ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

マタイは立ち上がって従った マタイ9:9~13

2015-09-21 14:13:10 | 説教
福音記者使徒聖マタイ日 1986.9.21

マタイは立ち上がって従った マタイ9:9~13

イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

本日は福音記者使徒聖マタイの日である。この言い方が示しているように、マタイはイエスの弟子であり、同時に新約聖書の初めの書、マタイ福音書の著者であるということになっている。このことについての専門的な議論は別な機会にゆずるとして、本日はこの日のための福音書からイエスの弟子の在り方、信仰者の姿について学ぶ。
マタイはイエスの弟子になる前は「取税人」であったとされている。いつの時代でもそうだが税金問題というのは国民と政治とを結ぶ具体的な関係であり、常にその在り方が問われていることである。イエスの時代のユダヤ国はローマ帝国に支配されており、いわば奴隷国家であり、国民の日常生活は法律も宗教も教育も経済もローマから規制を受け、非常に苦しいものであったと想像される。その上、毎年かなりの税金をローマに収めなければならないことになっていた。現在では基本的には税金というものは収入があって、その収入の一部を税金として政府に納めることになっているが、ローマに支配されている状況下では、収入があったから税金を払うというようなものではなく、食べるものを食べないでも税金は払わなければならないことであった。もし税金が払えない場合には、家族中が皆で夜逃げをして姿をくらまし放浪者(ホームレス)になるしか方法がなかったのである。
そういう状況においてローマの支配者たちは税金の取り立てに随分苦労したのであろうと思われる。そこでローマが考えたことは税金取り立ての下請け業者を雇うということであった。しかも、それを同じ国民の中から募集し、取り立てた税金の何割かを手数料として与えたのである。これだと税金に関わる人々の怨みはその徴税人に向かい、ローマへの反抗心も薄められると考えたのあろう。徴税人たちの収入は、「稼いだ?」金額に応じて増えたり減ったりするシステムになっていた。従って徴税人たちは可能な限り多く税金を集めるために、夜逃げされたり、あるいは税金の取り損ねがないように、自分の責任範囲の人々の生活を厳しく監視していたと推測される。いわば税金を集めるというだけではなく、ローマ帝国の手先として色々な役割を果たしていたのである。そのために一般のユダヤ人たちからは裏切り者、民族の敵と見なされ、憎まれ、軽蔑され、付き合ってはならない「罪人」と同列に見なされたいた。

新約聖書はマタイのことについて「マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った」ということしか、述べられていない。たった、これだけです。もっとも、これもマルコ福音書が「アルファイの子レビ」について述べている記事(マルコ2:13~17)を、イエスの弟子で元徴税人ならば、マタイに違いないと解釈して述べたものと思われる。
ともかくマタイについては新約聖書はたったこれだけのことしか述べていない。マタイは収税所に「座っていた」。そこをたまたま通りがかったイエスが「わたしに従いなさい」と声をかけた。すると「彼は立ち上がってイエスに従った」。マタイ自身の行為は、「座っていた」「立ち上がって従った」、その二つだけである。しかし、この二つにイエスの弟子となること、信仰に入るということの全てが、含まれているのである。むしろ私たちはキリスト者になろうとする時に、あまりにも多くのことを配慮しすぎているのではないか。あまりにも多くのことを説明しすぎているのではないか。

マタイが座っていた所、この「座る」という言葉で象徴されているマタイの生活の場、それは安定した生活、多くの国民からは、とやかく言われたとしても、一応、毎日付き合い、酒を飲んだり、食事をしたりするぐらいの友人にはことかかず、財産も徐々にではあっても増えるし、まぁ安定した生活であると言えるであろう。その生活の場は自分がローマに対する批判やユダヤ人としての民族意識というようなこと、あるいは貧乏人に対する同情心というようなものを、あまり過度に持ちさえしなければ、そんなに居心地の悪い所ではない。それがイエスの弟子になる前の「マタイの座」であった。そんな彼にイエスは「わたしに従いなさい」という言葉をかけられたのである。イエスに従うということは、「座」を棄てることである。安定した生活を棄てることである。放浪することである。イエスには「道」はあるが、「座」はない。イエスに従うということは安定した「座」を棄て、「道」に出ることである。

イエス御自身がこう言っている。ある時、イエスが大群衆に向かって説教したとき、群衆が非常に感動し、イエスの元から離れようとしないのでイエスは密かに船で逃げ出さないと、どうしようもないというようなことがあった。この時、一人の律法学者もイエスの説教に感動し、「私も弟子にして下さい」と入門を申し出た。その時、イエスは「狐には穴あり、空の鳥に巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。それでも良ければ「私に従いなさい」と述べられた。この律法学者はイエスに従うことを断念いたしました(マタイ8:20)。しかし徴税人マタイは「座」を棄て、「立ち上がって従った」。イエスの弟子となり「イエスの道」を歩む者となり、イエスの仲間となった。

さてマタイについて、もう一つのことを述べておかねばならない。マタイはイエスの弟子になった時、徴税人時代の仲間とイエスの仲間の両方を招いて入門祝いのパーティを開き、かなり大騒ぎをしたらしいのである。こういうことは他の弟子たちには見られないことで、マタイ独自の行動である。この行動によって「座」を棄て「道」に出るという非常に厳しい出来事、ある意味で非常に非人間的な出来事、親も棄て、子も棄て、家も棄てるという悲壮な出来事が、「アレ!イエスの弟子となり、イエスの道を歩むということは、そういうことだったのか」と思わせる。イエスの弟子になることが、元の仲間に対しても新しい仲間に対しても、祝うべきこととして印象づけられる。それは読者に対しても同様である。多くの注解書を読んでも、あるいは多くの説教を聞いても、この点が案外見落とされているのではないかと思う。
ところが、この祝会を見てケチをつける人がいたのである。イエスは普段厳しいことを言いながら、徴税人や罪人と一緒に食事をしたり、酒を飲んだりして、大騒ぎをしていると批判をしに来たのである。批判したい連中はどこの世界にも、何時でもいる。この批判を聞いて、イエスはあの有名な名言を述べられたのである。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。このイエスの言葉さえ、批判したい連中から見たら、イエスも彼らのことを「病人」や「罪人」と認めているではないか、などと批判する。よく文脈を見て、考えれば解ることだろう。彼らは世間からは「病人」とか「罪人」と言われているかも知れないが、私と共にいる限り、彼らは「私の友」(マタイ11:19)なのだ。むしろこのテキストではイエスの方が徴税人や罪人の「友」になっているのである。

ここで、もう一点付け加えるならば、マタイがイエスの弟子となり、イエスの仲間になるということは、同時にイエスがマタイの仲間たちの友になるということである。マタイはこの祝会を開くことによって、それを現実化しているのである。

最新の画像もっと見る