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ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第3主日(特定7)の旧約聖書(2017.6.25)

2017-06-23 08:37:06 | 説教
断想:聖霊降臨後第3主日(特定7)の旧約聖書(2017.6.25)

神との勝負  エレミア20:7~13

<テキスト>
7 主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされてあなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲ります。
8 わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり、「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。
主の言葉のゆえに、わたしは一日中、恥とそしりを受けねばなりません。
9 主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。
10 わたしには聞こえています、多くの人の非難が。「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。
「共に彼を弾劾しよう」と。わたしの味方だった者も皆、わたしがつまずくのを待ち構えている。
「彼は惑わされて、我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。
11 しかし主は、恐るべき勇士として、わたしと共にいます。
それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき、勝つことを得ず、
成功することなく甚だしく辱めを受ける。それは忘れられることのないとこしえの恥辱である。
12 万軍の主よ、正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方よ。
わたしに見させてください、あなたが彼らに復讐されるのを。
わたしの訴えをあなたに打ち明け、お任せします。
13 主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。

<以上>

1.この主日の課題
聖霊降臨後の主日の旧約聖書は基本的には福音書との関連で選ばれている。(参考:森紀旦『主日の御言葉』p.145)何処がどう関連しているのかは、それぞれに判断が委ねられているらしい。ちなみに、この日(特定7A年)の福音書は、マタイ10:16~33である。このテキストはイエスが弟子たちを町々、村々に派遣する場面であり、派遣先での注意事項が述べられている。その中心的メッセージは「人々を恐れてはならない」という点にあるようである。それと関連して旧約聖書では預言者エレミヤの嘆きの告白が読まれる。預言者エレミヤは、ヤハウェによって派遣された者として「一日中、笑い者にされ人が皆、わたしを嘲ります」とヤハウェに向かって訴えている。

2.主に惑わされて
この訴えを読んで、先ず驚かされることは、エレミヤが人びとから笑いものにされ、嘲られるということを、主からの「惑わし」(7節)として述べている点である。人びとから罵られること、軽蔑されていることが、実は「主からの惑わし」だという。ちょっと理解しにくい。その続きの言葉を読むと、「わたしは惑わされてあなたに捕らえられました」という。つまり、あなたの「惑わし」に乗っていなければ、こんなことにはならなかった、という恨み言なのである。口語訳では「わたしはあなたに欺かれた」という。文語訳はもう少し穏やかで「汝われを勧め給いて」である。カトリック教会で読まれているフランシスコ会訳は面白い。「そそのかし」である。岩波訳はもっと面白い。「口説かれた」という。一つの単語が、どういう風に訳されているのか、比較して読むと面白い。これをいきなりヘブル語本文で読んでしまうと、面白さが半減してしまう。
要するに、預言者エレミヤは神から預言者として選ればれたことを恨んでいるのである。こんな筈じゃなかった。あの時、私は固く断ったのに、あなたは私をなんだかんだと説得して、預言者にされてしまった。だから、エレミヤは思いっきり、「あなたの勝です」という。

2.エレミヤの召命とエレミヤの時代
こんなにぼやいているエレミヤの召命はどんなものだったのだろうか。エレミヤ書の冒頭にエレミヤの召命の記事がある。元々エレミヤは地方祭司の息子であったらしい(エレミヤ1:1)。当時の決まり事に従えば、成人したらそのまま祭司になる筈であったが、そとき彼に神の言葉が臨む。
「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた」(1:5)。当時、預言者になると言うことは祭司職という安定した立場を離れ、人々に、その時その時の神の言葉を語ると言う、言わば自由人になることを意味していたらしい。当時、まだエレミヤはまだ若かったと思われる。エレミヤは神の申し出を断る。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」、ところがそんなことでヤハウェは引き下がらない。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」(1:7~8)と約束された。そういうことで、結局エレミヤはヤハウェに説得されて預言者となった。
エレミヤが召命を受けた時代は、紀元前6世紀の終わり頃で(BC627)、北のイスラエル国はその100年ほど前にアッシリア帝国によって滅ぼされ、当時は北の10部族は歴史上から消えていた。南のユダ国がアッシリア帝国に滅ぼされなかったのは、その後ろにエジプトという古い強国があったからで、ユダの指導者たちはエジプトに親近感を抱いていた。しかし、そのアッシリア帝国も新興国バビロニアの勢力に押され、その勢力は衰えていた。つまり歴史の大きな転換期で、ユダ国も既にバビロン帝国の支配下に入り、すでにBC598年には第1次バビロン捕囚も経験し、バビロン軍はいつでも首都エルサレムを滅ぼすことが出来るという状況であった。ただ、バビロンはユダ国を一気に滅ぼすことはせず、エジプトとバビロンの緩衝地域として、一応かろうじて独立していた。つまり、国内は親エジプト派と親バビロン派とが対立していた時代である。誰かが何かを語れば、バビロン派かエジプト派かでレッテルが貼られる。そういう状況の中で、エレミヤは第1次バビロン捕囚でバビロンに連行されていた人々に、ユダ国の将来を期待していた。第1次バビロン捕囚後10年目にユダ国内でバビロンへの抵抗運動が始まり、バビロンはもうこれ以上ユダ国を存続させる意味がないと判断し、エルサレムを滅ぼし、第2次バビロン捕囚が行われた。BC587年のことである。その時、親エジプト派の指導者たちは無理矢理にエレミヤをエジプトに連れ出したのであった。それ以後のエレミヤの消息は分からない。

3.エレミヤのメッセージ
今日のエレミヤの嘆きは、第1次バビロン捕囚と第2次バビロン捕囚との間の期間の出来事をであろうと思われる。その頃、国内の世論はバビロンへの抵抗ということで、そのための戦争準備もなされていた。そしてついに紀元前601年にはユダ王ヨヤキムの指導によりバビロンに対する反乱が起こっている。そういう中で、預言者エレミヤはバビロンへの帰順を語っていた。神の民であるイスラエルにバビロンに帰順せよ、と預言者が語る。これは単純には理解できないことであった。実際、当時多くの預言者たちは、イスラエルは神の民なのだから、またエルサレムには神の家、神殿があるのだから、ヤハウェは必ずイスラエルを助けてくれると語っていたのである。人々はそのような預言者のことをヤハウェの言葉として聞き入れていた。そのような状況の中で預言者エレミヤだけは、バビロンへの帰順を語ったのであるから、エレミヤの評判は極度に悪くなった。言わば、それは当然の帰結であった。
8節をみると、私が口を開けば問題となると嘆いている。つまりエレミヤが語れば人びとから罵られ、時には暴力的にも脅されたのであろう。「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはおれない。この言葉はエレミヤ自身が神に対して訴えている言葉なのである。エレミヤだってもう少し人びとから賞賛され、受け入れられる言葉を語りたいと願ったであろうが、ヤハウェはそれを許さない。
エレミヤのメッセージは、この国難の原因は民の不信仰に対するヤハウェの怒りなのだから、バビロンに温和しく帰順することはヤハウェの言葉に従うことなのだという点にあった。だから、神の定めに従ってバビロンに帰順することによって、その後にヤハウェの許しがある、ということを語っていたのである。この場合、バビロンへの帰順とはヤハウェに対する罪を認め、ヤハウェによる罰を受け入れるということを意味した。つまりエレミヤのメッセージはヤハウェに対する敗北を意味したのである。そのことによって最後にヤハウェの赦しを信じることであった。それはまさにエレミヤの人生そのものと重なっている。エレミヤはヤハウェによって負かされて預言者になり、あなたの言われるとおりに人々にヤハウェの言葉を語ってきた。その結果が、人びとから笑いものにされている。

4.エレミヤの嘆き
9節にはエレミヤの呻くような苦しみの声が聞こえる。「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました」。 何という悲劇であろう。ヤハウェの名前を口にすることさえ、嫌になった。もう、絶対口を開かない。誰にも、何も語りたくない。ところが、預言者の内部では主の言葉がフツフツと沸騰し、今にも肉体を爆発させようとしている。もう、疲れ果てて、降参し、「わたしの負けです」という。
しかし、巷の声はますます大きくなり、恐らく部屋に閉じこもっているエレミヤの耳にもその怒号が聞こえてくる。「わたしには聞こえています、多くの人の非難が」。「恐怖が四方から迫る」、「共に彼を弾劾しよう」というのは民主の、つまりエレミヤに対する弾劾の言葉である。わたしの味方だった者も皆、わたしがつまずくのを待ち構えている。「彼は惑わされて、我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」(10節)と。
その意味では、毎日がヤハウェとの戦いであり、毎日がヤハウェに対する敗北である。もうこうなったら、人々の嘲笑も批判も問題ではない。他の多くの預言者たちは「平和」を語る。しかしエレミヤは「裁きを語り、民族の滅亡を語る」。
この言葉を聞いて、エレミヤはやっと我に返ったのであろう。私はヤハウェに負けても良い。しかし、ヤハウェは負けてはいけない。ヤハウェの言葉が地に落ち、踏み荒らされることは許されない。「しかし主は、恐るべき勇士として、わたしと共にいます」。私は私が人々の迫害に負けることばかり考えていた。しかし、私に付いているヤハウェは負けるはずがない。これが預言者が再び立ち上がる力となった。

⒌.人生における勝負
人生は勝負の連続である。しかし、ここ一番という勝負どころはそれ程多くあるわけではない。まさに人生における「ここ一番」である。本日のテキストがわたしたちに語る重要な点は、人生における「戦い」とは、現実的な戦いであるが、実はすべての戦いの背後に、あるいは前に「神との戦い」があるということを語っているように思う。
エレミアの場合も、「真実を語る」という戦いであった。そして、人々に真実を語るという戦いは実は神との戦いそのものであった。しかし、これは預言者だけのことであろうか。決してそうではない。私たちだって、現実的な戦いにおいて、実は神と戦っているのである。

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