ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

考:大斎始日、大斎懺悔式について

2016-02-09 09:25:57 | 説教
考:大斎始日、大斎始日について

1.大斎懺悔式について
古い祈祷書(1959年改定版)、では「大斎懺悔式」という項目があり(509頁)、そこでは次のように規定されていた。「この式は大斎始日その他主教の定める日に用いる」。必ず守れという訳ではないが、大斎始日礼拝を守るということは、この式文を用いることを意味していた。残念ながら、いや残念と思うのは一つの立場であるが、ハッキリした理由はわからないがともかく現行の祈祷書ではなくなっている。現在では大斎始日礼拝をする場合、懺悔の式の「共同懺悔」を用いることになっている。そこでは次のように規定されている。「大斎始日(灰の水曜日)その他の日に、朝夕の礼拝の懺悔と赦しの祈りをの司式者の言葉(19、36頁)の後に、用い、懺悔の祈り(19頁)に続ける。聖餐式の時には、懺悔を勧める言葉(170頁)の後に用い、懺悔を続ける」となっている。170頁の懺悔を勧める言葉とは通常の聖餐式の中での言葉で「み心にかなう供え物を献げ、また自らを献げて、主が定められたこの聖奠を行うために、ともに罪を懺悔しましょう」とある。つまりこの懺悔は聖奠にあずかるための懺悔であり、大斎始日における「懺悔」とは意味合いが異なる。
大斎始日における罪の懺悔は、そのような日常性にひそむ罪というよりももっと厳粛で根源的なものである。大斎懺悔式にあって、現行で失われたものは「勧告」である。この勧告文はかなり厳しい。もっとも、この「勧告」は「説教のないとき、司式者は次の勧告を用いてもいい」とコメントされているので、必ずしも大斎始日礼拝で用いられなければならないわけではないが、その場合にはその説教の内容が問われるであろう。この「勧告」に見合うような説教をしなければならないであろう。文章は文語体でかなりわかりにくいので、私なりに現代文に直している。

2.<勧告>
兄弟姉妹よ、むかし教会においては明らかに大罪を犯した者を大斎の初めに当たり、会衆の前にて懲らしめる慣習がありました。これは、この世において罰せられたとしても、主の日に救わるためであり、また他人に対しても警告となり、罪を犯すことの恐ろしさを教えるためでもありました。また、罪に対する神の大いなる怒りと、悔い改ためない者への来るべき審きとを思い、罪と怠惰とを嘆き、生活を改めることを決心させ、神のあわれみを祈るためのものであります。
今や、木の根本に斧は置かれています。すべて良き実を結ばない木は切られて火に投げ入れられます。盗賊が夜、誰もが寝静まっている時に来るように、主の日はまさかと思っているときに近づいて来ます。人々が平和だ、無事だと思っているときに、滅びが突然やって来ます。主は言われる。「その時、彼らはわたしを呼ぶ。しかし、わたしは答えない。必死になってわたしを求めるであろう。しかし、わたしは決して会わない。彼らは自ら反省することもなく、わたしの言葉を無視し、わたしの警告を真剣に考えず、わたしの怒りを軽視したからである」と。門が閉まってからいくら叩いても遅すぎます。審判が始まってから、反省してももう間に合いません。その時、彼らの罪を公正に裁く主は、恐ろしい声で厳かに宣言されるでありましょう。「呪われた者よ、わたしを離れて悪魔とその手下どものために用意されている地獄の火の中に入れ」と。
だから、兄弟姉妹よ、救いの日が終わらない内に、生活を整えなさい。夜が来たら、誰も何もできなくなってしまいます。光のある内に、光を信じ、光の子どものように歩きなさい。神の恵みをおろそかにしてはなりません。神は大いなるあわれみをもって、わたしたちを悔い改めに導き、また真心をもって反省する者を赦すと約束してくださいました。わたしたちは確かに罪を犯しましが、わたしたちのために取りなしをしてくださるイエス・キリストが父なる神の前に立っておられます。主は、わたしたちの罪のための宥めの供え物となってくださいました。主は、わたしたちの咎のために自ら傷つかれ、わたしたちの不正のために身代わりになって罰を受けてくださいました。
だから、憐れみ深い主に帰ろうではありませんか。主は必ずわたしたちを受け入れ、わたしたちの罪をお赦しくださいます。このことを疑ってはなりません。常に、主に見習ってへりくだり、耐え忍び、愛する心を持ち、聖霊の導きに従って、主の栄光を現し、感謝して主に仕えることを努めましょう。
願わくは大いなるあわれみによって、わたしたちを御国に至らせてください。アーメン

3.懺悔すべき罪
この勧告においては罪についての具体的な内容について一切触れられていない。そのような具体的、個別的な罪は、個人の問題で大斎節、とくに大斎始日での事柄ではなく、随時、必要に応じて扱われる「個人懺悔」の問題だというのが現行の祈祷書の姿勢であるように思われる。その意味では現行祈祷書では古い祈祷書にはなかった「個人懺悔」の式文が備えられている(現行祈祷書、298頁)。
大斎節および大斎始日で取り上げられるべき「懺悔」については「この世において罰せられたとしても、主の日に救わるためであり、また他人に対しても警告となり、罪を犯すことの恐ろしさを教えるためでもありました」と述べられている。もともと古い勧告文であるが、この勧告文においてさえ「むかし」は教会においても「明らかに大罪を犯した者を大斎の初めに当たり、会衆の前にて懲らしめる慣習がありました」と述べられている。そこで想定されている状況は、この世の裁判所においてこの世の法律によって裁かれる「犯罪」も、同時に教会法的にも「裁かれる」ということが述べられている。従って、「この世において罰せられたとしても」、教会においても、神の前で「罰せられねばならない」ということが述べられている。
少し乱暴な言い方をすると、近代化以後の社会において政治権力と宗教的権威とが分離し社会における犯罪は政治権力の元に置かれたとき、とくにプロテスタント教会においては教会における「罪」は各個人の「良心」の問題とされ「神の前で」という局面が軽くなり、教会における「裁判」もほとんど無意味化していった。罪とは法律違反であり、法律に違反しない限り罪ではないという意識が一般的になりっている。たとえば、麻薬は法律で禁止されているから犯罪なのであって、それを禁止する法律がなければ罪に問われない。たとえば「脱法ドラッグ」がそれである。そこで法律の方が後ろから追いかけるという状況や、A国では犯罪であるがB国では犯罪でないというようなこともありうる。
そのような状況において、教会における「神の前での罪」とは何か。

4.詩51からのメッセージ
大斎懺悔式では詩編51編が読まれる。この詩編によって問われている「ダビデの罪」は俗世界における罪ではない。この詩はその意味で非常に分かりやすい実例をあげている。
ダビデは王宮から町を眺めていて、一人の女性の入浴シーンが目にはいり、自分のものにしたいと思った。思っただけなら罪ではない。しかし具体的に手に入れるために邪魔になる夫(ダビデ軍のリーダー)を自分の権限によって最も危険なところに派遣し、その結果戦死した。その上で、この女性を保護するという名目で王宮に住まわせ、自分のものにした。その全プロセスにおいて彼は国法に反する行為を行っていない。その意味では国法によっては罪に問われない。しかし、その全体のプロセスにおいて彼は十戒の「盗んではならない」と「殺してはならない」という罪を犯している。そこで、預言者ナタンはダビデの罪を告発した。これが「神の前での罪」の典型的な実例である。いわば、犯罪の動機と、その手法そのものが問われている。その意味で、詩51が大斎懺悔式で読まれるのは意味がある。
大斎始日に司祭によって「勧告」が読まれ、詩51を読みことの意味は失われていない。ここで述べられている「罪」という問題、罪に対する私たちの「厳粛さ」は少しも変わっていない。この点がいい加減になっていることがキリスト者の誠実性の弱体化の原因になっているのではなかろうか。その意味で、この「勧告」が教会の中で1年に1度でも読まれることは重要であろう。ここには教会が大切にしてきた「歴史的遺産」が含まれている。


5.生活を整える
むしろ、現在の私たちに直接的に関連するのは、後半の「だから」以下の言葉である。「だから、兄弟姉妹よ、救いの日が終わらない内に、生活を整えなさい。夜が来たら、誰も何もできなくなってしまいます。光のある内に、光を信じ、光の子どものように歩きなさい」。特に「生活を整える」。これはあまり緊急性がないし、その日その日を過ごす上ではあまり重要でもないような事柄である。しかし、いつも「しなければならない」と思いつつ、あるいは「やめなければならない」と思いつつ、一日延ばしにしやすい事柄である。部屋の整理整頓を考えたらよく分かる。テレビ等でも時々取り上げられる「ゴミ邸」の例を考えたらいい。別に他人に迷惑をかけるわけではないし、部屋が滅茶苦茶になっているからといって犯罪という訳もない。問題は部屋の掃除が行き届いていないということが、性格の乱れになり、それが生活の乱れに連なるということである。その意味では、一定の期間を決め、集中的に「生活を整える」ことが必要であろう。大斎節とはそういう期間である。


6.大斎始日の特祷
大斎始日の礼拝においては、聖餐式であれ、その他の式であれ、この日の特祷がある。
「永遠にいます全能の神よ、あなたは造られたものを一つも憎まず、悔い改めるすべての罪人を赦してくださいます。どうかわたしたちのうちに悔い改めの心を新たに起こしてください。わたしたちが罪を悲しみ、その災いを悟り、完全な赦しと平安にあずかることができますように、主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン」
この特祷は古い祈祷書では「当日の朝から受苦日の前夕まで、毎日その日の特祷につづいて用いる」と定められている。つまり、大斎の期間中、46日間、毎日、これを唱えることになっていた。ところが、新しい祈祷書では「土曜日までの平日に用いる」となっている。つまり、4日間だけ唱えるということである。

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