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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/08/30~09/05

2015-09-06 08:20:01 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/08/30~09/05

2015日々の聖句 08月30日(日)
わたしは慈しみ深く、とこしえに怒り続ける者ではないと、主は言われる。ただ、お前の犯した罪を認めよ。お前は、お前の主なる神に背いた。(エレミヤ3:12~13)
主は、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。(2ペトロ3:9)
私の黙想:
8節によると北のイスラエル国は既に滅ぼされている。ここではそれを見てもなお悔い改めない南のユダ王国への警告の言葉である。だから「裏切りの女ユダ」は「背信の女イスラエル」より更に悪いという。この形容詞の使い分けが興味深い。ここでのメッセージは、にもかかわらず、ユダにはまだチャンスは残されているということである。
この歴史の教訓から何を学ぶべきか。そこまで言い切れるかどうか躊躇するが、人類には「常に」救済のチャンスが残されている、ということか。問題はこの「常に」にある。「最後まで」というと何が最後か疑問となる。一人の人間でいうと「死の瞬間前」までと言うべきか。私にはそれをいうことは出来ない。だから「常に」にしておく。今日の新約聖書の聖句は、「最後の一人までも」と言う。

2015日々の聖句 08月31日(月)
主はモーセに言われた。「あなたと共にいるこの民は皆、主の業を見るであろう。」(出エジプト34:10)
多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子ではないか。」(マルコ6:2~3)
私の黙想:第1回目の十戒が書かれた石板は破壊された。これは民の中で「金の雄牛礼拝」を画策した連中が粛正された後、ヤハウェはモーセの執り成しにより、改めて第2回目の石板を授与した。その際にヤハウェがモーセに約束された言葉である。今日の聖句では「あなたと共にいる民」が鍵であろう。これを口語訳では「あなたが共に住む民」と訳している。フランシスコ会訳では「お前とともにいる民全員」と訳している。微妙な差であるが、これは今、モーセの「待て」という言葉を待ちきれないで、「金の雄牛」礼拝に走った民が粛正された直後である。この民とはその「背教の民」と異なる。「あなたと供にいる」とはモーセの側に立った者たち、これからもズーッとモーセと供に生きるであろう民である。彼らはモーセと供にいる限り、神の大きな恵みの業を見るであろうという。ヨハネ福音書でナタナエルがイエスの弟子になるときに語られた言葉を思い起こす。「わたしが言ったので信じるのか。これよりも、もっと大きなことを、あなたは見るであろう」(ヨハネ1:51)。モーセにあるいはイエスに従い、共に生きるとき、私たち自身が想像しているよりもはるかに大きな出来事を経験するであろう。それは決して「安楽な道」ではないが、「もっと大きなこと」である。

2015日々の聖句 09月01日(火)
わたしはこの口をもって、主に尽きぬ感謝をささげ、多くの人の中で主を賛美します。(詩109:30)
アンナはそのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。(ルカ2:38)
私の黙想:
この詩の真ん中辺り6節から19節、解釈者によって前後に多少ずれるが、この部分は「彼ら」が「私」を訴えた「憎しみの言葉」(3節)の引用とされる。8節の言葉がユダの事としてペテロは説教の中で引用しているとされる(使徒言行録1:20)。
全体として、よく分からない。その中で25節の「わたしは人間の恥」という言葉が引っかかる。太宰治の「人間失格」を思い起こされた。その人間(わたし)が、今日の聖句を呟く。28節の言葉はその間において何らかの出来事があったことを予想させる。「彼らは呪う、けれども、あなたは祝福されます」。

2015日々の聖句 09月02日(水)
主の神殿の基礎が据えられたので、民も皆、主を賛美し大きな叫び声をあげた。(エズラ3:11)
信徒たちは毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。(使徒言行録2:46~47)
私の黙想:
捕囚の地バビロンから帰還したユダヤ人たちはさまざまな苦難を乗り越え、ともかく神殿建築に励んだ。そして遂に神殿の基礎工事が完了した。この喜びはどんなに大きなものであったであろう。神殿の完成までにはまだまだ苦難の日々は続くであろうが、ともかく基礎は据えられた。これはただ単に「神殿の基礎」ではなく、民族共同体の基礎でもある。それはダビデ・ソロモンの時代の神殿建築とは全然異なる。あの時は「王国繁栄」を背景にしたいわば王族を中心にしたエリート集団による建築であったが、第2神殿は貧しい中、民衆全体の汗と涙、信仰によって建築が進められている。恐らく、第1神殿とは規模も、豪壮さも見劣りするだろうが、民衆の力、一致のシンボルとしての神殿であり、平和と希望への民族運動の成果である。国の事業とはこうでなければならない。
今、我が国で進められている東京オリンピック、嘘と虚栄と利権の塊ではないか。これからもボロボロのいろんな問題が発生するであろう。返上せよという声を大きい。これが「国家事業」と言えるだろうか。

2015日々の聖句 09月03日(木)
見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。(ゼカリア9:9)
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になられました。(フィリピ2:6~7)
私の黙想:
今朝の聖句についてその歴史的背景等には思いを寄せない。ただ一点、この聖句は福音書において、イエスのエルサレム入城の伝説を生んだテキストだということ、つまり初代教会の信徒たちのイエスに寄せる思いを考えたい。彼らは本当の意味で自分たちのことを「迷える羊の群れ」だということを自覚し、真の羊飼い、真の指導者、「王」を求めていた。その思いは「私たち」だけではなく「あなたたち」も同じであろうと、ユダヤ人同胞と一体化していた。そこにイエスが登場し「この人こそ」まさに私たちが求めていた「王」であると期待し、熱狂的にイエスを歓迎した。しかし、その思いはいとも簡単に破られてしまった。イエスはユダヤ人社会の指導者たちの手にかかり、ほとんど何の抵抗もなく捕縛されてしまった。人々は失望した。絶望した。やっぱり「ロバに乗って」登場するような奴では駄目だ。軍馬にまたがり、大勢の軍勢を引き連れて威風堂々と登場する英雄でなくて駄目なんだ。その絶望感は一挙にイエス個人に向けられ、イエスに対する憎しみに変わってしまった。その絶望感は弟子たちも同じであったのであろう。ただ弟子たちと一般大衆との違いは、彼らは3年間共に生きたという経験があり、そこから出てくるイエスに対する「裏切り意識」があった。むざむざと敵の手に渡し、自分たちは逃げてしまったという悔いがあった。この思いが彼らの中で大きな変化を呼び起こしたのであろう。イエスに対する見方が変わった。その時、一つの光が彼らの心を指した。それが本日の聖句であろう。やはり、イエスこそ「この方」なんだ。神から遣わされた「王」なんだ。この小さな「思いの転換」が人類史を書き換える出来事となった。

2015日々の聖句 09月04日(金)
神がわたしたちを祝福してくださいますように。地の果てに至るまで、すべてのものが神を畏れ敬いますように。(詩67:8)
主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。(黙示録4:11)
私の黙想:
これぞ究極の祈り。詩67に繰り返えされる言葉は「すべての民」が6回、それに類似する、「諸国の民」、「すべえてのもの」を加えるとこの短い詩に8回も繰り返される。7節から見るとこの詩はおそらく収穫感謝の祭に歌われたのであろう。すべての収穫物を神からの賜物とし、独占しないで「すべての民」と共に分かち合い、共に喜ぶ。
現代社会が見失ってしまったもの、それは「この思想」であろう。ここには「罪」も「怨み」も「悔い改め」も出てこない。そんなものはない方が良いに決まっている。しかし、「ある」のに「ないことにする」という訳にはいかない。戦後70年、アメリカの大統領がこの70年の日米関係についての「声明」を発表し、「和解の模範」と語ったという。本当にそうだろうか。私には、日本はアメリカの世界支配の「模範生であった」としか聞こえない。

2015日々の聖句 09月05日(土)
主よ、思い起こしてください、あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。(詩25:6)
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(1ヨハネ4:10)
私の黙想:
今日の聖句の次節では「わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず」と続く。要するに、ヤハウェに「思い出して欲しいこと」と「思い出して欲しくないこと」とを対比させている。身勝手といえば、これ程身勝手なことはない。自分に都合のいいことは思いだしてくれ、自分に都合の悪いことは忘れてくれ。相手が神さまだからこんなに自分勝手なことを祈っても許されると思っている。つまりここには「根深い甘え」がある。相手が神だからいくら甘えても、それが「詩」となり「聖句」となる。しかし、これが現実の問題、人間同士、あるいは国と国との関係となると甘えてはおれない。お互いに「都合と不都合」が対立する。覚えておいて欲しいことは忘れられ、忘れて欲しいことは覚えている。これが「歴史観」の対立である。そこでは「甘え」は通じない。

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