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チャップマン『聖公会物語』を読んでいる(9)

2013-12-03 17:28:02 | 小論
チャップマン『聖公会物語』を読んでいる(9)
ピューリタン革命と共和制時代について、チャップマンの『聖公会物語』では言葉少ない。わずかに「王政の崩壊」(77~79頁)で、簡単に触れられているだけである。しかし4章以後の英国教会の状況を理解するためには、「ウエストミンスター会議」と「ノンジェラー」については説明を補っておく必要があるであろう。
共和制時代は1649年1月30日のチャールズ1世の処刑から1660年5月29日にチャールズ1世の息子、チャールズ2世が復位するまでの11年あまりの間で、その間英国の国王は空位であった。
チャップマンは共和制時代の教会について次のように述べている。
「オリバー・クロムエルは、予想されたほど、教会改革を押し進めなかった。一方で、大勢が聖職者全員を罷免し教区会を捨て去ることを求めたが、クロムエルは管轄区制度を維持し、十分の一税を確実に集め続けられるようにした。各個教会はすべて、理論上は独立していたにもかかわらず、聖職授与権(庇護者による聖職者の指名)は継続し、クロムエルが国王の権限を執行していた」(77頁)。現代的に言うならば、法的には国教会としての英国教会は解体し、各個教会は自主独立していたという意味である。ここで言う「聖職授与権」という言葉の意味するところは明白ではないが、おそらく各個教会における牧師招聘権ということで、その地域の有力者が権利を持っていた。その有力者は「庇護者」または「パトロン」と呼ばれ、必ずしもそこの住民ではなかったらしい。その伝統は現在でも残っていると聞いているが、確かではない。
ピューリタン革命については、カンタベリー大主教ロードが英国教会の祈祷書をスコットランドの教会(長老制)に対して強制的に使用を迫ったということが切っ掛けになったといういきさつについては、既に取り上げたので繰り返さない(『聖公会物語を読む』第3回)。

(1)ウエストミンスター会議
ピューリタン革命はウイリアム・ロードの処刑(1645.01.10)とチャールズ1世の処刑(1649.01.30)で終わった。しかし革命そのものは1639年のスコットランドとイングランドとの間の主教戦争から始まり、1640年の英国における短期議会と長期議会とを通して英国内の長老派と国教会派との対立によって展開された。ロード大主教はこの論争を収拾するためにウエストミンスター会議を1643年7月1日に設置した。会議の構成員は約30名の信徒とさまざまな立場の聖職者120名以上で構成され、ロード大主教とチャールズ1世の処刑を挟んで1653年までの間に1163回も開催された。この会議の成果の一つは、1646年に「ウエストミンスター信仰告白」が発表されたことであろう。
このウエストミンスター信仰告白については聖公会の立場の人々はあまり多くを語らないが、教会史において非常に大きな影響を与えている。チャップマンは次のようにピューリタンの一人、リチャード・バクスターの言葉を紹介している。「使徒時代からキリスト教世界で、この教会会議およびドルトの会議ほど優れた聖職者のいる会議はかつてなかった」(78頁)。
ウエストミンスター信仰告白が発表されると、先ずスコットランド教会が承認し、ついでアイルランド教会が承認している。英国においてはチャールズ1世の処刑の前年、1648年議会において承認している。しかし王政復古した1660年チャールズ2世の即位と同時に破棄を宣言している。英国においてはわずか12年で廃棄されたウエストミンスター信仰告白ではあるが、諸外国の長老主義、つまりカルヴィニズムの立場では非常に高く評価され、この信仰告白を中心にウエストミンスター大教理問答、ウエストミンスター小教理問答等がセットになって、カルヴィニズムの立場の信仰基準となっている。この名前を冠したウエストミンスター神学校(アメリカ)は世界のカルヴィニズムの基準を示す神学校として認められており、神戸の改革派神学校とアメリカのウエストミンスター神学校とは提携関係にある。
以上で述べた通り、共和制時代の英国教会の基本的立場は長老制をとっていた。しかし、既に論じられている通り、純粋のカルヴィニズムにはアルミニウス派という修正派があり、英国では後者の立場が強い。メソジスト教会の祖、ジョン・ウエスレーはアルミニウス派の立場であった。

(2)共和制以後、名誉革命まで
1658年9月にオリバー・クロムエルが死亡したが、暫くは共和制は存続した。つまり英国国民は10年あまりの国王不在の状況を経験して、英国にはやはり国王が必要であるという選択をした。そしてチャールズ1世の息子チャールズ2世が迎えられ、1660年5月29日即位した。王政復古し、国教会派(ロード派)の巻き返しもあったが、当然のこと議会のほとんどは長老派、主教会はほとんど崩壊状況で、国教会派とピューリタンはとの抗争は続いた。結局一致点を(妥協点)を見出すことは出来ないまま、ピューリタン派の反対を押し切って1662年祈祷書が「礼拝統一法」の一部として議会の承認を得た。その結果、礼拝において祈祷書の使用を拒否した約1000人の聖職が職務を剥奪された。この時の祈祷書が現在でも英国教会においては生きている(八代崇『新カンタベリー物語』125頁)。チャールズ2世の時代においてはいろいろな政策が試みられたが、両派の溝は益々深まるばかりであった。
1678年1月27日、カンタベリー大主教に就任したサンクロフトの最初の任務は、次期国王に目されていたジェームズ2世を聖公会に改宗させることであったが、カトリックからの圧力が強く不成功に終わった。
1685年チャールズ2世はカトリック教徒として逝去し、ジェームズ2世が後継者として即位した。ジェームズ2世は即位後ただちに聖公会の権利を十分に尊重するということを約束したが、実際にはかなりカトリック側に傾いた政策をとった。1687年4月4日に発表された「寛容令」は「礼拝の完全な自由化、聖公会の礼拝への出席拒否者に対する処罰の停止、治安判事への通告を条件とした非聖公会礼拝の執行、王室関係の職務に従事する者への審査率の適用と『国王至上法』への宣誓免除など」を命じたものであった(八代、前掲書135頁)。つまりこれはカトリック教徒への寛容を示すものであった。さらに翌1688年5月には、この寛容令をすべての教会で朗読することが命じられた。この命令に6人の主教が反発し撤回を求めてサンクロフト大主教に相談する。この7人が国王ジェームズに請願書を提出したため7人は投獄されたが、裁判の結果全員無罪となった。この結果を見て身の危険を感じたのか、ジェームズ国王は1688年12月18日ロンドンを抜け出しフランスに逃亡した。これが世に言う「名誉革命」である。
この事態を修復するために、翌1月15日、ランベス宮殿において主教たちと貴族の会合がもたれ、メアリー2世と夫ウイリアム3世を国王として迎えるという結論に至る。この結論を得て、議会と聖職会議が開催されジェームズの廃位が決定された。

(3)サンクロフト大主教とノンジェラー
ところが、このことが英国教会としては深刻な問題に直面することとなる。この決定に対してカンタベリー大主教サンクロフトと上記の6人の主教たちは、王権とは神によって与えられたものであり(王権神授説)議会と言えどもこれを剥奪することは出来ないと反対する。そのためメアリー2世とウイリアム3世の戴冠式はコンプトン主教の代行によってを執行されたが、戴冠式を拒否し、さらに新国王に対する臣従を拒否したため、サンクロフト大主教は1690年2月1日、職務を剥奪された。この時、サンクロフトと共に国王に対する臣従を拒否した8人の主教と400人の聖職者は「ノンジェラー(宣誓拒否者)と呼ばれるようになった。
このことはその後のアングリカニズムを理解する上で非常に重要な出来事である。八代崇主教もノンジェラーについて次のように述べている。彼ら自身は「自分たちこそキリストの普遍的教会のイングランドにおける枝である」と確信しており、「使徒継承に基づく主教位の存続を図り、国教会とは別の教会として存続しようと願ったが、大多数の英国民の目には分派と映った。ただ、国家の束縛はもはや受けなくなったため、彼らが確信したことを、祈祷書の改正をはじめとして、自由に実現できるようになったことは、それ以後の聖公会の歴史にとって大きな意味を持ったというべきであろう」(八代、前掲書133頁)。
その後ノンジェラーによる祈祷書の研究の成果が新しい祈祷書を生み出し(1718年)、その祈祷書はスコットランドの聖公会に受け入れられ、その祈祷書がアメリカ聖公会において受け継がれ、日本聖公会にも大きな影響を与えている。

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