014日々の聖句 04月20日(日)
正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものは、とこしえに安らかな信頼である。(イザヤ32:17)
イエスの言葉:わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。(ヨハネ11:25)
私の黙想:
旧約聖書の預言者が描く最終的理想、それはシャローム(平和)の実現である。そのシャロームを造り出し、生み出す力が正義、神による正義である。正義のないところにシャロームはない。シャロームは権力への服従でも、妥協でもない。正義は神によって油注がれた者が「神の下僕」になり、神による正義のために仕えることによって実現する。イスラエル史において最初に油注がれたサウル王は、傲慢になり神の命令を軽んじることによって、神から捨てられた(サムエル上15:17~23)。サウル王の後を継いで油注がれたダビデ王は「神の下僕」に徹した。聖書の語る正義とは神への徹底的な服従に基づく。人間による正義とは常に不正義を含み、決してはロームを生み出さない。
今日は復活日だ。イエスは人間による「裁判」によって罪人として処刑された。イエスの十字架こそ、人間の不正義の象徴である。しかしイエスの復活によって神による正義の勝利が証明された。イエスにおいて世界にシャロームが実現した。イエスの復活はシャロームの象徴である。

2014日々の聖句 04月21日(月)
あなたたちは注意して、主と結ばれた契約を忘れず、主が禁じたいかなる形の像も造らぬようにしなさい。(申命記4:23)
イエスの言葉:よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナのように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。(マタイ12:39~40)
私の黙想:
「ヤハウェとの契約」これが旧新約聖書を貫く「約」つまり契約である。そしてその内容は実に単純で、主にのみ寄り頼み偶像を礼拝しないこと。ただ、これだけである。契約とは内容の複雑さではなく、関係の濃淡である。私たちは、いや、私は神と何の約束をしているのだろうか。何かの約束をしたという自覚があるのだろうか。事柄を極度に単純化して考えると、神と私たちとの関係は、非対称的な「一方的契約」である。神が私たちと契約をしてのであって、私たちの方から神との契約をしたのではない。これを福音と呼ぶ。イースターの翌日、こう考える。

2014日々の聖句 04月22日(火)
主よ、わたしの口に見張りを置き、唇の戸を守ってください。(詩141:3)
主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍ばなければなりません。(2テモテ2:24)
私の黙想:
詩141を読んでいるとこの詩人はかなり口が悪いらしい。今までにも口による失敗を繰り返してきたのであろう。彼の口の悪さは彼の開放的な性格さと軽率さから来るらしい。同じ口から人をつまずかせるようなことを語り、同じ口から冗談が飛び出し、同じ口から神の言葉が語られる(6節をいかに解釈するかが一つの鍵)。
この詩はまるで私自身のことを語っているように思う。深く反省し、詩人とともに、「主よ、わたしの口に見張りを置き、唇の戸を守ってください」と祈らざるを得ない。

2014日々の聖句 04月23日(水)
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記6:5)
わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。(1ヨハネ4:19)
私の黙想:
旧約聖書、新約聖書と貫くThe Biggest Text である。古今東西、このテキストに批判的な目を向けた神学者や、聖書学者はいない、と思う。でも、あえて問う。「愛する」ということと「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」という言葉とは矛盾しないだろうか。愛してはいけないものを愛さないということのためには「身を削るような努力」が必要であろうが、愛するものを愛するのには「努力」は不要であろう。神は私たちを「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」愛しておられるのであろうか。「十字架の愛」という言葉がある。神は「愛してはならない私たち」を愛するために、「身を削って」愛されたのであろうか。私の中に在る「ホンのチョットした疑問」。

2014日々の聖句 04月24日(木)
良くても悪くても、我々はあなたを遣わして語られる我々の神である主の御声に聞き従います。(エレミヤ42:6)
あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。(ヨハネ21:18)
私の黙想:
今日の聖句は親エジプト派と親バビロン派との対立の中、エジプト軍に投降しようとするイスラエル軍の指導者の言葉で、最後の段階で預言者エレミヤに神の意志を尋ねる言葉である。この言葉だけを読んでいると、彼らの神への信頼がいかに大きなものであったのかと思わされる。エレミヤも彼らの言葉を真に受けて神に伺いを立てる。10日後に神の言葉がエレミヤに臨む。エジプトに投降してはならないという。その時、この連中は、「高慢にも」、エレミヤは「嘘をついている」と宣言し、「ユダの地にとどまれ、という主の声に聞き従わなかった」(43:4)という。つまり、今日の聖句は偽りの信仰、自己の利益のために「宗教」を利用しようとする人間の浅ましさを示している言葉である。人間は自分の意見と合うときには神に従うが、そうでない時にはその宗教(ここでは預言者の言葉)を偽りだとする。

2014日々の聖句 04月25日(金)
神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる。(詩49:16)
イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。(1テサロニケ4:14)
私の黙想:
「何でも金で買える」と思っている人間のあさましさ。この世には金では買えないものもある。金では自分自身を金では自分自身を贖うことができない(フランシスコ会訳では「自分の身代金」)。14節が面白い。フランシスコ会訳では「美食に耽る者の成れの果て」は自分自身が子牛のように「陰府」に食われてしまう、という。面白い比喩である。金持ちは旨いものを食っているうちに、自分自身が食われてしまう。その反対が今日の聖句である。危機一髪、陰府が私を食おうとする瞬間、神が私を陰府の手から救出してくださる。21節の格言が良い。どうなっているのかよく分からないが、フランシスコ会訳ではここでも、「人は栄華のうちに留まれず、滅び失せる獣に等しい」と訳している。名言だ。

2014日々の聖句 04月26日(土)
地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。(創世記26:4)
兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。(ガラテヤ4:28)
私の黙想:
アブラハムへの約束(創世記12:2)が、そのままそっくり息子イサクに受け継がれる。しかもそれはイサクの功績ではなく、「アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったからである」(5節)と説明される。考えてみると、これは凄いことだ。信仰の伝承とは実は祝福の伝承である。事柄はただ単に地上でのことではなく、天上に関わることである。しかもそれは単にアブラハム家の問題ではなく神と人類全体の祝福に関わること。
変な言い方だが、どうぜ信じるなら、それぐらい大きく、広く、深く信じたいものだ。何しろ信じる相手は天地を創造した神なのだから。

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