ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

晩年の田辺元先生

2008-12-16 21:45:52 | ときのまにまに
昨日紹介した『物語「京都学派」』(竹田篤司、中公叢書)の中に、こんな文章を見つけた(245頁)。
田辺元先生の晩年の頃の手紙である。
<パウロやヨハネの神学に近ごろ没頭して居りますが、紀元前後の世の中の有様は今日に酷似して居り、新宗教が世の中を新たにしたのもさこそと存じます。ただ、今日は、イエスを始め使徒達の、業に比すべき魂の糧が、新たに与えらるることなく、ただ祖述解釈の外に我々の為し得ることが無い末流の時代である事が、真に悲しむべき次第なのありませうか>(12月8日)。
この手紙は、野上弥生子宛のラブレターの一部である。京都大学を定年退職した後、北軽井沢に転居していた田辺先生は病弱な妻・千代の死後、千代の友人であった野上弥生子と激しく心を通わす関係になった。もっとも、それはあくまでもプラトニックなものであったが、文化勲章の受章者である哲学者と文学者とが、70歳を越えて、「高度に知的な愛情関係」を持ち、親しく書簡を交換したということは世界的にも珍しい出来事であった。
前掲の文章は、昭和34年(1959年)のもので、田辺先生はその3年後に没している。その前年の昭和33年の手紙では「今、小生ブルトマン、シュワイツァー等の神学者のパウロ解釈に没頭しています」(1958.1.7)とも書かれている。当時、田辺先生がキリスト教思想に並々ならない関心を寄せておられたことがわかる。別な手紙では「キリストに倣う」ことは命がけでなければならない」という主旨のことを書いている。
昭和36年6月12日付の野上弥生子の日記には「午前先生訪問。先生はまだワタ入れであった。マラルメの『イギツール』について語り出される、まったく学問に憑かれた人の熱情がほとばしる。この詩を主題にしてもアウグスチヌスの時間論を序論として哲学一般に及ぶのだから、私にはなにに話が飛んでも学ぶべきものばかりである」と書いている。二人が共有する時間の充実した雰囲気がこの文章に込められているように思う。
田辺先生の葬儀の日の日記(1962.5.6)に、野上は次のように書いている。<あのとき(田辺夫人の葬儀)は9月のさかりの秋草を集めたのであるが、今日は東京から持参の黄水仙、またあの時は西谷さんが聖書の一節を読んだが、今日は唐木さんが先生の『メメント・モリ』を読んだ。

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