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ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第6主日(特定10)の旧約聖書(2017.7.16)

2017-07-14 07:09:25 | 説教
断想:聖霊降臨後第6主日(特定10)の旧約聖書(2017.7.16)

祝宴への招き イザヤ書 55:1~5,10~13

<テキスト>
1 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。
2 なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。
3 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。
4 見よ、かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし、諸国民の指導者、統治者とした。
5 今、あなたは知らなかった国に呼びかける。あなたを知らなかった国は、あなたのもとに馳せ参じるであろう。あなたの神である主、あなたに輝きを与えられるイスラエルの聖なる神のゆえに。
6 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。
7 神に逆らう者はその道を離れ悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。
8 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なりわたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。
9 天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。
10 雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。
11 そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。
12 あなたたちは喜び祝いながら出で立ち、平和のうちに導かれて行く。山と丘はあなたたちを迎え歓声をあげて喜び歌い野の木々も、手をたたく。
13 茨に代わって糸杉が、おどろに代わってミルトスが生える。これは、主に対する記念となり、しるしとなる。それはとこしえに消し去られることがない。

<以上>

1.特定10の福音書
この主日に福音書はマタイ13:1~9,18~23である。ここでは有名な4つの種の譬えが語られている。非常にわかりやすい例話である。それだけに、何を主題として取り上げるかはかなり幅がある。ということで、それを念頭に置いてこの日に指定されている旧約聖書のテキストを読む。そうすると、このテキストが選ばれた理由が、かなり分かってくる。
本日の福音書との関連で響きあるのは、種を蒔くということ、そして蒔かれた種は決して無駄にはならないということであり、さらにはっきりしてくるのは、その種とは主の口から出てくる言葉だということである。これでこの日の断想の大枠は決まってくる。それに従って、テキストを解読すればよい。
ところが今日の旧約聖書のテキストは二つの部分の結合であり、1節から5節までと、10節から13節までである。今日の福音書からの関係からいうと、ほとんどが10節以下の部分に関連し、前半の5節までの部分とが、結びつかない。そこで、もう一度読み直す。するとまた別の局面が開けてくる。1節から5節までの部分でのメッセージは、神の大判振る舞いとそれに与って命を得る、ということが述べられている。その神による大判振る舞いとはダビデ王による世界統治ということであろう。さて、以上のことを頭に置いて、順次、細かく読んでいこう。

2. 神からの招待状
ここに、神によって主催される祝宴への正式の招待状がある。この招待状によってすべての人が神による救いへと招かれている。つまり福音書が語る「蒔かれた種」「神の言葉としての種」とは、ここでは「神からの招待状」である。この招待状は5節によると、イスラエルの民だけではなく、全ての国の人々も送られている。
この招待に応じる人は誰でも歓迎される。ただ単にお腹がすいていて何か食べ物が得られるならばどこへでも行くという動機であれ、あるいはただ単に酒が飲みたいからであれ、あるいはただ単に楽しそうだからであれ、どんな動機でも問われない。重要な点は、招きに応じるか否かということである。祝宴の主催者が誰かということも、祝宴の主旨が何かということも知らなくてもいい。受け取った招待状が本物であるということを信じさえすればそれでいい。
新共同訳では見られないが、口語訳聖書では、1節の冒頭に「さぁ」という言葉がある。文語訳では「 噫(ああ)」 である。ヘブル語の方がもっとわかりやすい。「ホイ」である。要するに万国共通語で、周りのすべての人々の関心を引き寄せるかけ声である。「さぁ、いらっしゃい」という感じだろう。

3. 招待状の内容
招待状の内容は、先ず食事への招き、それに続いて「いのち」について述べられる。じつは、この形式は、古代王家における祝宴の招待状の形式に従っていると言われているが、むしろここで重要な点は、その形式ではなく、内容である。元来、祝宴というものには食事は必然であるが、食事だけでは終わらない。共に食事をすることによって、関係が深まるのである。王と臣民の場合は王に対する臣民の忠誠心と王による保護とが確認され深められる。それが、ここで述べられている「いのち」ということの内容である。人々は神からの招待を受け、それに応じ、神と共に食事の座に着き、神との関係を深める。それが、ここで述べられている招待状の内容である。
神からの招待という主題は、新約聖書にも受け継がれている。イエスもご自分の使命を「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)と語られた。あるいは、神の国について「ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」(マタイ22:2)と語られている。それだけではない。4つの福音書が口を揃えて語る一つの重要な奇跡、それは5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人たちを満腹されたという物語である。教会が語る福音には常に「食べる」ことが関係している。

3. 日本人の神
菅野覚明という宗教学者が『神道の逆襲』(講談社現代新書)という本を書いている。非常に面白く、神道という宗教の本質を考えさせる。著者自身は、曹洞宗の僧侶であるが、その人が神道について書いているという点が面白い。私が神道という宗教について考え始めたのはこの書からであると言ってもいいと思う。最近で井上寬司さんが著した『「神道」の虚像と実像』(講談社現代新書)も、日本における神道というものを概括的に掴むにはとてもいい本であるが、要するに私の神道についての理解はこの程度、つまり「新書版』程度のものである。しかしキリスト教という視点から考える場合には、この程度でも非常に有益である。
『神道の逆襲』が示している一つの重要なポイントは、神道において、つまりごく一般的な日本人が神さまというものをどう考えているのかということである。日本人にとって、神さまとは、ある時突然、どこからかやってくるものである、という。そこで、日本人は神さまがやって来ると、日常的な生活は変わり、お客様である神さまをお迎えするモードになる。適当な接待をして、ご機嫌よくお帰り頂く。これが日本人と神との基本的な関係である、と論じる。重要な点は、神さまが居られる間は、ともかく粗相があってはならない。もし、神さまのご機嫌を損ねると「たたり」がる、と信じられている。従って、大人も、子どもも、普段とは異なる生真面目な生活をする。それが「ハレ」である。しかし、お客様である神さまに何時までも居られると大変迷惑する。毎日がお祭りではたまったものではない。そこで、家の者たちは「おまじない」をする。お客さんに早く帰っていただくために、部屋の隅のあまり目立たないところに「箒を逆さまにして立てる」。
これを読みながら、キリスト教の神との違いがはっきり分かる。キリスト教では神が私たちを招いておられるのである。キリスト教では神と共にいるという時間が特別な時間なのではなく、それが普段なのである。分かりやすくいうと、キリスト教は普段着の宗教である。

4. 祝宴としての聖餐式
さて、神の祝宴への招きということに関連して、もう一つ重要な点がある。それは聖餐式のことである。キリスト教における神の招きと祝宴は疑いもなく聖餐式に凝縮されている。聖餐式こそ神によって主催される祝宴そのものであり、私たちはすべてそこへ招かれている。この点については、時間の関係で、ただ示唆するだけにしておく。

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