ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/04/06~04/12

2014-04-13 09:29:44 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/04/06~04/12

2014日々の聖句 04月06日(日)
神に従い正義を行うことは、いけにえをささげるよりも主に喜ばれる。(箴言21:3)
みなしごや、やもめが困っているときに世話をするしこと、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。(ヤコブ1:27)

私の黙想:
他のほとんどの邦訳が「正義と公正(公平)を行うこと」としている。「神に従う」としてしまうと、後半の「いけにえを捧げること」に吸収されてしまい、この聖句のポイントがボケてしまう。イエスは律法の専門家に「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」(ルカ14:3)と問われた。社会倫理の実践が宗教的行為に優先する。これはいわば当然のことであり、何もイエスによってもたらされた革命的な教えでもなんでもない。この当然の論理の前に律法の専門家たちは沈黙せざるを得なかった。問題は程度問題にすり替えられる。ところが、ここでイエスは「自分の息子が井戸に落ちたら」と実例を挙げる。それは当然であろう。では、それが「牛」だったらどうする。もちろん、「牛」の持つ「価値」をどう受け止めるかという議論はあるであろうが、まさか「自分の息子」と「牛」とを比較して答えを求めているわけではない。要するに、社会倫理の重さという程度問題にすり替えることへの否定である。社会倫理はそれ自体として宗教的行為に優先する。今日の聖句では「よりも」という比較を意味する言葉が入っているが、これは比較の問題ではなく「主に喜ばれる」という宗教本来の目的の前に、社会的倫理のもつ宗教性が問われている。

2014日々の聖句 04月07日(月)
あなたはわたしの僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない。(イザヤ41:9)
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように。(ヨハネ15:16)

私の黙想:
神がイスラエルを選んだ。神が私を選んだ。神の選びの不可思議さ。何故、イスラエルなのか。何故、私なのか。私には解らない。イスラエルにも解らなかったのであろう。どうせ選ぶなら、私よりもその目的に相応しい相手がいたに違いない。私が神を選んだと言えないのだろうか。それは断じて言えない。何故なら私が神を選んだのではないからである。それは明白である。選ばれてもそれを「拒否」するという選択もあったであろう。あったかもしれない。しかし確かなことは私は拒否しなかった。何故、私はそれを拒否しなかったのか、解らない。私が探し求め、探し求めて、やっと「神」を見出し、「神」を手に入れたのではない。
イスラエルの疑問は先ず、先祖ヤコブに向かう。何故、ヤハウェは兄エサウではなく弟ヤコブを選んだのであろうか。エサウのほうがはるかにそれに相応しいことは明瞭である。更に疑問はアブラハムに及ぶ。何故、神はアブラハムを選ばれたのか。ここではアブラハムは「ヤハウェの友」と呼ばれている。アブラハムは「友」だから選ばれたのか。そうではない。選ばれた後「友」となったのである。全ての人間関係は「関係」の前に「選び」がある。しかしその選びの理由、根拠は不可思議としか言い様がない。何故、あなたなのか。何故、私なのか。さまざまな「出会い」は不思議である。その中でも最も大きな出会い、「大いなる邂逅」は神秘そのものである。

2014日々の聖句 04月08日(火)
エルサレムと共に喜び祝い、彼女のゆえに喜び躍れ、彼女を愛するすべての人よ。彼女と共に喜び楽しめ、彼女のために喪に服していたすべての人よ。(イザヤ66:10)
パウロの手紙:わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。(フィリピ1:3~4)

私の黙想:
東北大震災により壊滅的被害を受けた三陸鉄道がさる4月6日、完全に復旧された。その喜びのシーンが何回もテレビで放映された。それを見て、全国民が喜びを共にした。何らかの理由により廃墟とされたいた場所が、復旧するということは本当に喜ばしいことである。しかし三陸鉄道の復旧はたしかに喜ばしいが、それは東北全体の復旧のごく一部にすぎない。果たして日本人は、被害を受けた東北全体が復旧することを信じているのだろうか。ほとんどの人々がそれは絶望的なことだと思っている。地震や津波の被害は時間とともに回復されるであろうが、原発による被害は、これからますます被害の実態が明らかになり、そこからの回復は絶望的である。現状を見ているかぎり、現在の政権はおよび官僚たちは「諦めている」としか思えない。先ずは被災者の救済を急がねばならないし、それについで「土壌」の回復が必要であろう。ここからが本当に日本人の心(大和魂)と技術力が試されている。一年でも早く、一日でも早く「東北と共に喜び祝い、東北のゆえに喜び躍れ、東北を愛するすべての人よ。東北と共に喜び楽しめ、東北のために喪に服していたすべての人よ」という日が訪れることを祈る。

2014日々の聖句 04月09日(水)
主は忍耐強く、その力は大きい。主は決して罰せずにはおられない。(ナホム1:3)
神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。(ロマ2:4)

私の黙想:
ナホム書は僅か3章で、ここに書かれている以外にほとんど何の資料もない。文章全体からの印象としては、北のイスラエルを滅ぼしたアッシリア帝国が衰退し、新新バビロン帝国が台頭してくる時代で、迫り来る危機を感じながらも南のユダは比較的安定した状況の中で書かれたものと思われる。本書の特徴は巨大帝国の栄枯盛衰を目前に見ながら、世界の歴史の中で働くヤハウェの「正義」が強調されていることであるとされる。今日の聖句がナホム書の鍵の言葉である。
預言者ナホムはアッシリア帝国の衰退を北のイスラエルを滅ぼしたことに対する神による復讐と見ているのかもしれない。
「主は忍耐強く」という言葉は他のほとんどの邦訳では「怒るのに遅い」と訳されている。「怒るのに遅い」というのと「忍耐強い」というのとではかなりニュアンスの違いがある。新共同訳では口語訳が「怒るに遅く」と訳している言葉をほとんど「忍耐強く」と訳している。「怒るのに早い」という言葉を考えると軽率な人物を感じ、「忍耐」という言葉から受ける印象は「我慢強さ」でどちらかと言うと、弱い立場を思い浮かべる。神は何時でも事態の変更、つまり怒りを発することができるし、神が怒りを発したら、それに対抗できるものは居ないが、まぁ、もう少しやりたいようにやらしておこう、自ら反省して変わるのを待とうという鷹揚さ、言い換えると人物の大きさを感じさせる。つまり、それに続く「その力は大きい」ということに繋がる。
新共同訳でも新約の方でもヤコブ1:19 では「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」と訳されている。ユダヤ人たちは「怒るのに遅い」ということを一つの民族的キャラクターとして「神に似る」という目標にしていたのかもしれない。

2014日々の聖句 04月10日(木)
主はとこしえに契約を御心に留められる、千代に及ぼすように命じられた御言葉を。(詩105:8)
主の言葉は永遠に変わることがない。(1ペトロ1:25)

私の黙想:
契約とは結ばれた両者の誠実さによって維持される。神とイスラエルとの契約も同様である。契約の片方の当事者が永遠に心に留めている以上、もう片方も同様にしなければならない。契約書に「永遠に」と記されてたら、それは文字通り「永遠の契約」である。
一国の憲法とは為政者と国民間の契約であると同時に、国際間の契約でもある。日本国憲法が第9条で「武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と書かれている以上、日本国民はこの契約を永久に覚え、守る義務がある。また、第97条で「(基本的人権は)過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことができない永久の権利として信託されたものである。憲法に「永久に」と書かれている以上、それは文字通り永久に保持すべき契約であり、第96条にもかかわらず、いかなる変更も許されない。何故なら「永久に」という言葉は全ての改正手続きを超越する規定だからである。今朝の黙想は、思わず変な方向に展開してしまった。

2014日々の聖句 04月11日(金)
主は生きておられる。わたしの神が言われる事をわたしは告げる。(歴代誌下18:13)
わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとする。(ヨハネ5:30)

私の黙想:
預言者ミカヤのことはよく解らない。ともかく、ミカ書のミカと同一人物か。ともかく、アハブ王はラモト・ギレアドとの戦争の勝敗について預言者たちに問う。当時の全部の預言者たちは勝利を予言する。ところが、もう一人異なることを語る預言者がいることをアハブ王は聞き、その預言者ミカヤを呼び寄せて問う。王の官僚たちはミカヤが王と会う前にひそかに「勝利を予言するように」指示する。ミカヤは彼らに言われたとおり、王に勝利の予言をする。王は何故か可怪しいと感じ繰り返しミカヤに問いかける。そしてミカヤは謎のように天の玉座における情景を語る。それは「ある霊」(20節)がイスラエルの全ての預言者をそそのかせて、偽りの預言を語らせたのだといい、改めて「災の預言」を語る。それを聞いてアハブ王は怒り、預言者ミカヤを殴り、逮捕、投獄し、「この男を獄につなぎ、わたしが無事に帰るまで、わずかな食べ物とわずかな飲み物しか与えるな」(26節)と命じる。
要するにこの箇所の背景にある物語は以上のようなものである。本日の聖句は、預言者ミカヤが最初に勝利の預言を語る前の「前口上」である。文脈から考えると変な聖句である。これだけ「勇ましい言葉」を述べておいて、官僚たちの指示に従って偽りの預言を語るとは。しかし、預言者ミカヤの声や表情は「言葉」と裏腹に、真実を語っていたのであろう。こういうエピソードが語られているということは、非常に面白いと思う。

2014日々の聖句 04月12日(土)
怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。(詩37:8)
怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。(エフェソ4:26)

私の黙想:
「あいつ、うまいことしやがって」と苛立つことはある。だいたい、この世ではうまいこと立ちまわる連中が栄える。悪い連中が得をして馬鹿正直は損をする。それを見ていると、腹が立つし、怒り心頭に発する。また、そういう連中に尻尾を振っておこぼれに与ろうと卑しい根性の連中もいる。そういう場合に、それがほとんどであるが、「怒りを解き、憤りを捨てる」ということは至難の業である。凡人には到底できない。まぁ、それもしかたがないと思う。でも、ここからが重要だ。それなら「自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない」。それは「気が弱いから」、そうするのではなく、かえってそれが精神の強さの証拠である。9節、10節が重要である。
「悪事を謀る者は断たれ主に望みをおく人は、地を継ぐ。しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている」。これは、詩人自身の過去の経験であろう。少なくとも、私はそういうことを現実に見てきた。この詩は老人が若者に語るアルファベット詩であるが、10節でアルファベットは止まってしまう。以下、格言集となる。

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