ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 09/22~09/28

2013-09-29 09:07:45 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 09/22~09/28

日々の聖句2013 09月22日(日)
六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。(出エジプト20:9,10)
神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだ。(ヘブル4:10)
私の黙想:
「仕事」とは何か。もちろん古代イスラエルにおける「仕事観」と「現代の仕事観」とは異なる。ここには祭司たちの仕事、ある種の公共的な仕事も「例外」であったのだろう。家事労働や母親の育児なども仕事とは考えられていなかったのであろう。そうでなければ人間社会は成り立たない。砂漠を放浪している時に与えられた律法が定着生活に入ったとき、いろいろな摩擦を生じたことは容易に想像できる。キリスト者が主日厳守をしようとすれば、交通機関が動いていなければならない。交通機関で働くキリスト者が主日に休めば、その仕事を誰かが補う。私たちはこの律法を守れない社会に生きている。その場合、この律法を観念化するか、律法そのものを改正しなければならない。
今日は主日だ。多くのキリスト者たちは教会の礼拝に出席するだろう。その時、自分たちが礼拝に出席できるために働いている多くの人々への感謝の気持ちを失ってはならないであろう。

日々の聖句2013 09月23日(月)

落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。心を弱くしてはならない。(イザヤ7:4)
主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。(エフェソ6:10)
私の黙想:
インドの昔話に、「こわがりやのウサギ」という話がある。一匹の小さなウサギがビクビクしながら森を歩いていると突然ドスンという音を聞いて、驚き森中を「大変だ、地面が破裂しそうだ」と大騒ぎをする。それを聞いたすべての動物がパニック状態になる。それを見ていたライオンがその音の原因を確かめに行くと、それはヤシの実が地面に落ちただけだった、というたわいのないお話である。
イスラエルの人々は「アラムを率いるレツィンとレマルヤ」の人たちが一寸騒いだだけで、今にも攻めて来ると大騒ぎして国内がパニック状態になる。それを見て、預言者イザヤはそれは「二つの燃え残ってくすぶる切り株」(もう既に終わった過去の出来事の燃え滓)にすぎないではないか、と語る。

日々の聖句2013 09月24日(火)

「わたしには罪がない」とか「主の怒りはわたしから去った」とお前は言う。だが、見よ。「わたしは罪を犯していない」と言うならお前は裁きの座に引き出される。(エレミヤ2:35)
悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。(ルカ15:7)
私の黙想:
「主の怒りはわたしから去った」という言葉で、「私たちにはもはや神は不要である」という思想を思い浮かべる。人間は成人になり、自分で善悪も判断できるし、神の恵みを期待しなくても、食料の調達から、生きるために必要なものはほとんどすべて、人間が生み出した科学技術によって手に入れることが出来るという思想である。誰の思想という訳ではないが、現代人はどこかでそう思っているように見える。つまり、神はいないという無神論よりも、神は不要であるという思想が現代社会を覆っている。マルクスの唯物論やニーチェの「神は死んだ」という言葉などが、その思想の根拠になっている。だが、本当に現代人にとって神は不要なのか。神は言う。「それじゃ本当に私なしでもやって行けるのか、裁判にかけてみようじゃないか」。ああ、何と言う軽薄(36節、新共同訳では「軽卒」、口語訳では「軽々しく」、フランシスコ会訳と新改訳では「簡単に」と訳している)な思想であろう。宗教を排除した思想や生き方は鳥の羽よりも軽く、薄いことか。すぐに「両手を頭において」(37節)降参するに違いない。(註:マルクスにせよ、ニーチェにせよ、そんなに軽卒な思想ではない。)

日々の聖句2013 09月25日(水)

主はモーセに言われた。あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。(出エジプト33:20)
わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。(ヨハネ12:45)
私の黙想:
結局、モーセは神の顔を見ることが出来なかったが、後ろ姿だけを見た。(33:23)しかしモーセが山から下って来た時、「自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかった」(34:29-30)と言う。その情景は、福音書における「山上の変貌事件」(マタイ17)へとつながる。
神の顕現を体験するということ、日本語では「権現」という。その体験は「畏怖」を伴う。不思議なことに、イスラエル民族においても、また大和民族においても、この経験と「山」とが密接に関連している。吉野にも権現伝承があり、英彦山にも権現伝承がある。それらの多くの権現伝承の中で、イエスにおける神の顕現は、巷で、貧しい人々の間で、起こった。それが本日の新約聖書の聖句である。私たちはイエスにおいて「神を見る」。神はイエスにおいて私たちに「顕われる」。

日々の聖句2013 09月26日(木)

見よ、その日が来れば、と主は言われる。耕す者は、刈り入れる者に続き、ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。山々はぶどうの汁を滴らせ、すべての丘は溶けて流れる。わたしは、わが民イスラエルの繁栄を回復する。彼らは荒された町を建て直して住み、ぶどう畑を作って、ぶどう酒を飲み、園を造って、実りを食べる。(アモス9:13-14)
身を起こして頭を上げなさい。解放の時が近いからだ。(ルカ21:28)
私の黙想:
ここでの鍵の言葉。「イスラエルの繁栄を回復する」。面白いことにこの語の翻訳の仕方が色々である。まずフランシスコ会訳では「イスラエルの囚われ人を帰らせ」、新改訳では「捕われ人を帰らせる」。愉快なのは口語訳「イスラエルの幸福をもとに返す」。いずれも同じ歴史的な出来事を指し示しているのは間違いない。その言葉に続いて捕囚から解放され帰還したイスラエルの民がしたことが、荒廃した国土の回復、ワインを作って飲み、畑を耕して食料を得る。そう言えば13節でもワイン作りのことに触れられている。祖国復帰の喜びの象徴がワイン作りとワインを飲むこと。いいね。口語訳ではこの部分を「諸々の山にはうまい酒がしたたり」とあり、国土のあちらこちらで大宴会が催されている情景を思わされる。それには「ぶどう汁」では駄目でしょう。まぁ、これは酒飲みの妄想的解釈ですが。

日々の聖句2013 09月27日(金)

あなたは、御口をもって約束なさったことを今日このとおり御手をもって成し遂げてくださいました。(列王記上8:24)
パウロの言葉:わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。(使徒13:32-33)
私の黙想:
「御口」と「御手」の関係が面白い。発する言葉と実行する行為の一致。時代が変わり、相手が代わっても、神の言葉(約束)は必ず実現する。これが旧約(言)から新約(行)への一致。言行一致。キリスト教神学にとっての旧約聖書の意義がここにある。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」(ヨハネ1:14)。これがキリスト教のすべてである。

日々の聖句2013 09月28日(土)

主よ、わたしを滅ぼす者とならないでください。災いの日に、あなたこそわが避け所です。(エレミヤ17:17)
わたしたちはこのキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。(ロマ5:2)
私の黙想:
預言者エレミヤの個人的な祈り。エレミヤはイスラエルの民の滅亡を預言しつつ、自分自身も滅ぼされることを恐れている。まさか民族は滅亡しても自分だけは救済されることを願っているのではないであろう。エレミヤが恐れていることは、民族の滅亡に至る前に、預言者である彼自身が自分の民族によって殺されることである。状況は非常に悪い。預言者が預言者として主の言葉を語れば語る程、世間から脅迫される。もう逃げ場がない。彼にとって主だけが「避け所」であるが、その主は沈黙している。「主よ、あなただけは私を脅かす者にならないでください」。この「脅かす者 」を新共同訳では「滅ぼす者」と訳しているが、それは一寸訳し過ぎであろう。口語訳も新改訳も「恐れさせないでください」と訳している。文語訳では「懼れしむる者」、松浦訳は「恐怖とならないでください」。
正しいことを語る者が同胞の権力者たちから憎まれ、脅され、迫害される。よくある話だ。政治の世界では妥協が許される。いや、政治の世界は妥協の世界であるが、神の言葉を語る預言者には妥協の道はない。正しいことは正しいと語り、間違いは間違いだと語るしかない。16節でエレミヤは主に言う。「わたしはあなたに従う牧者であることを避けたことはありませんでした」(フランシスコ会訳、新改訳)。

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