ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン2013 08/25~08/31

2013-09-01 06:44:41 | ローズンゲン
今週のローズンゲン2013 08/25~08/31

日々の聖句2013 08月25日(日)
主は来られる、地を裁くために。主は世界を正しく裁き、諸国の民を公平に裁かれる。(詩98:9)
キリストの言葉:わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。(ヨハネ4:34)
私の黙想:
この「裁く」という言葉を狭く理解したために「最後の審判神話」が生まれたのかも知れない。ここでの「裁く」とは「支配する、統治する」と理解すべきであろう。いろいろ人間は知恵を絞って組織を作り、社会を造り統治機構を作り出すが、完全な統治機構を作り出し運営することは人間には無理である。最終的には「神による統治」しかない。イスラエルの歴史においては、神による支配(神政政治)と人間による統治とが 理想的に組み合わされ、実現したのがダビデ王の時代だけである。その前のサウル王は神の命に従わなかったことにより神から棄てられ、ダビデ王の後継者ソロモン王は自分自身の権力の大きさに自己分裂を起こしてしまった。ダビデ王だけが、常に神と共に歩み、神に対しては絶対服従という姿勢を貫いた。宮殿よりは神殿の優位さを強調し、宮殿には専属の預言者を置いた。国民は実際に支配しているのはダビデ王であるが、ダビデ王の背後には常に真の統治者ヤハウェがおられることを実感していた。だから、終末における神による直接統治の理想をダビデ王の末裔によると考えた。
今日は主日、私たちの真の王、主のみ言葉を聞きに教会に集う。

日々の聖句2013 08月26日(月)

神よ、神殿にあってわたしたちは、あなたの慈しみを思い描く。(詩48:10)
互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。(ヘブル10:24-25)
私の黙想:
神殿讃美の詩。神殿という建物の美しさ、偉容さ、外敵に対する威圧感を讃える。その神殿の中で、「わたしたちは、あなたの慈しみを思い描く」と詩人は語る。ここには信仰者の高揚した心が生き生きと描かれている。「思い描く」という部分をフランシスコ会訳では「しみじみ思う」、新改訳は「思い巡らした」と訳している。神殿という建物、場所はそういう場所である。私の思い巡らしは、現代の礼拝堂(カトリック、聖公会では「聖堂」という)に向かう。礼拝堂とはこの世的に考えたら「生産的要因」がほとんど皆無の空間である。一週間のうちでもほんの数時間、礼拝が行われるときにだけ使われるだけであろう。この地価の高い時代、生産性の向上が時代の要請である状況において、大都会の中に、この非生産的なスペースがあるということ自体が異様である。しかしその非生産的な空間が非常に大きな力を持っていることを多くの人たちは知らない。しばしの時間、礼拝も何も行われていない時間、唯一人その空間に身を委ね、静かに物思う時、つまり「静想するとき」、他では得られない力を得る。だから、礼拝堂という建物はそれに相応しい設計と維持管理がなされ、扉は常に誰でも入れるように解錠して置かねばならないであろう。

日々の聖句2013 08月27日(火)

わたしたちの助けは、天地を造られた主の御名にある。(詩124:8)
天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずきます。(フィリピ2:10)
私の黙想:
ユダヤ人の「名前」に対する拘りはすごい。名前は実体を指し示すサインというより、実体そのものと同一化しシンボル化ている。しかもそのシンボルは具体的なモノではなく、抽象的な名称である。私たちの目から見ると仏像や曼荼羅が偶像であるように、名前自体が偶像化しているように見える。神に関しては名前が偶像化することを避けるために「みだりに唱えてはならない」と禁止され、名前そのものに代わるサインが使われ、しかも文字と読みとが引き離され、暗号化され、内部に人間だけにしか通じない業界用語のようになる。ユダヤ人以外の人間にとってはややこしてしょうがない。なぜ、もっと単純に、「わたしたちの助けは、天地を造られた神にある」と言えないのだろうか。

日々の聖句2013 08月28日(水)

どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いはむなしいものです。(詩60:13)
イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。(ルカ7:14-15)
私の黙想:
神を信じていない人々に、人間の与える救いはむなしいものである、ということをいかにして語り、納得させるか。人間の作り出す平和がいかに虚しいものか。結局、神を信じない人々にとって、その虚しさを知りつつも人間が作り出す平和を頼りにするしかないのか。神を信じていなくても、人間を信じるということは可能か。この問題は疑問符付のまま、なお考える。

日々の聖句2013 08月29日(木)

主は恵みの倉である天を開いて、季節ごとにあなたの土地に雨を降らせ、あなたの手の業すべてを祝福される。(申命記28:12)
父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。(マタイ5:45)
私の黙想:
文学的表現に屁理屈を言うのも野暮だが、主の「恵みの倉」の中に何が入っているのだろうかと考え込んでしまう。まぁ、「地下鉄の車両はどうして地下に入れるのだろう」という外題に等しい程度の疑問であるが、どうやら結論としては「水」が詰まっているらしい。というよりも「水だけ」かも知れない。だいたい日本では季節毎に雨が降ったり雨が降らなかったりしないで、年中均等に雨が降るので「季節毎に」という言葉には実感が伴わないが、旧約聖書の世界では雨期と乾期とがはっきり分かれているらしい。雨の量を調整することによってヤハウェは国民の産業を支えているというわけであろう。
つまり、日本銀行が通貨の量を調整して日本経済を支えているようなものであろう。最近は日本の経済を調整している人々の能力が低下したのか、どうも上手くいかないようであるが、天の神さまも高齢化したのか雨の降らせ方にむらがあるようだ。

日々の聖句2013 08月30日(金)
さぁ、主の光の中を歩もう。(イザヤ2:5)
何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝きます。(フィリピ2:14-15)
私の黙想:
今日の聖句、新改訳だけが「私たちも主の光に歩もう」となっている。この「も」は非常に重要。4節ではヤハウェの支配によって、「多くの国々」が全ての武器を農機具に打ち直し、戦争を放棄している。だからわたしたち「も」となる。
この部分をもう少し現実的に表現するならば、武器を棄て、戦争を放棄するということは人類にとって、つまり世界各国にとっても絶対的な理想である。戦争は、こちらが武器を持っているかぎり避けられない。先ずこちらが無防備になれば攻めては来ないということを述べている。
いまや、シリアに対するアメリカの爆撃が緊急の課題になっている。その原因は、武器を持っているか否か。現代の戦争はほとんど常に、相手国が危険な武器を持っているから攻撃するという図式になっている。世界各国によって、あの国には危険な武器、攻撃的な武器がないということが認められたら、攻める側が常に国際世論に敵対したことになる。そういう図式が定着しつつある、と私は信じている。

日々の聖句2013 08月31日(土)

主よ、あなたは恵み深く、お赦しになる方。あなたを呼ぶ者に、豊かな慈しみをお与えになります。(詩86:5)
どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。(
2テサロニケ3:5)
私の黙想:
私たちがなすべきことは、ただ「呼び求めるだけ」。この度、私の友人の一人(奥田知志牧師)が茂木健一郎氏との対談集『「助けて」と言える国へ』(集英社新書)を出版された。奥田牧師は北九州でホームレスの人々と関わり、共に生きる活動を進めている。『「助けて」と言える国へ』というフレーズはそんな活動の中で掴み取られた言葉である。今の日本は「助けて」と声を出すことができないほど窒息した社会になっている。その中で奥田牧師は「助けて」という声なき声に耳を傾け、多くの周囲の人々の協力を受けながら、この人々を支援している。茂木さんもその協力者の一人。
どんな人でも、どうしようもない壁にぶち当たることがある。そんな時「助けて」と言えること、またそれを聞き手を貸してくれる社会、それこそがこの世における「神の国(絆社会)」だと思う。子供が遠くの地に旅立つ時、どんな困難が待っているか分からない。そういう時に「助けて」と声を上げることができることを願うし、その声に耳を傾けてくれる人がいることを望む。

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