ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/2/4~2/10

2018-02-10 14:18:17 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/2/4~2/10

2018 日々の聖句 2月4日(日)
慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。(イザヤ40:1)

人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19:10)

私の黙想:
今日の聖句は、第2イザヤの冒頭の言葉である。ここで述べられている「わたしの民」とはイスラエルを指す。神は自分ご自身のことを「あなたたちの神」という。つまり、ここでの「慰めよ」という言葉は、預言者にのみ語られた一種の指令である。ヘンデルのメサイヤを知っているものは、いつの間にかこの「COMFORT」という言葉が天下に響き渡る大声で聞かれたという印象を持つが、実は「慰めよ」という言葉は決して大声で叫ばれた言葉ではなく、秘密裏に、そっと預言者にだけ聞こえるように語られた神の言葉である。
第2イザヤが登場したイエスラエルの民の状況は、神の怒りによってバビロンに捕囚され、「終わりのない絶望」に置かれていたのである。しかもそのころ、肝腎のバビロンは新興国ペルシャやによって滅亡の危機が迫っていた。当然、イスラエル民族の運命も風前の灯火状況であった。
怒りの顔を示していたヤハウェがいきなり、直接的に民に向かって慰めのことをかけるわけにもいかない。そこで、ヤハウェは預言者に秘密の指令を出して、神の怒りの終わりを告げる。慰めとは絶望の中にある人に希望を語ることである。ヤハウェはもう怒っていないよ。あなたたちを赦しておられる。だから、ここバビロンから解放されて祖国に帰る日も遠くではない。

2018 日々の聖句 2月5日(月)
この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。(そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。)(ヨシュア1:8)

(むしろ、)幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。(ルカ11:28)

私の黙想:
今日の聖句、口語訳ではこうなっている。「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。(そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう)」。目立つ違いは、「口ずさみ」が口語訳では「思い」である。どちらが原文に近いのか私にはわからない。フランシスコ会訳、新改訳、岩波訳では「口ずさむ」の方が断然有利である。しかし現実的な状況を考えると「思う」方が現実的だ。この聖句、文語訳ではこうだ。おそらく口語訳の「思う」は文語訳の影響だと思われる。
「この律法の書を汝の口より離すべからず。夜も晝もこれを念ひて、其中に録したる所をことごとく守りて行へ。(然ば汝の途、福利を得、汝かならず勝利を得べし)」。(句読点は私が加えたものである)
文語訳がこれを「念ひて(おもひ)」と訳したのは原文に忠実というよりもどちらの方が信仰生活を維持するために現実的かという視点があったのだと思う。「念ひ」と「思い」とではおなじ「おもい」でも深みが違う。
文語訳の魅力は、最初の一文で「この律法の書を汝の口より離すべからず」で、結びの「べからず」という言葉はぜひ、現代の子どもたちにも遺したい言葉である。禁止を「べからず」で表し、しなければならないことを単純に「行へ」で対比している。してはいけないことと、しなければならないこととが明瞭に文体に現れている。こういう力強さは口語訳では表せない。
この文章での最大の問題点は「律法の書」である。これが何を示すのか明白ではない。おそらく直接的には「申命記」を指すのであろうが、その「申命記」とは何か不明である。この点についてはまた、別の機会に考えることとする。
最後に今日の聖句には省かれているが「勝利を得べし」という言葉で、これを口語訳は継承しているが、元来の意味は、もっと幅広く「成功する」程度で良いのではないか。「人生の勝利者」よりも「人生の成功者」の方が相応しい。

2018 日々の聖句 2月6日(火)
むなしいものを見ようとすることから、わたしのまなざしを移してください。(あなたの道に従って命を得ることができますように)。(詩119:37)

いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。(ヘブル13:9)

私の黙想:
文語訳では、「わが眼を他に向けて、虚しきことを見ざらしめ、我を汝の途にて活し給へ」である。注意を惹くのは「見ざらしめ」で、文法的分析はよくわからないが、何となく「見ないようにして」という意味だとわかるし、「途」の漢字も新鮮である。この「途」は茶道とか柔道とか剣道のような「道」ではなく、何処かへ向かう途上というニュアンスがあるように思う。口語訳になるとこうなる。「わたしの目をほかにむけて、むなしいものを見させず、あなたの道をもって、わたしを生かしてください」。「見ざらしめ」が「見させず」と口語化されている。ここでの「見ざらしめ」という使役を意味する言葉が効いている。
これらを新共同訳と比較すると、「見ようとする」私がいるという点が気になる。だから私を強制して他に目を向けさせてください、というニュアンスである。文語訳にはそのような「私」はいない。かろうじて「他に向けて」という言葉で何となく、何から「他」なのかを感じさせる。むしろ「見るべきものを見よ」という意味が強調されている。口語訳はこれらの中間である。この辺のことをフランシスコ会訳では「むなしいものから背けさせ」と訳し、かなり無理をしている感じがある。新改訳は面白い。「むなしいものを見ないように私の目をそらせ」、ここでは「むなしいものを見る」という葛藤は全くない。意味あるものしか見ない、見せない。
関根先生は、もっと率直に「わたしの目が空しいものを見ることなく、あなたの道によってわたしを生かしてください」と、スッキリしている。日本聖公会の祈祷書ではさらに祈りが深まり「むなしいものから目をそむけ、あなたの道を歩ませ、命を新たにしてください」。私はやはり祈祷書の訳が良いなぁ。

2018 日々の聖句 2月7日(水)
ヤコブは眠りから覚めて言った。(「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」そして、恐れおののいて言った。)「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」(創世記28:16~17)

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:14)

私の黙想:
今日の聖句、ローズンゲンの編集者には申し訳ないが、取り上げられている聖句よりも、省かれた聖句の方が印象的である。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」、このことに主人公であるヤコブは驚き、彼の人生が変わるのである。そして、それはヤコブだけではなく、多くの信仰者たちが経験することである。文語訳ではこうだ。「誠に主此處に居ますに我しらざりき」。「主ここに居ます」の「ここ」とは全世界のどこでもの「此処」であり、まさに「このところ」である。
カトリックのシスター渡辺和子さんは「置かれたところで咲きなさい」という名句を遺しておられる。「あなたの置かれたところが神の居られるところだ」。

2018 日々の聖句 2月8日(木)
(彼らは二度と諸国民の略奪に遭うことなく、この土地の獣も彼らを餌食にしない。)彼らは安らかに住み、彼らを恐れさせるものはない。(エゼキエル34:28)

(それで、)安息日の休みが神の民に残されているのです。(ヘブル4:9)

私の黙想:
今日の聖句では括弧の中がはずされている。そこでは、バビロンの捕囚から解放された後の祖国の状況が述べられている。そこでの生活の安らかさの内容が括弧の中で描かれている。だから、なぜ「安らかなのか」ということが重要なのだ。捕囚前の深刻な問題は「諸国民の略奪」であった。しかし、復帰後はそういうことはなくなった、という。オキナワの場合は、祖国に復帰後の方が他民族の略奪が深刻化している。
これを口語訳では、次のように訳している。「彼らは重ねて、もろもろの国民にかすめられることなく、地の獣も彼らを食うことはない。彼らは心を安んじて住み、彼らを恐れさせる者はない」。
エゼキエル34章全体では、イスラエルの民のことを「羊の群れ」として描き、民族の指導者たちを羊飼いとして描いている(2,8節)。ところが指導者連中は自分たちの利益のことだけが大切で、民衆は放置され、他民族に蹂躙されていた。
この文脈においてヤハウェはイスラエルの民を「わたしの群れ」(22節)と呼び、「一人の牧者」を与えると約束された。24節の言葉こそ、キリスト預言である。「主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る」。この句は文語訳では、「我、主、彼らの神とならん。吾僕(わがしもべ)ダビデ彼らの中に君たるべし。我、主これを言ふ」。

2018 日々の聖句 2月9日(金)
救いは主のもとにあります。あなたの祝福が、あなたの民の上にありますように。(詩3:9)

神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、(わたしたちの行いによるのではなく、)イエス・キリストにおいて与えられた御自身の計画と恵みによるのです。(2テモテ1:9)

私の黙想:
今日の聖句、単純そうでなかなか手強い。詩3編は「ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」に詠んだものとされている。従って、ここでの「救い」とは、息子アブサロムから逃れることである。真っ正面からダビデがアブサロムと対決したら、おそらくダビデ群の方が強いと思う。その意味では、ヤハウェに「救い」を求める必要はない。そのためにヤハウェが立ち上がる必要もない。自分が立ち上がって息子と直接に対決したら良いことである。事実、この戦いにおいて最終的にはダビデ軍の方が勝っている。
ここでの「あなたの民」とは敵ではない。ダビデにとってもアブサロムにとっても「同じ民」である。要するに、この詩では敵味方出ないもの同士が戦っている。まさに、その意味においてはダビデは苦境に立たされている。
この詩の詩人は、そういう状況を意図的に設定して、この詩を詠んでいる。おそらく詩人はそのような内面的葛藤を一つの歴史的状況に当てはめて読んでいるのであろう。自分の中では、今何をしなければならないか、判っている。しかし、それができない。それを実行したら、自分の身内を、自分自身が抱えている問題を、複雑化し、袋小路に入ってしまう。それが具体的には何を意味するのか、読者には判らない。だから詩人はその内面的葛藤の解決方法、つまり「救い」をヤハウェに預けてしまっている。最終的には最善の方法、つまり「祝福」は敵味方を越えた、全体への喜びになることを願っている。

2018 日々の聖句 2月10日(土)
主は、あなたの国境に平和を置いてくださる。(詩147:14)

キリストの平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。(コロサイ3:15)

私の黙想:
国際政治において、日本人にとって最も判りにくい概念は「国境」である。今では日本人でもそこまで極端に考えている人はいないが、心の奥底で「国境」とは海だと思っている。だから、外国のことを「海外」という。だから、ヨーロッパ世界における国境問題、あるいはアメリカ合衆国における「州境」等について、実感が伴わない。
パレスチナを含めてヨーロッパには城壁の文化がある。そしてその城壁で囲まれた周囲には畑や農地が広がっている。国境はその外側にある。さらに、そこには定住地の決まっていない遊牧民族が自由に行き来している。従って、国境と周辺は非常に曖昧でどちらかというと力関係で決まってしまう。今日の聖句は14節の前半だけで、後半には「あなたを最良の麦に飽かせてくださる」という言葉が続く。平和でないと、農産物は生産できない。今年も豊年であったということは、文字通り、平和であったということである。今日の聖句はそういう環境のもとにある。
最近、日本では野菜が高騰し、畑泥棒が出没している。これは日本経済の貧困さの象徴となっている。

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