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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/10/01~10/07

2017-10-07 20:40:20 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/10/01~10/07

2017 日々の聖句 10月1日(日)
ハンナの祈り:万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、(男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません)。(1サムエル1:11)

存在していないものを呼び出して存在させる神。(ロマ1:11)

私の黙想:
わざわざ「ハンナの祈り」と規定しているのであるから、ハンナが何を願ったのか明白にしておく必要があるであろう。一般的な祈願ではない。ある意味では一般的な祈願はほとんど意味がない。
ここではハンナは個人レベルでは「子どもが与えられない」ということによる世間の悪評判を払拭したいと願っている。そして、その子どもが与えられたら神に捧げると誓う。神に捧げるなら、与えられなくてもいいではないか、という皮肉はここではよしておく。ともかく、ここで与えれた子どもが後の偉大な預言者、イスラエル史における最初の預言者となった。サムエルの最大の業績は「キングメーカー」ということであろう。神が歴史を動かすとき、神が直接手を下すことはまれである。一般的には「人材」が神の働きを代行する。神はハンナを用い、ハンナを通してサムエルを与え、サムエルの働きによりダビデが生まれる。この一連の出来事が神の業の実現である。時には神はサウル王を用いて人間の傲慢さと弱さを示す。私たちの祈願も「人材を与え給え」と言うことに凝縮される。変な王が与えられたら国は迷う。

2017 日々の聖句 10月2日(月)
主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼びあなたの手を取った。(イザヤ42:6)

イエスの言葉:わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。(ヨハネ8:12)

私の黙想:
今日の聖句は第2イザヤの「下僕の詩」の最初の詩(1~4)に続く部分。ここでの「あなた」とは「主の下僕」を指す。主の下僕とは誰のことかという長い議論があるが、今朝はその議論には入らない。要するに、バビロン捕囚中のイスラエルに対する救済者であり、彼こそ彼等の「希望」であった。
希望は神から来る。いや、ホンモノの希望は神からしか来ない。しかし、希望が語られる時点では「希望」の正体は見えない。だから希望は信仰によって望むものである。
新約聖書においてはその「希望」がイエス・キリストという形で現れた、と語る。人びとはイエスにおいて「希望(キリスト)」の姿を見た。しかし、その時には同時に多くの「偽キリスト」も現れ、多くの者を惑わした。希望が実現する前には常に「偽希望」が現れる。

2017 日々の聖句 10月3日(火)
主は彼等を国々の中から集めてくださった。東から西から、北から南から。主に感謝せよ。主は慈しみ深く人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。(詩107:3,8)

神は、(御心のままに、)満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。(コロサイ1:19~20)

私の黙想:
今日の聖句はかなり変則的だ。ということで、私も思いきって状況をイメージする。この聖句から私は神の趣味を見る。神は国中から、それこそ東西南北いろいろなところから材料を集めて、その心のままに「盆栽」をお作りになった。そして、それを眺めて満足しておられる。集められた材料の一つ一つは大したものではない。ある意味で、そころら辺に転がっているガラクタのようなものである。しかし、それらが一つの盆の上に置かれると、そこには見事な光景が造られる。それを見て、人びとは大喜びをする。
恐れ多くも、私はそんな光景を夢見る。

2017 日々の聖句 10月4日(水)
神よ、我らはこの耳で聞いています。先祖が我らに語り伝えたことを、先祖の時代、いにしえの日に、あなたが成し遂げられた御業を。(詩44:2)

昔の人たちは、信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、(獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、)弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となりました。(ヘブル11:32~34)

私の黙想:
今日の聖句「この耳で」が強調されている。過去の歴史を、今見ているものはいない。現在の日本人も「戦争を知らない世代」が圧倒的に多い。私が10歳の時に太平洋戦争は終わった。ということは、60歳代以下の人たちはみんな戦争も戦後の苦労も知らない。私たちは自分たちが経験していないことでも、「この耳」で知ることができる。耳を塞がなければ、「その耳で」聞いている。聞いているはずである。そこから後は「信仰」の問題だ。信じるか信じないか。信じてどう生きるか。そして「今」をどう判断するか。
今回の総選挙の焦点はそこにある。

2017 日々の聖句 10月5日(木)
見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。(イザヤ50:9)

わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。(ロマ5:11)

私の黙想:
「誰がわたしを罪に定めえよう」、ということは誰かが私を罪に定めようとしている状況があると言うことだ。イザヤ書50章は1節の冒頭からかなり深刻な文章が続いている。「お前たちの母親を追い出したときのわたしの離縁状はどれか」。ここでは一人称はヤハウェで二人称はイスラエルの民である。イスラエルがうけている「不幸」を神のせいにしようとする民に対するヤハウェ自身の弁証である。ヤハウェは言う。「お前たちの罪によってお前たちは売り渡されお前たちの背きのために母親は追い出されたのだ」。この文脈での有名な言葉は「わたしの手は短すぎて贖うことができず、わたしには救い出す力がないというのか」(2節)。民の訴えは、ヤハウェの「無制限の愛(赦し)である」。もっと広い心で(もっと長い手で)、私たちをかばってくれたらいいじゃないですか。要するに、民はヤハウェに甘えている。その流れの中で、今日の聖句はある。
何だかんだ言っても、神さまは私たちを助けてくださるのだ。だから、誰も私たちの罪を責めることはできない。まぁ、何と身勝手な連中であろう、と私たちは思う。しかし、結局、神は身勝手な私たちを助けてくださるのだ、と預言者イザヤは語る。

2017 日々の聖句 10月6日(金)
朝にはどうか、聞かせてください、あなたの慈しみについて。あなたにわたしは依り頼みます。(詩143:8)

彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。(ヨハネ21:3~4)

私の黙想:
もう新共同訳についてのいちゃもんを言いたくはないが、目についてしまったので。日々のセクでは取り上げられていない、この節の後半に「わたしの魂は憧れているのです」の「憧れている」はいただけない。憧れている相手が神なのであるから、憧れるという動詞は相応しくない。「憧れる」はもっと身近で私たちが努力すれば手に入れることができる、あるいは到達できる対象に向かっていうべき言葉だと私は思う。その点、口語訳の「あなたを仰ぎ見ます」がその実感がこもっている。
現代人にとっては一日の時間配分には特別な思いはない。何しろ24時間空港、いや24時間オープンのコンビニがある時代である。だから昼も夜も朝も正午もあまり関係がない。だいたい、教会の礼拝時間が午前10時半というのもいかにも中途半端である。やはり私たちが一日を始める「朝飯前」に神に向かい合うのが相応しい。夜明け前から日が出てくるとき、その空模様を見ながら私たちは永遠を思い、新しい日が与えられたことを感謝する。古来、キリスト教においては聖餐式に与る前には一切食事をしないという習慣があった。今でもそれを守っている人びとを知っている。
私は日々の聖句を朝、一番に読み、黙想する。そしてその日の聖句を、頑なにそれまでは読まない、見ないことにしている。だから初めて出会う活字がその日の聖句だ。それを読んでから私の頭は働き始める。私の頭が働き始めると、まず聖句についての疑問が起こる。その疑問を考えているうちに、その聖句が私の目の前で動き始める。その習慣はできる限り続けようと思っている。でも、最近はスマホによって時計を見るので、その時メールやメッセージが書かれていると、当然それを読む。ということで、その習慣も崩れがちである。

2017 日々の聖句 10月7日(土)
主が民の傷を包み(重い打ち傷を)いやされる日、月の光は太陽の光になり、太陽の光は七倍になり、七つの日の光となる。(イザヤ30:26)

神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。(黙示録21:3~4)

私の黙想:
旧約、新約共に終末の日の幻想だ。とくにイザヤ書の幻想は現代人には想像もつかない。「月の光がは太陽の光になる」。古代人にとって「夜」は悪霊が働く恐ろしい状況であり、その「夜」がなくなり、一日中「昼」になるというのは、どんなに楽しいことかと想像する。現代人はそんなことになったら、いつ寝るのだろうと想像する。夜には夜の楽しみがあり、安らぎがある、と思う。
また、現代人が「太陽の光が7倍になる」なんていう言葉を読んだら、太陽の爆発を想像し、それは「世の末」という悲劇以外の何ものでもない。チョット太陽のフレアが増えたぐらいで、大騒ぎをするのが現代人である。しかし古代人にはそれは神の恵みが7倍になるということ、つまり神の恵みの「完全充実」を意味する。
古代人の書いたものを読むときには、現代人は頭を切り換える必要がある。月が丸くなったり、細くなったり、朝日が昇るとき、大空に繰り広がるスペクタクルを見て、古代人は何を想像したのかな、と想像することは楽しいことだ。

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