ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 10/07~10/13

2012-10-16 06:42:06 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 10/07~10/13

losungenj 2012.10.07(sun) 
神には力があって、助けることも、挫くこともおできになります。(2chro25:8)
「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。(Jam4:13-14)
私の黙想:
この言葉の背景には、南のユダの王アマツヤと北のイスラエルとの激しい政治的駆け引きがある。この出来事を通じてアマツヤの最後は悲惨であった。息子ウジヤは父アマツヤを反面教師として「戦争の勝敗を決定するのは政治ではなく、神である」ということを学んだ。

losungenj 2012.10.08(mon)  
あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従うならば、あなたは入るときも祝福され、出て行くときも祝福される。(Deut28:1.6)
聞く耳ある者は聞きなさい。(Mk4:9)
私の黙想:
今日の聖句は1節と6節とが組み合わされている。6節は文語訳では「汝は入るにも福祉(さいわい)を得、出にも福祉を得べし」で、どういう訳か、私のこの言葉を幼い頃から家計の「収入と支出」と解釈してしまっている。おそらく、親父がそう思っていたからだろう。家計で重要なことは収支のバランスで、いくら収入が多くても支出に無駄があれば貧しく、たとえ収入が少なくても支出がそれに見合っていれば豊かである。お金持ちの師弟が放蕩で無駄遣いをしている傍らで収入の少ない家の子どもたちが奨学金を貰ったり、アルバイトで自立するのを見ているとこの言葉の真実が証明される。

losungenj 2012.10.09(tue)
主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現された。(Ex15:1)
神はキリストによってわたしたちを神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちたたえるためです。(Eph1:5-6)
私の黙想:
出エジプトしたイスラエルの民が無事に紅海徒渉した直後に歌った感謝の歌。イスラエルの民はよく歌い踊る。大人も子供も、男も女も。「主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓からこれを見下ろしていたが、主の御前で跳ね踊るダビデ王を見て、心の内にさげすんだ」(2Sam6:16)。神の前で歌い踊れない人間は神の恵みを受け取れない。

losungenj 2012.10.10(wed)
あなたは訴訟において乏しい人の判決を曲げてはならない。(Ex23:6)
すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいことがあれば、それを心に留めなさい。(Phi4:8)
私の黙想:
出エジプト記20章に述べられている十戒に対して22:22-23:33は細則である。本日の聖句は訴訟法。今、私たちがこれらを読むとき、学ぶべきことが多い。フランシスコ会訳がいい。「貧しい人の訴訟において、彼に帰すべき権利を曲げてはならない」。高い弁護士費用を払える人と弁護士費用も十分に払えない人との差があってはならない。しかし、現実には有能な弁護士によると黒も白になり、貧しい人が不利になっている。

losungenj 2012.10.11(thu)
あなたの心の悪を洗い去って救われよ。いつまで、あなたはその胸によこしまな思いを宿しているのか。(Jer4:14)
わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに除きなさい。(1Cor5:5-6)
私の黙想:
南のユダ王国の首都エルサレムへの警告。外敵が襲ってくる前に国内の「悪=よこしまな思い」を取り除け。この場合、悪行とは「無割礼」(4節)、つまり神の民であることのしるしを無視すること、信仰の原点から外れることを意味する。神の嘆き、「まことに、わたしの民は無知だ。私を知ろうとせず、愚かな子らで、分別がない。悪を行うことにさとく、善を行うことを知らない」(22節)。

losungenj 2012.10.12(fri)
わたしは主、あなたの神、あなたの右の手を固く取って言う、恐れるな、わたしはあなたを助けると。(Isa41:13)
イエスは子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。(Mk5:41) 
私の黙想:
「右の手を固く取って」、これほど愛情に溢れた仕草はない。恐ろしさに震える幼ない子供をハグして「大丈夫、大丈夫、わたしがあんたを守る」という親の姿と重なる。イエスはエルサレムに対して「雌鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」(Mat23:37)と語る。

losungenj 2012.10.13(sat)
私は地の果てから呼び集める。目の見えない人も、歩けない人も身ごもっている女も、臨月の女も共にいる。彼らは大いなる会衆となって帰ってくる。(Jer31:8)
イエスはたとえでかられた:王は家来たちにいった。「町の大通り出て、見かけたものはだれでも婚宴に連れてきなさい。(Mat22:9)
私の黙想:
多数の民衆が突然日常生活を断ち切られて移動する場合には必ず「身ごもっている女、臨月の女」が含まれている。従ってそういう場合には医者か助産婦が同行しなければならない。満州からの引き揚げの際、それで民間人であった私たちの母子家庭は関東軍の家族と行動を共にして、新京(旧満州の首都)を脱出した。「身ごもっている女」という言葉を耳にするとほとんど反射的にその夜のことを思い出す。

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