ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:聖霊降臨後第4主日(特定6)(2018.6.17)

2018-06-15 08:45:10 | 説教
断想:聖霊降臨後第4主日(特定6)(2018.6.17)

からし種の譬え   マルコ4:26~34

<テキスト>
26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。
34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

<以上>

1. 譬えについて
マルコ福音書における譬え論は非常に複雑である。この議論に立ち入るためにはかなり専門的な知識が必要で、マルコ福音書の著者の主張をどう捉えるのかということによって、解釈が変わってくる。ちなみに4章10節から13節までの部分の矛盾点をどう解釈するのか。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々にはすべてが譬えで語られている」(11)という言葉の理解の仕方が重要である。しかし本日はこの議論には立ち入らないようにする。
ただ本日のテキストに含まれている、「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」(33,34)という言葉については簡単に触れておかねばならないだろう。この言葉は明らかに4章1節から始まる一連の譬え話集のまとめの言葉であり、編集者マルコ自身の言葉なのか、あるいはマルコ以前にまとめられた譬え話集に付けられていたものなのかは明確ではない。
ここには2つの問題が語られている。先ず第1に、イエスが譬えで話しをする理由は「人々の聞く力に応じて」ということであり、第2に、しかし、弟子たちには「ひそかにすべてを説明された」ということである。第1の点については、譬えで話すということ自体が、本来は難しい事柄を聞く人の理解能力に従って話すという原則に適っており、当然といえば当然であるが、第2の点については、何か秘密めいて、一般公開で話せないことを解き明かすという雰囲気がある。単純に考えると、譬えで話すということの限界を超えて、そこでは語りきれなかったことを付加するという意味あいだろうか。それなら何も「密かに」話す必要はなく、単に気心の知れた人たちだけが居るときに、もう少し自由に補足的に話したという雰囲気である。つまり、譬えを用いて話しをするということには、聞く側の理解能力に従って理解の深さに差が出てくること、また同時に、話しそのものにも限界があり、言い足らないことや、語り手が語りたいと思うことが十分に聞き手に伝わらないということの理解とが生じる、ということを意味している。

2. 「成長する種」の譬え
そういうことを前提として、この「成長する種」の譬えも読まれなければならない。先ず、単純にこの譬えの粗筋を確かめておこう。わざわざ別な言葉で言い直す必要がないほど明白である。
農夫が種を蒔き、「夜昼、寝起きしているうちに」、つまり単純に農夫は何もせず、ただ日数が過ぎれば、種は自ずから芽を出して成長する。しかし農夫はどうしてあの小さな種がそうなるのか、理解しているわけではない。土が勝手に芽を出させ、伸び、穂ができ、その穂に豊かに実が実るのである。そして実が稔れば、収穫する(4:26-29)。ただ、それだけのことである。何も珍しいことも、特別なこともない。農夫ならば、否農夫でなくても知っている事柄である。譬えにもならない。この単純なプロセスが「神の国」の譬えであるという。これが譬えでなければ、面白くも、おかしくもない。言うなら、当たり前のことを当たり前のこととして話したというだけのことである。もし何か特別なことがあるとしたら、農夫は何もしないということであろうか。
マルコ福音書には普通5つの譬え話が伝えられている。「種を蒔く人」、「ともし火と秤」「成長する種」「からし種」「ぶどう園と農夫」である。この内、「成長する種」はマルコ福音書だけが取り上げている。特に、この譬えとセットになっている「からし種」の譬えはマタイ福音書もルカ福音書も取り上げているのにである。何故、他の福音書記者たちはこの「成長する種」の譬えを取り上げなかったのか。もちろん彼らはこの譬えを取り上げるに足らないと考えれば無視する権利はある。そうすると彼らが取り上げるに足らないと考えた理由を私たちは考えねばならない。おそらく、この譬えの内容が彼らの考えている「神の国」思想、つまり正統的キリスト教における神の国思想と相容れなかったのではなかろうか。その意味では、この譬えにおける神の国思想には特異な点があるようである。ここからこの譬えの解釈が様々な議論を生む。

3. 「成長する種」の譬えの解釈
この話しを「神の国の譬え」として聞いた人の中でも最も単純な人たちは、「神の国というところでは、種を蒔きさえすれば、後は勝手に収穫が得られる所か。それはいいね」ということであろう。つまり種自体の中に成長力が内在し、外から何の力も加えなくても、神の国は実現する、という思想である。この考え方は理想社会というものは社会に内在する法則に従って進歩・発展し実現するという思想と重なる。現代においてはこのような近代主義的楽観論は既に破綻しているが、今でもこういう考え方をするキリスト者も結構存在する。しかし、こういう内在論に対する反動として、神の国は神による一方的な恩寵として、「向こうから」やってくるという思想も生まれる。この内在論にせよ、超越論にせよ、神の国に対して人間の役割を無視する点では共通するものがあり、人間はただ「神の言葉である種」を蒔くだけ、神の言葉を語るということだけが役割となる。少なくともこの譬え話ではそういう理解の仕方も否定されてはいない。
種を蒔いた後、「夜昼、寝起きして、収穫の時を待つ農夫の姿を」、終末を待つ信徒と重ね合わせて、忍耐を教える説教として理解する人もいるだろう。それも別に否定されるわけではない。
あるいは刈り入れの時ということに注目して、終末論との関係でこの譬え話を解釈する人もいるだろう。ここでは、そういう理解も否定されていない。
しかし種が種のままでは成長しないのであって、種は土の上に播かれて土の力で芽を出し成長するのだから、「神の国とは、神の言葉を成長させる土のようなものだ」という解釈だって成り立つであろう。
要するに、この譬えについての決定的な解釈などというものを想定することはできない。譬え話というものは、それが語られた状況、語り手と聞き手の関係等がハッキリしなければ、それがどういう意味を持つのかということについて明確なことは言えない。また聞き手の状況、経験、気持ち、等によって理解の仕方は多様である。
しかし、だからといって、譬え話というものは解釈しだいでどうにでもなるものなのか、というとそうでもない。少なくとも否定的な面はかなり明白である。たとえば、この譬えにおいて神の国は難行苦行や人間的な努力によって実現するという思想は否定される。あるいは人間の共同や計画によって「建設されるもの」という思想とも対立する。むしろ、この譬え話では、種蒔きとか刈り入れという農夫の行動はストーリーの展開上必要なだけで、譬え話そのものの眼目は、人間は何もしないでいいということにある。人間はただ、ありのままの現実をありのままに受け入れて生きるということ、神がそこで働いておられるという現実そのものが神の国であるということを意味する。

4. 「からし種」の譬え
「からし種」の譬えは、マタイとルカにおいては、「パン種」の譬えと組み合わされている(マタイ13:31-32、ルカ13:18-19)。その場合、この譬えは「パン種」の譬えと同様、目に見えないほど小さなものが、驚異的な成長をして、やがて全体を支配するようになるという譬えとなる。つまり、そこでは教会の成長に対する期待と信仰が表明されている。しかしマルコはこの譬えを「成長する種」の譬えと組み合わせ、「成長する種」の譬えでは語りきれなかったことを補い、不明瞭であったことを明らかにする譬えとしてい用いている。そうなると当然この譬えにおいてはマタイやルカとの意味ないしは強調点の違いが出てくる。マルコにおいては小が大になるということではなく、目には見えないけれども、そこに既に蒔かれているという点が重要である。マルコにおいては、その種が大きく育つということ、「将来の教会」には関心はない。むしろ重要なことは、神の国は既にそこにあるということがメッセージとなっている。

5. 私の想像
さて、ここからは私の想像である。もしイエスが弟子たちにだけ語ったことがあるとしたら(4:34)、それは何だろうということである。どの福音書もその内容を語っていないのだから想像するしかない。私はおそらくイエスは弟子たちにあの譬え話において語った「目に見えないほど小さな種」とは、実は私自身のことなのだということではなかろうか。私自身がつまりイエス自身が地に蒔かれた神の国の種そのものである。これは肉体を持って目の前で食事をしたり、排泄をしているイエスという人物が「神の国の種」であるというイエスの言葉を弟子たちも理解できない。それを信じることができるようになったのは、イエスが肉体を離れ、つまり死んで後のことである。
ヨハネ福音書ではイエス自身が死を覚悟した時の言葉として、次の言葉を記録している。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ(ヨハネ12:24)。ヨハネの言葉は「死ぬ」ということをテーマに語られているが、むしろイエスの生き様そのものが、地に蒔かれた種としての生涯であった。弟子たちはそして私たちもイエスこそが神によって蒔かれた「神の国の種」であることを発見し、その種としての生き方を受け継ぐものである。

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