ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/02/23~03/01

2014-03-02 17:05:09 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/02/23~03/01

2014日々の聖句 02月23日(日)
主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出してくださる。(詩34:20)
わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。(2コリント4:8~9)

私の黙想:
何か変だ。「主に従う人には災いが重なる」とは。私がこの言葉に最初に接した頃は「正しき者は悩み多し。されどエホバは皆その中より助け出し給う」だった筈である。新共同訳以外はすべて「正しい者」と訳している。「主に従う人」と「正しい人」とでは、意味でする領域が異なる。「災いが重なる」も信仰者の実感とは異なる。新改訳は「悩みは多い」、文語訳では「艱難」と書いて「なやみ」とふりがなを振っている。祈祷書訳では「正しい人は悩みが多い。しかし主はすべての悩みから助け出される」。原語がどうなっているのかというよりも、信仰者の実感に合わせて、この訳がもっともピンと来る。信仰者が迫害を受ける場合、その「信仰」の故にというよりも、その「正しさ」の故にであると考える。その意味では、信仰者でなくても「正しい人」には、その正しさの故に悩みが多い。むしろ、現代ではその「悩み」によって信仰者は信仰者以外の正しい人たちと連帯できる。いや、連帯しなければならない。神は、その人の信仰の故にその人の悩みから解決への道を示されるのではなく、その正しさの故に助けてくださるのである。

2014日々の聖句 02月24日(月)
わたしは黙し続けて、絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。御手は昼も夜もわたしの上に重く、わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。(詩32:3,4,5)
以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされなさい。(エフェソ4:22~23)

私の黙想:
ここでの「黙し続けて」とは「わたしが自分の罪を言いあらわさない」(口語訳)ということである。「もうそろそろ、全部罪を吐いて、気が軽くなったらどうかね。もうこちらでは、あんたがやったことは全部調べがついているんだよ」。まるで警察署の取調室のような情景である。「犯した罪を告白しない」ということは、大変な重荷である。罪を告白したときの解放感は経験によって学ぶ。私のクリスチャンであった母親は正義感が強く、まだ私が幼い子どもの頃でも、嘘をついたり、誤摩化したり、弱い者をいじめたりすると、何故そういうことをしたのか反省し、告白するまで絶対に容赦してくれなかった。子どもでも子どもなりに意地があり、そう簡単に「(心の内を)告白」しない。そういう場合に、食事を与えられないときもしばしばあったことを思い出す。いわば兵糧攻めである。だいたいそういう場合、私は空腹に負けて、告白する。事柄は小さいことでも、その経験は大きい。「鬼のような顔」をした母親が「恵比寿さん」のように優しい言葉をかけて赦してくれた時の解放感。その時、泣きながら一人で食べた食事の美味しいこと。この経験は貴い。

2014日々の聖句 02月25日(火)
わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はない。(イザヤ43:11)
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるよう。(エフェソ1:17)

私の黙想:
「わたし、わたしが」という強調的表現。フランシスコ会訳、新改訳では「わたし、このわたし」と更に強調している。まるでヤハウエのエゴイズム丸出しという表現である。ヤハウエはここで何をそれほど強調しているのだろうか。ここはバビロン捕囚からの解放を預言する言葉である。わたしが解放すると約束する。その約束を信じてもいいものか。それを保証するのは誰か。ここでは「わたしが選んだわたしの僕」(単数)、「あなたがた」(複数)が証人であると言う。「苦難の主の下僕」(単数)と以前に救いを経験したことがある「あなたがた」(複数形、つまりイスラエルの民)とが神の言葉の証言者である。ここに神による救済の業の証言者としての単数形と複数形とが並列している。神の救済の業をもたらす者(単数)とその救済を受ける者との一元性が隠喩されている。本日の聖句の「自己主張」がこの「単即複」の神秘を支える根拠となる。「救済される者」即「救済をもたらす者」、「目を開かれた者」即「イエスの証言者」(マタイ9:30~31)。

2014日々の聖句 02月26日(水)
主は地の果てまで裁きを及ぼし、王に力を与えてくださる。(1サムエル2:10)
神は、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。(エフェソ1:20~21)

私の黙想:
一瞬、時代錯誤かと思ったが「ハンナの祈り」の中の1節なので了解。ハンナの産んだ息子サムエルが王政を開いた。預言者サムエルはどちらかというとイスラエルの王政には反対の立場であった(1サムエル8)が、民衆の強い要望によって、ヤハウエの了解を取り付け、初代の王、サウルに油を注いだ(同10:1)。ここが面白い。ヤハウエは、そしてサムエルも民衆の要望に応えて、イスラエルの王政を承認する。そして王を祝福し、支え王国の繁栄を助ける。イスラエルの王政は「ヤハウエと預言者」の支えによって成立し、維持される。イスラエルの王たちはこのことを一日たりとも忘れてはならない。サウル王はそのことを忘れた。そしてその日のうちに、「主の霊はサウルから離れ」(同16:14)王座から降ろされた。ダビデ王も決して失敗や罪がなかった訳ではないが、常に神の前には「跪く男」であった。これが王である者が固持すべき一点であった。そしてそれがすべての人間が護るべき「鉄の原則」である。「神を畏れること」(コヘレト12:13)。

2014日々の聖句 02月27日(木)
わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい。(申命記30:19)
神と和解させていただきなさい。(2コリント5:20)

私の黙想:
選択の余地がない所まで追いつめた上で、「こちらを選べ」と命じる。これが究極的な「神-人」関係だ。エデンの園においても「命の木」と「善悪を知る木」とを置き、「善悪を知る木」を食べたら死ぬと宣言した上で、「食べてはならない」と命じる。食べるか食べないかと言う「自由」を与えた上で、「食べるな」と命じる。ここから導き出される論理、「出来るが、するな」。人間には「可能」における「禁止」がある。「殺せる」が「殺すな」。「死ねる」が「死ぬな」。「愛せる」が「愛してはならない」。「欲する」が「意志しない」。意志しないという「意志」。それを逆転すると、「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない」(ロマ7:18)。「意志する」が「出来ない」という現実もある。

2014日々の聖句 02月28日(金)
サウルの言葉:自分の敵に出会い、その敵を無事に去らせる者があろうか。今日のお前のふるまいに対して、主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう。(1サムエル24:20)
イエスの言葉:敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ6:27~28)

私の黙想:
ダビデの命を狙うサウル王を襲撃するチャンスがあったのに、それを実行しなかったダビデに対するサウルの賞賛の言葉。これだけの言葉を発したサウル王はその後もダビデの命をねらう(1サムエル26:2)。もう一度サウル王を襲うチャンスがあり、ダビデの部下は今度こそ殺そうというが、ダビデは「殺してはならない。主が油を注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない(同9節)と言う。
この出来事を通していろいろなことを学ぶ。とくにダビデが「油注がれた方に手をかければ」というのもその一つ。たとえ「悪王」であっても、たとえ彼から神の霊が離れていた(同16:14)としても、一旦神から「油注がれた者」に対して、神による「油注ぎ」そのものを尊重すべきである。この時ダビデも既に「油注がれていた」(同16:13)。この思想がヨーロッパの歴史に大きな影響を与えている。特に英国における王権神授説。

2014日々の聖句 03月01日(土)
主の言葉:彼はわたしを慕う者だから、彼を災いから逃れさせよう。(詩91:14)
イエスは祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。(ルカ22:42~43)

私の黙想:
旧約聖書の神は「ひいきする神」である。慕われることがお好きのようだ。口語訳ではもっと強烈だ。「彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう」。さすがに文語訳ならもう少し慎み深いかと思ったら「彼その愛をわれに注げるがゆえに我これを助けん」。もっと激しい。もう完全に恋愛状態である。おそるおそる岩波訳を覗くと「彼はわたしを恋い慕うから、わたしは彼を逃れさせよう」。生徒を贔屓する教師かと思ったら、深い師弟愛であったかと思ったら、実は濃密な恋愛関係であった。
実はここで用いられている「慕う/愛する」という語はかなり特殊で、元々の意味は足枷を結ぶと言うような意味らしい(参照:2歴代33:11,36:6)。つまり相手に足枷をはめて逃げられないようにするという意味である。創世記34:8では男女関係の激しい恋物語で用いられている。つまりここでの「主を慕う」というのは、そのような激しい感情、もう誰が何と言っても離れない関係、気が狂ったような情愛を意味している。さすがの神でもそこまで慕われたら、そりゃほっておけないであろう。さらに興味深いのはヤハウエがイスラエルをご自分の民として選んだのは、あなたたちがどの民よりも貧弱であったという点に「心ひかれた」(申命記7:7)からであるという。ここで「心ひかれた」という言葉もこの言葉が用いられている。ここではヤハウエの方がイスラエルの民を恋い慕っている。今朝はここまで。これ以上、この関係はどうなるのか、それぞれのご想像にまかせる。

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