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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/1/14~1/20

2018-01-20 11:03:11 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/1/14~1/20

2018 日々の聖句 1月14日(日)
主がヨセフと共におられたからである。主は彼のなす事を栄えさせられた。(創世記39:23、口語訳)

独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。(2コリント3:5)

私の黙想:
始めに先ず、新約聖書の聖句の方を一瞥しておく。独力で何か出来るなどと、思ってはいけませんよ。どんなことであれ、神のご配慮の元で、その許しによってなすべきことが出来るのですよ。こういう意味の言葉だと思う。
ここではヨセフの生涯について述べることは出来ない。ただ、この場面はヨセフは遊牧民の若者にすぎず、まだまともな仕事もさせてもらえなかったのであろう。父親ヤコブから、家から離れた所で羊を飼っている兄たちの所に、お使いに出された。おそらくそれはヨセフにとって「初めてのお使い」だったかも知れない。普段から父親に甘やかされているヨセフを兄たち嫉み、憎くんでいた。それで、何だかんだあって、その結果兄たちはヨセフをエジプトの商人に売り渡したのであった。
ヨセフにとって今まで育ってきた遊牧地から突然、大都会であるエジプトに奴隷として連れてこられ、おそらく何もかもが全く未知の環境で奴隷として働かされた。今日の聖句はこういう場面を描いている。しかし、そこででもヨセフ誠実にどんな仕事でも上手くこなしていた。それを見て、エジプト人の主人もヨセフを重視し、重要な仕事も任せるようになった。そのことが、かえって災いとなり、主人の細君がヨセフを誘惑しようとした。それは必ずしもセクハラではなかったかも知れない。しかしヨセフは細君の言いなりにならなかった。その結果、主人の細君はヨセフをセクハラで訴えて、投獄されることになった。これは完全に「冤罪」である。こんな古代においてもセクハラには冤罪が伴うことに驚く。
しかし、その獄中においてさえヨセフは誠実であった。看守長から信頼されるようになったという。
「主は彼のなす事を栄えさせられた」。神から恵みを得る人には、災いは及ばない、という訳ではない。誤解されたり、悪宣伝されたり、投獄されたりする。しかし、それらの災いがすべて、祝福に転換される。今日の聖句はそのことを述べている。

2018 日々の聖句 1月15日(月)
主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。(サムエル上12:24)

その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。(ルカ1:50)

私の黙想:
今日の聖句は面白い。普通なら、私たちは「偉大なこと」を示されたら、驚く。いや驚くに違いない。何しろそれは「偉大なこと」だからである。ところが、ここでは、「私たちに示されたこと」が偉大なことだということを「悟れ」という。私たち自身が経験しているのに、私たちの目の前で展開しているのに、それが「偉大なこと」だということを悟っていない。あまりにも偉大すぎて、私たちの認識能力を超えているので、それがいかに偉大なのかを知っていない、という。人間はその人自身の能力に従って、今起こっていることを悟る。しかし、その悟りは本当の悟りではない。本当の悟りはこれから始まる。
預言者サムエルがここで「偉大なこと」と言っているが、それは必ずしもいいこととは限らない。悪いことだってある。口語訳では「大きなこと」(16、24節)と訳している。実は、それはそれまでのイスラエルはいわば神政政治でヤハウェが預言者を通して統治していた。人々はそれに不満を懐き、王制を要求した。預言者サムエルはそのことの危険性をいろいろと語ったか、人々は執拗に王制を求め、遂にヤハウェはそれを認めた。この場面は、そこでの演説である。民衆は神政政治から王制への移行の影響力の「大きさ」を理解していなかった。ただ、周辺諸民族が王制だから自分たちも王制を望んだというだけのことであった。サムエルにはそのことの「大きさ」を知っていた。そして、それを許したヤハウェの心も知っていた。今日の聖句はまさにそのことを述べている。

2018 日々の聖句 1月16日(火)
あなたの隣人のものを一切欲しがってはならない。(申命記5:21)

イエスの言葉:どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。(ルカ12:19)

私の黙想:
今日の聖句、通常ならば、ほとんど注意を払わない言葉である。とくに、この聖句の前におかれている、「妻、家、畑などなど」一人ひとりの生活を構成しているものを例示しつつ、最後に「すべて、一切」という言葉でまとめられている。共に生きているもの同士が、奪い合いを始めたら社会は成り立たない。当然の戒めである。
ところで、現在、私は病院で治療を受けている。そのためにベッドに横たわっている。治療の主なものは抗がん剤と輸血である。そして輸血は2時間かかる。この2時間身動きできない状況で、頭の中でいろいろ考える。
輸血とは「他人様の血」を頂くことである。率直に、私は他人様の血を欲しがっている。今、私の胎内に送り込まれている血は「隣人のもの」である。私は今までに一度も「献血」をしたことがない。献血しようとしても、「あなたの血は受け付けられない」といって、断られてきた。私の血は「輸血向き」ではないらしい。こんな私が他人様の血を欲しがり、お金を払っているとは言うものの、頂いていいのだろうか、と考える。血は金には換算出来ない。いろいろ複雑な社会関係とその手続きを経ているとはいうものの、実に有り難いことである。私たちは命を分け合って生きている。

2018 日々の聖句 1月17日(水)
彼らはわたしにとって宝となる(と万軍の主は言われる)。人が自分に仕える子を憐れむように、わたしは彼らを憐れむ。(マラキ3:17)

言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。(ヨハネ1:12)

私の黙想:
「子が親に仕える」とか「親が子を憐れむ」という表現には違和感がある。もちろん、聖書において「憐れむ」とか「仕える」という言葉には広い意味があるのだろう。日本語的には、その前の「宝となる」という言葉と組み合わせて考えると、「素直さ」とか「可愛がる」、いやむしろ「親孝行」とか、「自慢する」あるいは「誇りにする」という意味であろう。
ここで「宝」という言葉に拘っても何も出て来ない。要するに、ヤハウェ(神)にとって「宝物のように貴重なもの、かけがえのないもの」という意味であろう。そういう神と人との関係を、模範的な親子関係になぞらえている。
神とイスラエルとの関係を「宝」と述べている最初の言葉が、出エジプト19:5に見られる。「今、もしわたしの声に聞き従いわたしの契約を守るならばあなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである」。ここでの面白さは、「世界はすべてわたしのものである」という言葉との組み合わせである。つまり、イスラエルは全世界が神のものであるというレベルをはるかに超えた貴重な存在だという。これを受けて申命記ではイスラエルの民を「ヤハウェの宝」という言葉が3回出てくる(7:6,14:2,26:18)。今日の聖句はそれらを受けている。

2018 日々の聖句 1月18日(木)
遠い海、地の果てに至るまで、すべてのものがあなたに依り頼みます。(詩65:6)

キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。(エフェソ2:17)

私の黙想:
私たちは本当の意味での、世界全体を見たことがない。地図を見たり、他人の書いた旅行記を読んだりして、頭の中で思っているだけである。アフリカ世界の気候や風土がどうなっているのか、アラビヤ世界では人々はどういうことに興味があるのか。身近だと思っているアメリカ人のことだって、ほとんど何も知らないと言っていいだろう。まして、聖書の世界、あるいは聖書が書かれた時代のことだって、何も知らないに等しい。その意味では私たちにとって世界は観念に過ぎない。おそらく、それは聖書の世界の人々、とくに古代イスラエルの人々にとっては、ほとんど具体的な情報の無い状況の中で「遠い海」とか「地の果て」といっている。
ただ、ハッキリしていることは彼らの神は、私たちの知り得ない世界においても「神」だということである。それはちょうど、私たちが月の世界について、あるいは火星人について考えているのと大差は無い。ただ、彼らは彼らの神は「そこでも」神だということである。
正直なところ、私たちはそういう発想をしたことがない。火星に火星人がいて、私たちの神は火星人にとっても神だ、と言い切れない。

2018 日々の聖句 1月19日(金)
主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。(詩12:7)

あなたがたは、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。(フィリピ2:15~16)

私の黙想:
今日の聖句は、口語訳と同じようで微妙に違う。口語訳では、「主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のようである」となっている。主の言葉を清める炉は「土で」出来ているのか、「地に設けられた」のか。同じようであるが異なる。それよりも、この「炉」について、何故、わざわざ「地」と結びつけているのだろうか。その前に述べられている、「主の言葉(仰せ)」は、そのままで、既に清いはずだ。それなのに、なぜ7度も清められなければならないのだろうか。さらに、もう一つ主の言葉は最高価値な筈なのに、何故「金」ではなく「銀」なのか。これらの疑問について、このテキストからは読み取れない。
思い切って、私はこう思う。主の言葉は、そのままではこの世に現れない。必ず人を通して現れる。主の言葉は「主にある人間」の言葉と行為、つまり生き方を通して、人々の前に現れる。しかも、それは1回だけではなく、何度も何度も、具体的な「歴史」のなかで繰り返される。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られた」(ヘブル1:1)。それが旧約聖書の世界。しかし、今や私たちの前には「イエス・キリスト」を通して、1回性の出来事として現れた。それはもはや「銀の言葉」ではなく「金の言葉」として。

2018 日々の聖句 1月20日(土)
神は言われて。「光あれ。」こうして光があった。(創世記1:3)

「闇から光が輝きい出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内で輝いてくださる。(2コリント4:6)

私の黙想:
こうして創世記の言葉とパウロの言葉とを並べてみると、旧約聖書の学者であるパウロがいかに創世記の字句に囚われていないか、いかに自由に旧約聖書を読んでいたのかということが明らかになる。パウロは、神による天地創造という、いわば宇宙物理学の現象を人間の内部の、いわば実存的に読み取り、人間の心の出来事として解釈している。これがキリスト教神学の創成時代に活躍した最初の神学者パウロの聖書の読み方である。これは旧約聖書の記述をすべてキリストの「予型」として読む、いわゆる「予型論的な解釈(Typological interpretation)」ではない。むしろ全然異なる次元での現象を、内面的な出来事として読む類比的解釈(Analogical ineterpretation)と呼ぶべきであろう。

註:今朝からは自宅からの発信です。みなさま方のお祈りにより、予定よりかなり早く自宅療養になりました。お祈り、ありがとうございます。

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