ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/06/25~07/01

2017-07-01 16:11:34 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/06/25~07/01

2017 日々の聖句 6月25日(日)
ヨセフは(このように)、兄たちを慰め、優しく語りかけた。(創世記50:21)

悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ロマ12:21)

私の黙想:
新約聖書の聖句には少々問題を感じるが、それは問わないことにする。今日の聖句、メロドラマで言うと「お涙ちょうだい」のクライマックスだ。荒筋は省略する。このときヨセフはどう言ったのか。「ヨセフは兄たちに言った。『恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう』」(創世記50:19~21)。先ず最初の文章、私は神に代わることが出来ません」という言葉は、実は非常に厳しい言葉である。要するに、神に代わって私はあなたたちを裁けない」。神が、この場おられたら、兄たちを裁き、その悪玉を処分することがだろうが、私にはその権限がない。権限があったらそうしたい、という意味である。まさに復讐である。しかし、幸いなことに私にはその権限がない。
第2の文章は、その権限がないだけではなく、その肝心要の神が「悪」を「善」に変えた。それは何のためにか、ということが第3の文章だ。神があなたたちを赦したというよりも、神ご自身のご計画、「多くの民の命を救うために」だという。要するに、イスラエルの民12部族の将来のためだという。この違いは大きい。ここから、イスラエルの12部族全体に対する生存の責任はヨセフに移された。私が神に代わって子孫を養う。
ということで、創世記は終わる。

2017 日々の聖句 6月26日(月)
真実をわたしの口から奪わないでください。(あなたの裁きを待ち望んでいます。)(詩119:43)

人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。(1コリント4:1~2)

私の黙想:
「真実を私の口から奪わないでください」、この言葉は誰に対して語り、どういう意味であろう。ローズンゲンでは取り上げられていないが、後半の言葉から想像するに、これは裁判の状況で、おそらく詩人は被告の立場に立たされているのであろう。42節で「わたしを辱めた者」が登場している。おそらく詩人は「辱める者」に反論しようとしている。そころがその弁明の言葉が受け入れられないで、それは作り事であろうとか、嘘であろうと法廷は騒いでいるのかも知れない。およその状況は想像できる。「弁明」「反論」が受け入れられない裁判。強権政治の元では、真実の言葉は奪われ、冤罪がまかり通り、正義が通らなくなる。そういう時代が再び来ないことを祈る。

2017 日々の聖句 6月27日(火)
(思い起こせ、ヤコブよ、イスラエルよ、あなたはわたしの僕。)わたしはあなたを形づくり、わたしの僕とした。イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。(イザヤ44:21)

神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。(ロマ11:1)

私の黙想:
イスラエルの神は、よほど心配性だ。そこまで執拗に繰り替えさなくても、造られたもの、下僕は神を忘れるようなことはない。忘れたように見えても、忘れていないからこそ、忘れたふりをする。一種の駆け引きだ、と私は思う。その意味では神よりも、人間の方が「人が悪い」。その点、神は素直だ。率直だ。
この関係はキリスト教にも引き継がれている。というより、キリスト教では神を「遠い存在」にしてしまった。つまり、神を倦厭してしまっているような気がする。イヤ、それは日本人キリスト者だけかも知れない。神さまは神棚に収めて、都合の悪いときには蓋をして、居ないことにしているきらいがある。いや、むしろ日曜日だけの神にしているのかも知れない。多くの聖職たちを見ていて、この人たちは本当に神を信じているのかと疑問に思うことがある。これは私自身を他者に映し出しているのかも知れない。その意味では、今日の聖句は私には直接に響く。

2017 日々の聖句 6月28日(水)
天は神の栄光を物語る。(詩19:2)

イエスが水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(マルコ1:10~11)

私の黙想:
ドーンと今朝のみ言葉が降った。明らかにローズンゲンの編集者は、今朝は余所見をしないで、この聖句に集中せよ、と命じているようだ。これは2節とあるが、詩19の冒頭の言葉だ。「ハッシャマイム メサペリーム ケヴォド エル」ヘブル語で書いたところでヘブル語が分かっているわけではない。ただ何となく、音を聞きたかっただけである。やはり堂々としている。どの邦訳も似たり寄ったりだが、関根先生の訳では「もろもろの天は神の栄光を語り」で、この「もろもろ」がただ単なる複数形だという以上のすごさを表現しているように思う。岩波訳(松田伊作)はユニークだ。「天は述べる神の栄光を」と訳し、これは「天体の諸々の働きが、そのままそれを創造した神の栄光の証だということ」と解説している。北森嘉蔵は、この句から例のカール・バルトとエミール・ブルンなーとの「自然神学論争」を語り、自然神学への傾斜を警告している。浅野順一先生は、その論争を意識してか意識せずにか、「キリスト教の真理は、この二つのことを結ぶ直線を軸として回転するのであって、そのどちらを欠いても、完全な神観とは言いがたい」と言う。
それらのすべての議論をさておいて、ベートヴェーンの「自然における神の栄光」を聴く。https://www.youtube.com/watch?v=5zgye4EpI3Q

2017 日々の聖句 6月29日(木)
あなたに向かってわたしは祈ります。主よ、御旨にかなうときに、神よ、豊かな慈しみのゆえに、わたしに答えて確かな救いをお与えください。(詩69:14)

あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。(ヤコブ5:13)

私の黙想:
「確かな救い」ということがウエスレーにとっては重大な神学的課題であったはと言われている。「救いの確かさ」とは一体何だろう。口語訳にはそんな言葉は出て来ない。「まことの救い」、新改訳では「御救いのまこと」、邦訳を比べてみると、どうやら二通りに分けられるようだ。救いに「まこと」と「嘘」があるのだろうか。あるいは「不確かな救い」があるのだろうか。私には「救いの確かさ」も「まことの救い」も概念として理解できない。そもそも、「救い」にそういう修飾語は釣り合わない。いや、そう言われてみると「救い」とは何かというところまで疑問が膨らむ。「助かった」「良かった」でいいではないか。私はキリスト者になって良かった。そうならなかったら、どうなっているんだろう。そういうことなのではないのだろうか。
そこまで考えて、今日の聖句を読み直してみると、やはり変だ。訳語が間違っているという意味ではなく、ここでの「御旨にかなうときに」とはどういうことだろう。気が向いたら、私の質問に答えてください、ということであろう。気が向かなかったら答えなくてお言いですよ、ということになる。しかもこの文章は全体として、「確かな救いをお与えください」ということで、気が向かなかったら、「確かな救い」をお与えにならなくてもいいですよ、ということになれないだろうか。そうすると、この文章全体が何を求めているのか、分からなくなる。

2017 日々の聖句 6月30日(金)
イスラエル(の人々)は主に言った。「わたしたちは罪を犯しました。わたしたちに対して何事でも御目にかなうことを行ってください。ただ、今日わたしたちを救い出してください。」(士師記10:15)

(こういうわけで、)わたしたちもまた、(このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、)すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。(ヘブル12:1)

私の黙想:
何とも言えない聖句。士師記はこういうことの繰り返しだ。「喉元過ぎれば、熱さを忘れる」という日本語の諺があるが、人間は「歴史」を忘れる。ある意味で、それは当然のことで、その歴史を実際に経験した人と、「今の人」とは違うのであるから、「忘れる」という言葉が当てはまるかどうか。むしろ「歴史」が歴史になっていない。真の歴史とは過去の出来事を通して現在の教訓とすることで、過去の出来事が現在の教訓となっていない、ということに他ならない。
今日の聖句、前半と後半とがきっちり結ばれていない。「ただ、今日」以下が、前半を完全に無視している。だから、この祈りがその場あたりの無責任な祈りになっている。「わたしたちに対して何事でも御目にかなうことを行ってください」。本当なら、こういった以上、「ただ、今日」以下はない。

2017 日々の聖句 7月1日(土)
「足がよろめく」とわたしが言ったとき主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。(詩94:18)

パウロの手紙:わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、(わたしたちに油を注い)でくださったのは、神です。(1コリント1:21)

私の黙想:
今日の聖句、確かにそうに違いないが、イヤな聖句だ。ローズンゲンまで、聖書の言葉を引用して、私を笑いものにするのか。あまりにもリアルすぎるのも問題だ。口語訳はそうではなかった。「わたしの足がすべる」である。これも受験生にとっては禁句であろう。人生には「スベル」ときあり「よろめく」ときありだ。フランシスコ会訳にはもう少し気をつかっている。「足は揺らぐ」と言いさえすれば、主よ、あなたの慈しみは、わたしを支える。何が配慮かというと、これは仮定法でリアルではない。新改訳はもっと明白だ。「もしも私が、『私の足はよろけています。』と言ったとすれば」である。完全に「もし」文章である。岩波訳も「たとえ私が『足が揺るいだ」と思っても、あなたの恵みが」で、ここでは「譬えの文章であり、さらに口に出して「言わなくても」「思っても」で細かい配慮がある。
毎日の生活の中で、部屋の中でさえ「私の足はよろめく」、その瞬間私は家内の顔を見る。家内は明らかにそれを「見た」のに「見てみないふり」をする。私は家内が見てみないふりをして安心する。高齢者がよろめくとき、それだけのドラマがある。きっと、神さまも、私たちの歩みが、あるいは信仰が「よろめいたとき」、「見ていないふり」をしてくださっているのだと思う。そこに愛がある。関根先生はここで「ヤハウェ、あなたの愛が私を支えた」と訳しておられる。

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