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ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第23主日(特定27)(2017.11.12)

2017-11-10 07:56:29 | 説教
断想:聖霊降臨後第23主日(特定27)(2017.11.12)

主の日 アモス5:18~24

<テキスト>
18 災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。
19 人が獅子の前から逃れても熊に会い、家にたどりついても、壁に手で寄りかかると、
その手を蛇にかまれるようなものだ。
20 主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない。
21 わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。
22 たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても、穀物の献げ物をささげても、
わたしは受け入れず、肥えた動物の献げ物も顧みない。
23 お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。
24 正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ。

<以上>

1. 「主の日」
教会暦において1年の最後の3つの主日、聖霊降臨節第27、28、29の主日(今年は11月12日、19日、26日)は1年を締めくくる主日ということで「終わりの日」について考えることになっている。特に最後の主日、聖霊降臨後第29主日(11月26日)は「王であるキリスト・降臨節前主日」と呼ばれ、「終わり」というよりも「究極的支配者」を主題として特祷や日課が選ばれている。従って、その前の2つの主日が主に「終わりの日」、いわゆる「終末」そ主題としている。降臨節第27主日は「主の日」、降臨節第28主日は「憤りの日」に関するテキストが選ばれている。
教会暦に従って信仰生活をおくるならば、少なくとも1年に1度は終末ということを考えることになる。これは信仰生活を続けていく上で非常に大切なことだと思う。「終わりよければすべて良し」という西洋の諺があるが、「終わり」を意識するということは、そこに至るすべてを意識する、考えるということである。過去をふり返って反省するということではなく、将来に向かって、ということはつまり終わりに向かって現在を考え、決断することを意味する。

2.この日の福音書
この日の福音書はマタイ25:1~13で、いわゆる天国の譬えで、灯火を手に花婿を迎える10人の乙女の譬えが読まれる。賢い乙女と愚かな乙女が対比され、灯油を準備しているかどうかということが話の筋書きになっている。旧約聖書ではアモス書の、主の日を待つとはどういうことがメッセージとなっている。

3. 主の日を待ち望む
「主の日」という思想は旧約聖書における終末思想の中心的テーマである。主が来られるとき、全ては更新され、主の栄光が現れる。と同時に「主の日」は主による審判の日でもある。つまり、この日は主に敵対する者にとっては災いの日となり、主に従う人々に取っては「勝利の日」となる。従って、イスラエルの人々は主の日を待ち望む。それまでどんなに苦労をしても、貧しい日々を過ごしても、悲しみの日の連続であっても、主の日には豊かな恵みが与えられる。むしろ苦労が多ければ多いほど、主からの恵みは大きい、と彼らは信じていた。主の日は彼らにとって「光」(18節)の日であり、「輝く」(20節)日であると信じられていた。

4. アモスの言葉
ところが、預言者アモスは「災いだ、主の日を待ち望む者は」(5:18)と言う。これはイスラエルに人々にとってはショックである。主の日は彼らの期待に反して、「輝く日」ではなく、かえって「闇の日」(20節)、災いの日であるという。主から褒められるはずだと信じている人たちにとって、あなたたちは主の敵だと宣言されるのと同じである。この日についてのアモスの表現は分かり易くて面白い。彼らにとって主の日は「獅子の前から逃れても熊に会う」ような日であり、やっと家にたどり着いたと思ったら今度は「壁に手で寄りかかると、その手を蛇に噛まれるようなものだ」(19節)、という。まさに災いの連続パンチである。絶対に「いい日」であると思っていたのに、人生における最悪の日となる。預言者アモスの言葉は分かり易くて、しかも辛辣である。

5. 災いの日
21節から23節までの部分では、彼らにとって「喜びの祭」になるはずの主の日の祭(礼拝)の情景が語られている。主の日に彼らが誇らしげに捧げる「献げ物」は神によって受け入れられず、拒否される。それはまるで創世記第4章の出来事の再現のようである。アダムの息子たちカインとアベルとが主なる神に献げ物を献げた。創世記ではカインは「土の実りのもの」を献げ、アベルは「羊の群れの中から肥えた初子」を献げた。創世記はなぜカインの献げ物は拒否されたのか、なぜアベルの献げ物は受け入れられたのか、ということについて何も語ろうとしない。ただ、その時カインは激しく怒って「顔を伏せた」ということが問題とされる。主は、そのことについてカインを厳しく追及された。「もし、お前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」(創世記4:6)。創世記が問題にしていることは、何を献げたのかということではなく、献げる人間の心の問題である。イスラエルの詩人もこのことについて語る。「あなたはいけにえを望まれず、燔祭を奉げても喜ばれない。神よ、わたしの奉げ物は砕かれた心、あなたは悔改める心を見捨てられない」(詩編51:16,17)。詩人は心のない形だけの宗教行為は拒否される、と言う。つまり、この物語は献げ物についてのイスラエルの民族的規準である。つまり、「お前の献げ物は受け入れられない」という指摘は、イスラエル人にとって最大の侮辱であり、恥であった。それだけではない、主の日に神殿で演奏される荘厳な音楽も神の耳には「騒音」に過ぎないと言う。これはきつい。献げ物どころか礼拝そのものの否定である。この言葉は歴史的順序は逆になるが、パウロが愛について語った言葉を思い出させる。
「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(1コリント13:1~3)。
パウロはここで愛なき宗教の空しさを語っている。

6. 神の怒りの原因
神を、あるいは預言者をここまで徹底的に怒らせている原因は何か。実は本日のテキストの直前のところで、なぜ彼らは主から拒否されるのかということについての具体的理由が語られている。「彼らは町の門で訴えを公平に扱う者を憎み、真実を語る者を嫌う。お前たちは弱い者を踏みつけ、彼らから穀物の貢納を取り立てる。(中略)お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り、町の門で貧しい者の訴えを退けている。それゆえ、知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ」(11~13節)。「町の門で」とは裁判所という意味である。裁判における不正、賄賂やコネによる不公正な裁判がここで指摘されている。社会の混乱、腐敗、要するに住みにくい社会、特に弱い者にとって不幸な社会というものは、裁判における不正から始まり、裁判における不正で極まる。裁判が腐敗すると社会における正義と恵みの業はなくなる。いかに美しく飾られ、整然と整えられていても、そこには正義と恵みの業はない。預言者アモスはそういう社会を一言で、「知恵ある者はこの時代に沈黙する。まことに、これは悪い時代だ」(5:13)と表現している。知恵ある者が黙ってしまう。大臣も、高級官僚も、預言者も、黙ってしまう。だから、田舎で家畜を飼っていた無名のアモスが預言者として選ばれた。知恵ある者ではないアモスは黙っていない。

7. 預言者アモスのメッセージ
24節に注目してもらいたい。「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」。これが自らを「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ」(7:14)とする預言者アモスのメッセージである。
主の日に神から褒められたいと願うなら、そのためになすべきことは、これである。これ以上でも、これ以下でもない。「正義と恵みの業」、さすが預言者アモスである。難しいことを言わない。「正義と恵みの業」、「義と愛」、あまりにも当たり前すぎて、つい見落としてしまう言葉である。義と愛の組み合わせ、正義感と慈悲の心とのバランス感覚、これが国を正しく導く原理である。愛なき正義は国民の活き活きした生活を奪い、正義なき愛は国民を堕落させる。この原理はすべての人間社会を健全に育てる原理でもある。

《愛と義のバランスこそが大切だ、帰る故郷美しい国 善明》
《何もない真心だけが我がもの、神に捧げる感謝の心  善明》

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