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断想:復活節第3主日 (2018.4.15)

2018-04-13 06:17:33 | 説教
断想:復活節第3主日 (2018.4.15)

はじめに
復活日、復活節第2主日と復活節第3主日の3回の「断想」で、私自身の「復活論」の最終的まとめといたします。今さら、復活論に関する論文を書くつもりもありませんし、またそれをまとめる能力もありません。
私自身の生涯を振り返ってみて、結局私にとってのホームグランドは学術的な「論文」ではなく、礼拝における「説教」だと思いますので、あえて説教(「断想」)という形でキリスト教信仰における核心部分をまとめさせて頂きました。これら3つの断想がみなさま方にとって何らかの意味あるものとなりましたら幸甚に存じます。

主の食卓   ルカ24:36~48

<テキスト>
36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
48 あなたがたはこれらのことの証人となる。

<以上>

1. 復活の主と食事
復活節第3主日の福音書は、A年がルカ24:13~35、B年がルカ24:36~48、C年がヨハネ21:1~14である。面白いことに、これら3つの個所には1つの共通点がある。その共通点とは、いずれも復活のイエスが食事をするということである。(マルコ福音書にはこの種のテキストがない!)
復活のイエスと食事との関係は非常に興味深いテーマである。使徒言行録1:4ではこの様に書かれている。「そして彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである』」。復活された主が教会の成立に関する重要な予告をなさった場所が「食事の席」であった、ということは注目に価する。
次に、使徒言行録10:40、41では「神はこのイエスを3日目に復活させ、人々の前に現わしてくださいました。しかし、それは民全体に対してではなく、前もって神に選ばれた証人、つまり、イエスが死者の中から復活した後、御一緒に食事をしたわたしたちに対してである」。ここでは使徒の権威に関する重要な発言が記録されている。その内容は、復活した主と一緒に食事をしたということが、使徒的権威の根拠であるという。これも注目すべきことである。(復活の主と食事については、ルカ24:13-35「エマオの途上」を取り上げる際に詳細に論じる。)
復活したイエスと食事との関係を考える場合に、その食事は決して「飢え」を癒やすためでもなく、栄養補給のためでもない。では、それは何か。

2. エルサレムの密室
11人の弟子たちが閉じこもっていた部屋に復活したイエスが現れ、「シャローム」と呼びかけ、十字架刑による「傷」をお見せになったという物語は、ルカ福音書とヨハネ福音書とが詳細に記録している。マタイ福音書では、閉じこもっていた部屋には触れないが、後半の聖霊と使徒的権威の付与については述べている。マルコを除く3つの福音書はいずれも何らかの形でこの物語に触れているので、この物語こそが復活のイエスの顕現物語の中で、最も中心的な位置を占めるものであろう。
ルカ福音書とヨハネ福音書とにおけるこの物語の取り扱い方には、それぞれ特徴が見られる。ヨハネ福音書の場合は、これに続くトマスの経験との関係づけが顕著であり、ルカ福音書ではこの物語に先行するエマオの途上の物語と密接に関係付けられている。

3. ルカのエルサレム中心主義
さて、先ず最初に確認しておかねばならないことは、この家は何処に存在していたのかということである。マルコは復活のイエスと弟子たちとの出会いの場所はガリラヤであるということを暗示しているし、マタイは明白に「11人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山」(マタイ28:16)と述べている。山と家ではかなり違うがともかくガリラヤであった。ヨハネ福音書では場所が特定されていない。ただ、21章の復活物語では「テベリアス湖畔」(21:1)での出来事とされているが、状況はかなり異なる。ルカ福音書だけが11人の弟子たちが集まっていた場所はエルサレムであった(24:33)ということを明示している。ここにもルカ独自の「エルサレム中心主義」(24:48,49)が示されている。

4. 「こういうことを話していると」
今日のテキストは「こういうことを話していると」という言葉で始まる。(日本聖公会の聖餐式日課では、この言葉は省かれているが)、この言葉は明白に、エルサレムの密室での顕現記事はそれに先行するエマオの途上での出来事の延長線の上で、一連の復活物語の総括(結論)となっている。
「こういうことを話していると」の「こういうこと」とは、エマオの途上の出来事だけではなく、「シモンに現れた」(24:34)こととか、当然婦人たちの墓地での経験(24:11)を含む一連の顕現報告である。特に、「シモンに現れた」という点については、それに該当する記事はルカによる福音書には見られない。おそらく後代の加筆であろう。つまり、弟子たちはイエスは復活されたらしいといういくつかの報告を交換し合いながら、非常に不安な状況において、信じるという弟子たちと信じられないという弟子たちとの間でかなり激しい話し合いをしていたのだろう。マルコ福音書ではそういう状況に登場したイエス自身の批判的な態度を記録している。「その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人びとの言うことを信じなかったからである」(マルコ16:14)。注目すべき点は、「見た人の言うことを信じない」ということが批判されていることである。ヨハネ福音書におけるトマスの疑いについては別な箇所で詳細に論じているのでここでは省く。マタイ福音書では、何の説明もなくただ「疑う者もいた」(マタイ28:17)とだけ記している。ルカ福音書は、突然現れたイエスの姿を見て、弟子たちは「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」、と記録している。

5. 亡霊
この点で注目すべきことは、ヨハネ福音書でもルカ福音書でも、密室にイエスが突然現れたということについて「どこから、どのようにして入ってきたのか」という現代人ならば当然疑問に思うことについて、誰も疑問を持っていないということである。ヨハネはこの部屋に「鍵」(ヨハネ20:19)がかかっていたことを記しているのに、この単純なことを疑問に思っていない。おそらくこれが「亡霊」という意味であろう。この言葉を「亡霊」と訳しているのは新共同訳だけで、これは訳しすぎで、これはただ「霊」という言葉である。霊には肉体がない。霊ならば閉じた部屋にも自由の出入りできるであろう。
復活したイエスが弟子たちに見せた「身体」は霊ではない。霊には肉も骨もない、と説明される。イエスは霊ではないことを証明するために、弟子たちに身体を「触らせ」、点検させる。復活のイエスが霊ではないとしたら、密室にどうして入られたのか不思議である。弟子たちはますます混乱する。その混乱が「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっている」という言葉で表現されている。恐怖感は消えた。しかし、信じられない。幻想なら幻想として理解可能である。しかし、幻想を否定するなら、それまでに獲得したすべての経験や知識では理解不能である。
そこで、イエスは復活の身体が霊でないことの証明するために、「何か食べ物」(ルカ24:41)を求め、差し出された焼き魚を食べる。このシーンはどうしても受け入れられない。ヨハネ福音書の21章ではイエスが「炭火」をおこし、魚を焼き、弟子たちにそれを食べさせているシーンがあるが、そこではガリラヤ湖を背景にしたメルヘンがあり、ある種ののどかさや美しさが感じられる、私もそこに居たいという気持ちになる。しかしルカのこの場面はいかにもわざとらしく、あまり美しくない。子どもの頃、この話しを日曜学校で聞き、いろいろと詮索したときのことを今でも思い出す。魚という非常に具体的な物体が復活者の口に入り(その時噛んだのか、噛まなかったのか)、食道を通って胃の中に入る。食べた魚は復活対でないから、その情景が弟子たちの目に見えていたのか。というようなことはを想像してもゾッとする。おそらく、弟子たちもますます混乱したことであろう。ルカはそれを見ていたであろう弟子たちの反応について何も書かない。要するに、こんなことではイエスの復活を信じることはできないということなのだろう。

6. いかにして復活信仰は成立したか
イエスの復活を疑い、信じられないのが、通常の判断である。しかし事実、弟子たちはイエスは十字架の後、復活したということを信じるに至った。信じられない者が信じる者となったという事実を福音書は語る。特にルカとヨハネはこの点に強い関心を持って復活物語を語る。
ヨハネ福音書では、この点について特にトマスに焦点を当てて論じ、「見る」という経験を土台にすえる。見れば信じるという考えである。ヨハネ福音書第21章では、イエスの復活を信じない弟子たちが、故郷に戻り、ガリラヤ湖で漁をしているとき、復活のイエスが現れ、食事を提供する。その姿を見て、「弟子たちは誰も『あなたはどなたですか』と問いだそうとしなかった。主であることを知っていたからである」(ヨハネ21:12)と言う。ここには何の説明もない。議論もない。ただ、彼らは黙々と食事の準備をするイエスの姿を見たとき、復活の事実を信じた。イエスのこの行動は信じさせるためのものというよりも、弟子たちとの生前からの交わりの継続ということが主眼となっている。
ところが、ルカ福音書が語るエマオの途上における弟子たちの経験においてはイエスによる聖書の解説があり、その時「わたしたちの心は燃えたではないか」という経験が重要な役割を果たしている。この経験が土台となって、食卓でのイエスの仕草が復活のイエスの認識となっている。エルサレムの密室における弟子たちの経験においても、ただ復活した身体を点検したとか、焼き魚を食べてる姿を見たということでは信じられなかった弟子たちがイエスによって聖書の言葉を説明され、「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いた」ときに、弟子たちはイエスの復活を信じる者となったことが暗示されている。つまりルカ福音書においてはイエスの顕現という事実と聖書の言葉の解説とが一体となって、復活という事実を受け入れることができたということが主張されている。復活信仰の成立には、どちらか一つでは十分ではなく、これら2つの要因が結びついて可能となる。興味深い点は、エマオにおいては聖書の解説が顕現に先行しているのに対して、エルサレムの密室では聖書の解説が顕現よりも後にある。つまり、これら2つを比べることによって、顕現という出来事と聖書の解説ということとの順序が、どちらが先行するのかということは重要ではないということが示唆されている。この2つの要素が後の教会においては、「パン裂き」というサクラメントへ、そして聖書の解説ということが説教へと展開いしたものである。

7. 説教とサクラメント
教会における説教という行為の原型は、イエスによる聖書の解説にある。聖書の言葉を離れては説教は成立しない。しかし、ただ単なる「聖書の解釈」が説教ではない。説教においては解釈に方向性がある。エマオへの道中では「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(ルカ24:27)とある。つまり、主イエス・キリストという主題に基づいて聖書を解釈する。エルサレムの密室においては「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(ルカ24:44)。つまりイエスが生前に語っていたことに基づいて聖書を読み直すことである。それは、同時に生前のイエスの言葉と行為とを聖書の言葉に照らして見直すということでもある。
旧約聖書に限定していえば、聖書の解釈においてパリサイ人に勝るものはいないであろう。彼らは舐めるようにして聖書を読み、徹底的に分析し、解釈しそれを生活している。まさに徹底的な聖書主義者である。しかし、それは聖書という書かれた文書に限っている。言い換えると、それは文書の徹底的理解である。それに対して、私たちは聖書を「主イエスについて語る文書」(24:27)として再解釈し、同時に、「主イエスが生前に語っていたこと」(24:44)を聖書によって受け取り直す。これら2つの解釈の間を往復することによって、聖書の理解も深まり、イエスについての理解も深まる。この双方向の解釈が教会における説教のダイナミックスを生み出す。これはユダヤ教における聖書解釈とはまったく異なる。
エマオにおける2人の弟子たちは、イエスの語る「聖書の説明」(24:32)において、「心が燃えた」と言い、エルサレムにおける密室ではイエスは「聖書を悟らせるために」弟子たちの「心の目を開いた」と言う。これは弟子たちにとって未だ経験をしたことのない新しい経験であり、新しい聖書の読み方であった。復活者イエスの顕現という新しい事件は、この新しい経験を生み出す。

8. 聖餐式の始まり
この新しい経験が、教会の出発点である。それは同時に新しいサクラメントの成立を意味する。このサクラメントにおいて、教会の礼拝は成立する。この礼拝において、私たちはイエスと出会い、イエスから命令を受け、力を与えられる。聖餐式文の冒頭の言葉に注意しよう。「主イエス・キリストよ、おいでください」と司式者が唱えると、会衆は「弟子たちの中に立ち、復活のみ姿をあらわされたように、わたしたちのうちにもお臨みください」と答える。聖餐式とは、エルサレムの密室での弟子たちの経験の再現である。

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