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断想:聖霊降臨後第5主日(特定9)の旧約聖書(2017.7.9)

2017-07-07 08:39:11 | 説教
断想:聖霊降臨後第5主日(特定9)の旧約聖書(2017.7.9)

ロバに乗った王 ゼカリア9:9~12

<テキスト>
9 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者高ぶることなく、ろばに乗って来る雌ろばの子であるろばに乗って。
10 わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ。
11 またあなたについてはあなたと結んだ契約の血のゆえにわたしはあなたの捕らわれ人を水のない穴から解き放つ。
12 希望を抱く捕らわれ人よ、砦に帰れ。今日もまた、わたしは告げる。わたしは二倍にしてあなたに報いる。

<以上>

1.特定9
この主日福音書ではマタイ11:25~30が読まれる。この部分ではイエスは「天地の主である父よ」という祈りで始まる。ところが27節からは祈りから、「父と子なるイエスとの関係」についての叙述に変わり、28節では今度は大衆への呼びかけの言葉になる。その意味では混乱しているとしか説明が付かない。しかし、この混乱、一つの引用マークに挟まれているから、混乱していると思うだけで、この括弧を開いてしまえば、祈りから論述へ、論述から呼びかけ(説教)へと、ある意味で、よく見かける流れでもある。要するに、教会における「説教」のパターンである。主題は端的に「神から遣わされたイエス」である。このイエスを迎えて私たちはどうあるべきか。
これを受けて、今日の旧約聖書はゼカリア書9:9~12、ここでの主題は「王が来る」という喜びである。

2.ゼカリア書とは
さて、今日の主題に入る前にゼカリア書についてその概略を述べておく。この預言書はいわゆる12の預言書の最後から2つめで、全体として14章あり、小預言書としてはホセア書と並んで最も長い。ゼカリアはハガイと共にバビロン捕囚帰還後、ユダヤ人共同体において神殿再建を訴えた預言者である。それ以外のことはほとんど詳しいことは分からない。ただ、ネヘミヤ記12:4,16によると、彼が祭司イドの子で、父親と共に、バビロンから帰還したとされている。「ゼカリア」という名前は「主は覚えておられる」という意味で、本書は神の都エルサレムとその神殿への愛が語られている。ゼカリアは紀元前520年頃から活動を初め(1:1)、前517年に民衆の不誠実な断食を激しく糾弾する預言を最後に姿を消している。その2年後の515年に神殿が完成したとされるが、おそらくゼカリアはそれを見ていないと思われる。
実はゼカリア書は9つの文書から成立していると見られる。おそらく9章以降の著者は8章までのゼカリアとは別の不明の著者、仮にそれを第2ゼカリアと呼ぶ。第2ゼカリアの歴史的背景は明らかに8章までとは異なる。一時は捕囚期前のと見られたこともあったが、最近ではおそらく紀元前4世紀から3世紀にかけての著作ではないかとみられている。とすると、旧約時代と新約時代との中間期、もうそろそろアレキサンドロスが登場し、時代はヘレニズム文化への移行期である。ユダヤ文化においてはダニエル書等黙示文学も盛んで、ユダヤ人たちの通用語も、アラム語が中心になっていた時代である。その頃、盛んに論じられていたのが終末のメシア待望であり、本日のテキストにもそれが明らかに述べられている。
ゼカリア書は3年周期の主日聖書日課でも2回しか読まれない。A年の特定9で本日のテキスト、もう1回はC年の降臨節第1主日に14:4~9が読まれる。降臨節第1主日と言えば教会暦では1年の最初の主日で、全体の主題は「待つ」ということである。つまり、主日礼拝の日課としては第2ゼカリア書しか取り上げられていない。
本日のテキストはゼカリア書の第2部、つまり「第2ゼカリア書」の冒頭の部分で、ユダヤ民族を取り囲む諸民族の将来を予告し、それに続いてユダヤ民族の将来を予告している部分である。「平和の王がやってくる」。ここには平和の王がロバに乗ってくるという預言が語られている。このテキストは福音書でイエスがエルサレムに入城の場面引用されている重要なテキストである。

3.ユダヤ民族の将来
本日の旧約聖書の言葉は「娘シオンよ、大いに踊れ」という言葉で始まる。踊りたいけれども踊れない老人が、若い娘たちの踊りを見て、自分も踊っている気分になっている。そういう気持ちがこの言葉には強烈に表れている。ここには全国民が心を一つにして喜ぶ喜びがある。それまで彼ら全国民を覆っていた重苦しい空気、不安、絶望が一挙に取り除かれ、光り輝く自由と平和が訪れた。戦争が終わった。いやそれだけではない。戦争という時代が終わった。「あなたの王が来る」。つまり、新しい時代が始まった。戦争のない、新しい時代が始まった。戦争というものは、戦勝国にも、敗戦国にも悲劇をもたらす。戦争に勝ったとしても、すべての人が喜ぶ喜びがもたらされるわけではない。その喜びは戦争という時代が終わったときにのみ来る。今、その時が来た。
この文章がユダヤ民族の歴史の中でいつ頃のものなのか、はっきりしない。従って、ここで語られている「王」とは誰のことかも、はっきりしない。少なくとも、この「王」は軍馬ではなく、「ロバに乗って来る」と言われているので、少なくとも戦勝国の支配者ではなさそうである。だからむしろ、まだ経験したことがない、理想的な将来の出来事の先取りであろう。

4. 武装放棄の思想
10節を見ると、戦車や軍馬が廃棄され、弓も折られている。完全な「軍備放棄」である。まるで、第2次世界大戦後の日本のような状況である。しかも、それは戦勝国による敗戦国の武装解除ではない。むしろ、戦勝国が戦争の時代は終わった。もはや、武器は必要ない時代がやってきた、という判断に基づく、武器の放棄である。雰囲気としては、「もう二度と戦争は起こさない」というよりも、「もう戦争は二度と起こらない」という感じである。イスラエルの歴史においてこういうことが実際に起こったとは思えない。そもそも、ダビデ、ソロモンの時代以後、イスラエルが戦勝国になったことはない。しかし、例え観念的な理想主義といえどもそういう思想がイスラエルの歴史に生まれたということは十分に注目すべきことである。
今日のゼカリア書の言葉は、イエスがエルサレムに到着されたとき、ロバに乗ってエルサレムに入り、その時群集が歓声をあげ、棕櫚の葉を振って歓迎した(マタイ21:4-9)という出来事の背景となったテキストである。ここでキイになっている言葉は、「ろば」と「平和」である。
真の平和をもたらす王は「軍馬」ではなく「ろば」に乗って来る。イエスの弟子たちは、イエスをゼカリアが語る「王」と重ねて見ている。つまり、戦争やテロ、武力闘争によっては、すべての人々が踊り喜ぶ平和な時代は決して到来しない。むしろ、武器は常にさらに威力のある武器を産み出し、憎しみはさらに大きな憎しみを生み出す。そのような人類の歴史に対して本当の意味でストップをかけることができるのは、イエスの生き方だけである、と弟子たちは信じた。

5. イエスの場合
イエス自身がゼカリア書における「ロバに乗って現れる王」をどう考えていたのかについては、分からない。エルサレム入城の出来事にしても実際にそういうことが、あったのか、なかったのか、誰も確実なことは言えない。はっきりしていることは、キリスト教が成立したのちに、イエスの生涯についていろいろ思い返す中で、弟子たちはイエスをゼカリア書が語る「ロバに乗る王」と重ね合わせたのだと思われる。イエスの生前、弟子たちをいらつかせたイエスの姿勢は、イエスさえその気になりさえすれば、私たちはイエスを担ぎ上げて、武器を取り、反ローマ運動を展開する覚悟は出来ているということであった。ところが、イエスは立ち上がろうとしない。そのつもりでエルサレムまで来たのに、あっさりと逮捕され、裁判に掛けられ、処刑されてしまったということであった。何故か。この何故がイエスに対する大きな疑問であった。福音書を読むとき、その疑問が溢れている。5つのパンと2匹の魚で5000人を満足させたときもそうだ。ラザロを生き返らせたときもそうだ。イエスが逮捕されたときもそうだ。あの時、イエスは「剣のないものは服を売ってそれを買いなさい」(ルカ22:36)と弟子たちに語り、弟子たちは「ここに二振りあります」と答えると、「それでよい」と答えておられる。この剣は何のための剣であったのか。福音書は何も語らない。ペトロはその剣を持ってローマの兵隊に切りつけたとき、これを切っ掛けにしていよいよ始まるのかと思ったが、イエスは「剣を納めなさい。剣を取るものは皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)といって、ペトロをたしなめ、ローマ兵の傷を癒やしている。何故か。聖書は何も語らない。聖書は語らないことで満ちている。書かれていることよりも、書かれていないことの方が重要だといわんばかりだ。
弟子たちはこの大きな謎を背負ったまま、ほっとかれた。しかし、この謎自体は弟子たちから離れない。弟子たちは、この謎を考え続け、イエスとは何ものだったのかを、考える中で、この謎に対する答えをゼカリア書に見つけた。それが今日のテキストであった。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者高ぶることなく、ろばに乗って来る雌ろばの子であるろばに乗って」。これを発見したとき、弟子たちは文字通り、踊ったであろう。走り回って踊ったことであろう。

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