ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第16主日(特定18)(2018.9.9)

2018-09-07 09:19:51 | 説教
断想:聖霊降臨後第16主日(特定18)(2018.9.9)

この方のなさったことはすべて、すばらしい マルコ7:31~37

<テキスト、超超訳>
◆耳が聞こえず舌の回らない人をいやす(7:31~37)
その後、イエスはその地方を去ってシドンを経てガリラヤの海べを通り抜けデカポリス地方に移動されました。
すると人々は、耳の聞えない、口もきけない人を連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いいたしました。それで、イエスはその男一人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌をぬらし、天を仰いで一息して、その人に「エパタ」(「開け」という意味)と言われました。すると彼の耳が聞こえるようになり、その舌の自由になり、はっきりと話すことができるようになりました。その上で、イエスは、それを見ていた人々に、この事を誰にも話さないようにと口止めをいたしましたが、イエスが口止めすればするほど、人々は言い広めました。その様子を見ていた人々は非常に驚き、「この方のなさった事は、何もかもすばらしい。耳の聞えない者を聞えるようになり、口のきけない者が話せるようになった」と口々に喋り回りました。

<以上>

1.「その後」、デカポリスについて
「その後」とは、イエスがユダヤ人があまりの住んでいないティルス地方を訪れ、身を隠すようにしてある人を訪問した。そこに未知の婦人が訪れ、激しく頼まれて彼女の娘の病を癒やし、ガリラヤ地方に戻ってきたところである。ところが、イエスはそこに留まることなく、その足でデカポリス地方に行かれた。デカポリスはイエスはあまり知られていない場所であったようである。
ところが、イエスの噂を聞いていた人々が、「耳の聞えない、口もきけない人」をイエスの前に連れてきた。それはある意味で評判のイエスを試みようとしたのかも知れない。それを見破ったイエスはその男だけを群衆から切り離して、民衆の目に入らないようにして、彼の口と耳を癒やした。それでも結局、イエスの行動を興味深く見ていた人々の目から隠すことはできなかったようである。
その癒やし方も他のところとは変わっていた。通常の場合イエスは言葉だけで病気を癒やしておられるのに、ここでは「その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌をぬらし、天を仰いで一息して、その人に「エパタ」と言われたという。なぜ、ここでだけ、このような秘術的(マジカル)な方法で癒やされたのであろうか。このことについてマルコは何の説明していない。これにもっとも似ている癒やしの業はヨハネ9:7の盲人に「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われ、盲人がその通りしたとき、見えるようになった奇跡であろうが、その時でさえイエスは手を出していない。おそらく、ここの状況においてこういう仕方で癒やす方が民衆には納得しやすかったのかも知れない。
イエスはわざわざ群衆から隠れるようにして癒やされたのに、誰かからのぞき見ていてバレてしまった。それでイエスは、これを見ていた群衆に「この事を誰にも話さないようにと口止めを」したという。が、その口止めは逆効果で、「イエスが口止めすればするほど、人々は言い広めました」という。要するに人々はイエスの癒やしに感動し、黙っておれなかったに違いない。その時の人々の感動の言葉が「この方のなさった事は、何もかもすばらしい」である。

2.「何もかも、すばらしい」という評価
イエスに対する「この方のなさった事は、何もかもすばらしい」という評価の言葉は過剰ではないだろうか。デカポリスの人々はイエスの奇跡を初めて見たのである。それまでにもいろいろ噂を聞いていたかも知れないが、「何もかも」と言えるほどの経験はない。
人々はこの言葉をどういう時に使うのだろうか。その人のことについて何もかも全部わかったら言えるのだろうか。もし、そうだとしたら私たちは自分自身を含めて誰のことについても、こんなことは言えない。大体、人間関係において相手のことを「全部わかる」ということは不可能である。まして、この言葉を発している人々はたまたまイエスと出会い、その行いを見ただけの「行きずり」の人々である。少々大げさすぎないだろうか。
人はどういう場合に「この人のすべてが素晴らしい」などという言葉を言うのだろうか。この問題は、男性と女性とが出会い、愛し合い、結婚し、生活を共にする全プロセスと似ている。私たちは相手の「何もかも全てが素晴らしくて」結婚する訳ではない。恐らく相手の1点か、せいぜい2点ほどに魅力を感じるところから恋愛が始まる。しかもその後、出会いを重ねていくうちに、その1点か2点が相手の全ての欠点を美点に変えてしまう力を持っている。これが世に言う「あばたもえくぼ」という経験である。見方によっては、これは非常に危険なことでもある。「愛は盲目」でもある。こういう段階で、「あなたはあの人のどこに魅力を感じて、結婚するのですか」などという質問は愚問である。こういう場合、大抵は「彼のあるいは彼女の全てです」などと答える。これが「惚れる」ということである。惚れるというようなことは、教会の礼拝説教などで語る主題にはふさわしくないかも知れないが、実はこの惚れるということなくして、異質な者同士が一つになることはできない。

3.「宝」の発見
イエスの譬え話にこういうのがある(マタイ13:44) 。ある人が畑に隠してある宝を発見した。彼は大喜びをして、その宝を隠したままで、家に走り帰り、持ち物を全部売り払ってお金を準備して、その畑を買った、という。
相手の中に発見した魅力、美しさは、もしそれが本当に彼あるいは彼女の中にあるものならば、それを手に入れるために、どんな犠牲、たとえば自分自身の人生でも払うであろう。それが「惚れる」ということである。しかもその「魅力」を自分だけが発見したものだとしたら、その喜びは、誰の忠告も聞き入れなくなるほどであろうと想像される。
しかし具体的に共同生活を続けていると、当然ながら、お互いに色々な欠点が目につき始めるときもある。この時期が非常に重要である。2人の愛が知的なものによって支えられていなければ、この期間を乗り越えるのは非常に難しい。この事は必ずしも結婚生活だけのことではなく、教会生活にもあてはまる。
初めに自分が発見した、恐らく自分だけが発見した相手の魅力、それが自分だけの幻想なのか、その時だけの、光の屈折の関係でそう見えただけのものなのか、本当にその魅力は相手に属し、相手のものであり、こちらの姿勢によって、いつでも見ることが出来るものなのか。ここが問題である。彼の全てが良いのかどうかが問題なのではない。私が発見した宝物、彼の魅力が本当に彼に属しているものなのか、ということが重要である。
今、私が問題にして語っているのは、私たちとイエスとの出会いである。

4.理解と愛
「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という言葉は、知的な判断が含まれていないと、一時的な感情の高まりにすぎず、ただ単なる幼稚なファン意識にすぎない。そのような意識からは何も産み出さない。そこに知的な判断が加わることによって相手を受け入れ、相手によって受け入れられる愛の関係が成り立つ。この様な心の働きが「理解する愛」である。これは「理解するための愛」ではない。「理解するための愛」には、愛へと向かう努力が要求される。しかし「理解する愛」には努力は必要ない。「愛即理解」「理解即愛」、つまり二人が全く一体になり、同じ立場に立っているということである。
教会のメンバーになるということは、教会の内側に立ち、教会の働きの責任を分担するということである。教会における奉仕ということも、義務とか分担ということではなく、また教会に属していることによって、こういうメリットを受けているから、こういう奉仕をしなければならない、というような一種の「取り引き」でもない。「理解する愛」においては、教会の問題は私の問題、教会の欠点は私の責任、というような関係である。
こういう愛によって結ばれていても、相互批判はあり、喧嘩もある。それは当然である。恐らく、他の誰よりも彼のことについて、多くの欠点を知っているはずです。けれども、それら全てを踏まえた上で「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という心境なのです。

5.弟子たちのイエスに対する姿勢
福音書を詳しく読むと、弟子たちは必ずしもイエスの全てを理解していた訳ではないことがわかる。むしろ最後まで理解出来ず、誤解し、裏切ってたのである。しかし、そうであるにもかかわらず、イエスから離れることが出来ず、イエスに対して「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と断言できたのである。弟子たちは気がついていなかったであろうが、彼らはイエスに把えられていたのである。よく考えてみると、「惚れる」ということは、こちら側のことのようであるが、実は「把えられる」ということで、あちら側の働きかけでもある。イエスと弟子たちとの関係は、ここまで深まっていた。

6.キリスト者の姿勢
私たちがキリスト者になるというときに、必要なもの、無くてならないものは、このような「惚れ込み」である。長く教会に通うとか、キリスト教についての知識を沢山もっているとか、高い道徳性を持っているとか、そいうことは必ずしも必要な条件ではない。むしろ親の代からキリスト教であるとか、キリスト教の学校を卒業し、キリスト教についての知識があるという人たちがかえって気がつかないような、キリスト教の魅力とか、力とか、つまり「宝」を密かに発見するのは、今まで全くキリスト教に関係のなかった人、キリスト教に無縁であつた人々の場合が結構多い。
イエスの魅力は、宗教学者や熱心な宗教家たちの目には隠され、かえって彼らが軽蔑し、汚れた人々とあなどっていた一般民衆のほうがはっきりと見ていたのである。

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