ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のツイート 10/16

2012-10-17 06:35:20 | ツイッター
お早ようございます。主の平和。『初期ユダヤ教の実像』を続読。午後から仏教伝道協会主催のシンポジュウムのUST〔4時間)を見る。仏教の若返り。なかなか刺激的だ。途中で西郷川花園を散歩。9時から「ダブルフェイス〔潜入捜査編)」を見る。闇組織に潜入する警察官と闇組織に通じる警察官との絡みが面白い。日本でもこのような番組が造られるようになったのだ。11時に就寝。5時に起床。体調快調。チュン、チュン。
posted at 05:18:40

<昨日のフェイスブックより>
文屋 善明さんが松山 大耕さんからのリンクをシェアしました。

キリスト教の立場からも多くの点で学ぶところがあります。シェアさせて下さい。
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文屋 善明 私はパネルディスカッションの最後に「現代の佛教とは何か」という質問に、松山氏が「佛教とは常に現代佛教である」と答えておられたことを、引き続き考えています。それでは、佛教とは無原則、定義不能、無限定ということなのだろうか。

松山 大耕 教えの根幹、「核」はありますが、非常に自由度の高い宗教だと思います。

文屋 善明 多分、キリスト教で言う「教派(denomination)」あるいは「セクト」と仏教で言う「宗派」とが違うのでしょうね。私には勉強もしないで言うのもおかしな事ですが、仏典〔経典)というものがよく理解出来ません。

松山 大耕 元来、仏教というものはおそらく唯一と言ってもよいと思いますが、救済を保証しない宗教だと思います。
仏典は生き方の智慧を集めたもので、結局は答えを外に求めるのではなく、
自分自身の中に求めよと示していると思います。

文屋 善明 キリスト教の方は近代神学以来、その「救済の確実性」ということで、ジタバタしています。

文屋 善明 近代以前の神話的救済論が役に立たなくなり、シュライエルマッヘルのように人間の内面に確実性を求めたが、それも結局不可であることが分かり、結局バルト神学以降「神の言葉」に後退です。さてこの後どの方向に進むか、が大問題です。おそらく、次に進むべき道は「救済」ということそのものの内容に関わる検討でしょう。何が救済なのか。私の個人的な見解としては、もうすでに「原罪論」は破れています。その意味では、松山先生の仰るように「救済を保証しない唯一の宗教」という捉え方は非常に魅力的です。

#losungenj 10.16(tue)
わたしがあなたと共にいて助け、あなたを救い出す、と主は言われる。(Jer15:20)
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(Mat18:20)
posted at 05:29:07
#losungenj 私の黙想:
神の言葉を語るべき同胞〔仲間)が預言者の敵となる。こんな悲しいことがあろうか。預言者ヨナは外国人にヤハウェの言葉を語り受け入れられ彼らは改心した。しかしエレミヤの場合は違う。このような情勢の中で神は預言者を「堅固な青銅の城壁とする」と約束する。神の言葉を語る預言者の孤立感は深い。
posted at 05:37:44

今日の名言:RT @meigennavi:
デザインは単に物の形や色を決めることじゃないのよ。発明に似てると思わない? 判断のバランスと、想像力の駆け引きよ。想像力は技術じゃないの。心の解放よ。(佐野未央子作漫画「木綿の天使たち」)
<一言>「説教は単に聖書の解説じゃないのよ。発明に似てると思わない? 判断のバランスと、想像力の駆け引きよ。想像力は技術じゃないの。心の解放よ」。
posted at 05:48:06

「昨日のツイート 10/15」をブログにアップしました。 http://t.co/Y0gx7Unl
posted at 06:29:08

「今週のローズンゲン 10/07~10/13」をブログにアップしました。 http://t.co/I2FnGIqS
posted at 06:49:37

土岐健治『初期ユダヤ教の実像』(新教出版社)を読了。余韻が残る。中断している廣松渉の『新哲学入門』やレヴィナスの『全体性と無限』が気になるが、やはり聖書を読むという視点から考えると、緊急性ということで初期ユダヤ教との関連で、既に手元にある『聖書外典偽典4』の「エチオピア語エノク書」と「ヨベル書」を読むこととする。これらが、初期ユダヤ教とキリスト教とをつなぐ鍵らしい。

FB<閑暇閑話022> 徒然草第142段 2012.10.16
久しぶりに昼食後の昼寝、30分ほど熟睡して頭がすっきり。ということで、こちらも久しぶりの徒然草、今日は第142段を紹介しよう。徒然草にはこんな話しもあるのだ。
いかにも悪人風の人間でも、たまには乱暴そうな外見に似合わない言葉を吐くものだ。
いかつい顔をした兄ちゃんが同僚に、「お前、子供はいるのか」と訊ねた。「いない」と答えると、「それじゃ、お前は世間でいう愛っちゅうものを知らねえだろう。そうだろうな。そういや、お前が冷酷な人間に見えてきたぜ。子供がいてこそ、本当の愛っちゅうものが分かるのだ」と言った。
まともな話である。愛するということを知り、そういう生き方を選んだからこそ、こんな乱暴者にも優しい気持ちが芽生えたのだ。親不孝者でも子を持てば、親の気持ちを思い知ることになる。
人生を捨て、家族を捨て、好き放題な生き方をしている男がいたとする。そんなオッサンが、要介護の親やスネを囓る子供たちのために、上司や顧客に媚びへつらってゴマを擂っている人を馬鹿にすれば、地獄に堕ちるだろう。本人の身になって考えれば、心から愛する親、妻、子供のために、恥を忍び泥棒になるしかないと思う気持ちも分かるはずだ。そんなわけで、(今の時代は)泥棒を捕まえて、みんなで寄ってたかってボコボコにしている状況ではない。(今こそ)人々が餓死・凍死をしないよう政治の改革をしなくてはならないのだ。
人間は最低限の収入が無くなると、ろくな事を考えなくなる。生活が破綻するから泥棒になるのだ。腐った政治の下で、餓死・凍死が絶えないから前科者が増えるのだ。政治が国民を崖っぷちに追いやって犯罪をそそのかすのに、その罪だけを償わせるとは何事か。
ならば救済とは何か。国を治める人間が調子に乗るのを止め、豪遊も止め、国民を慈しみ、農業を奨励すればよい。それが労働者の希望になることは疑う余地もない。着る物も食べる物も間に合っている境遇で、なお金集めに奔走しているとしたら、そいつは本当の悪人だと言っていいだろう。
(吾妻利秋訳に一寸だけ手を加えました。)

石田 聖実 子供がいない=愛を知らないという展開にはやや抵抗を覚えます。

文屋 善明 これは「私の」思想ではなく「吉田兼好の」思想です。ここでは子供あるなしではなく、結婚とか家庭という事柄への関心という意味でしょう。自分自身が生まれたホームと自分が作るホームがその人の生き方の基本にあるという思想であろうとおもされます。そうすると、カトリックの聖職の独身制なども問題の視野に入ってくることでしょう。

<補遺>「聖書外典偽典」(別巻を含めて全9巻)買ったままで積ん読だったが、ボチボチ読んでいくこととする。これを知らずして正典聖書を理解したことにはならない。大変なことになってきた。



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