ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/12/25~12/31

2016-12-31 08:54:05 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/12/25~12/31

2016 日々の聖句 12月25日(日)
勇士の弓は折られるがよろめく者は力を帯びる。(サムエル上2:4)

マリアの言葉:権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。(ルカ1:52~53)

私の黙想:
今日の聖句は、クジで選ばれた言葉ではない(と、私は推測する)。新約の聖句のように「ハンナの言葉」とすべきでしょう。イエスの誕生に対応する旧約聖書のストーリーは、サムエルの誕生だ。イスラエルの歴史はサムエルの誕生によって、それまでとガラッと変わる。何が変わったか。それまでは、ある意味でアナーキーな社会、無秩序とまでは言えないが、統治なき共同体で、その時、その時、神によって「士師」が送られて外敵から共同体が守られた。しかし、サムエルの誕生によって、イスラエルの歴史は「神政政治」が整えられた。そのことによって、それまでの「弱肉強食」の社会が、共存共栄の社会、弱者が保護される社会へと変貌した。今日の聖句は、まさにそのことの宣言である。ヤハウェとサムエルとが許した王制は、開くまでの神政政治の執行者としての王でなければならなかったし、ダビデ王はまさにその役割を十分に果たした。ただ、その後の王たちはその肝心のところを失い「権力者」になってしまった。
マリアの言葉はイエスの誕生とは、それを受けて継いでいるものだと宣言している。メリー・クリスマス!

2016 日々の聖句 12月26日(月)
主は見えない人の目を開かれる。(詩146:8)

心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、(聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか)悟らせてくださるように。(エフェソ1:18)

私の黙想:
詩146は美しい、とにかく、美しい。これに韻を含ませて、美しい日本語で仕上げると、もっと輝くであろう。私にはその才能がないのが悲しい。この詩は詩編全体を締めくくるいわゆる「小ハレル(賛歌)」集の第1歌である。(「大ハレル」は詩135と詩136である)。
私の手元にある、最も美しいとされる詩146編を紹介しよう。

ハレルヤ。心を尽くして神をたたえよ。
命ある限り神をたたえ、わたしは生涯神をほめ歌う。
人の力に頼ってはならない。
人には救う力がない。
人は息絶えて土に帰り、
その日、すべての企ては空しくなる。
ヤコブの神を助けとし、
神に希望をかける人はしあわせ。
神は天と地を造り、
海とそこにあるすべてのものを形造られた。
神はとこしえにまことを示し、
貧しい人のためにさばきを行い、
飢えかわく人に糧を恵み、
囚われ人を解放される。
神は見えない人の目を開き、
いやしめられている人を高め、
従う人を愛される。
神は他国から来ている人を守り、
身寄りない子どもとやもめをささえ、
逆らう者の企てを砕かれる。
神はとこしえに治められる。
シオンの神は世々に。ハレルヤ。
(日本カトリック教会典礼委員会訳)
日本聖公会祈祷書の詩編の部は、この訳に大きな影響を受けていると思われる。(これは私の主観的な感想です)。

2016 日々の聖句 12月27日(火)
主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしくわたしを救ってください。(詩6:5)

イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。(マタイ9:22)

私の黙想:
この「立ち帰り」とは一体何なのだ。新約の方では「振り向いて」が対応しているようだから、今日のポイントはここか。マタイの方の「振り向いて」は状況が分かるが、詩編の方の「立ち帰り」は分からない。どういう状況を思い浮かべたら良いのだろうか。これを口語訳の方ではあっさりと「かえりみて」となっている。要するにヤハウェが「こっちを向いて」「私を見て」なのか。ヤハウェが「顧みて」、つまり「自分を反省して」なのか。フランシスコ会訳では「立ち戻って」である。要するにヤハウェの自己反省を意味している。新改訳も同じように「帰って来てください」(参照:詩90:13)である。岩波訳は「引き返しください」と訳し、註で「もう一度私の方に顔を向けてくださいの意」と注釈している。要するに、「主よ、こっち向いて」という祈りの言葉である。以前、私は「キリエ・エレイソン」を「主よ、こっちむいて」と翻訳したことがある。すべては、「主よ、こっち向いて」から始まる。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/0a85cba2c32d73b242d1945f0da4f103

2016 日々の聖句 12月28日(水)
主はエレミアに言われた。「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。」(エレミア1:9)

雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(マルコ9:7)

私の黙想:
新しい思想、アイデアはどこから出てくるのだろうか。過去のデーターの組み合わせから出てくることもありうる。しかし、それは本当に「新しい」と言えるのだろうか。エレミアの場合は、明らかに現在の常識を破るところから生まれている。多くの預言者たち(知識人たち)が安全だ、安全だ、と言っている中で、エレミアだけが危険を訴えた。人々は耳に痛いエレミアの預言を聞こうとしなかった。そのためにエレミアは人々から小突き回される。しかし、それでも人々はエレミアを抹殺することは出来なかった。それは何故か。人々はエレミアが語る言葉の中に「新しさ」を感じたに違いない。だいたい「敵に降伏せよ」なんていう発想は、それまでのイスラエルにはなかったに違いない。エレミアは確信している。私の言葉はヤハウェから授けられたものである。

2016 日々の聖句 12月29日(木)
「彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と主は言われた。(エレミヤ1:8)

人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19:10)

私の黙想:
あれまぁ、今日の聖句、昨日の聖句のすぐ前じゃないか。何という偶然だ。ここで言う「彼ら」とはエレミヤの同胞たちであり、「あなた」とはエレミヤ自身のことである。エレミヤの預言活動は、エレミヤ自身が徹底的に愛すべき「同胞」を恐れる所から始まった。ここにエレミヤの深い悩みあった。エレミヤの預言はポピュリズムと無縁であった。そのことを通して、預言するということの本質、預言者という生き方の本来性を示した。
話は飛ぶ。現代の牧師の任務を「預言」と捉えるか、「祭司」と捉えるか。勿論、その両方の任務を担うべき存在であるが、どちらの方に傾いているのか、が問題だ。誰がどちらかという議論をするつもりはないが、傾向として現代の牧師の問題は預言者としての機能が著しく低下していると言うことではなかろうか。

2016 日々の聖句 12月30日(金)
大水のとどろく声よりも力強く海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。(詩93:4)

イエス・キリストの言葉:あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ16:33)

私の黙想:
ほとんどすべての日本人は、実体験はともかくとして、少なくとも映像的には「大水のとどろく声、力強く海に砕け散る波」を経験している。あのどうしようもないエネルギーの固まり、何もかも呑み込んでしまう渦、波の轟く音。ただ見てくるだけで身がすくむ。その時、日本人の誰も神の力を想像しない。むしろ自然の驚異である。それを見たとき、詩人は、イヤ恐らくすべてのイスラエルの民は「神の恐ろしさ」を感じたのであろう。そしてそれを「神の絶対性」として受け止めた。
彼らにとって神とは「絶対に」人間の手に負える存在ではないと感じたのであろう。聖書の宗教の根底にはこれがある。バルトが「神の言葉は上から垂直に降りてくる」というとき、そのことを念頭に置いている。

2016 日々の聖句 12月31日(土)
見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。主は布告された祝福と、とこしえの命を。(詩133:1~3)

思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。(そうすれば、)愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。(2コリント13:11,13)

私の黙想:
今日の聖句、旧約も新約も、いかにも1年の終わりの祝祷である。今年も無事、一日にも欠かすことなく朝のローズンゲンの黙想をすることが出来た。これは何にもまして感謝である。
「兄弟が共に座っている」、つまり私にとっては夫婦が共に座って食事をする。何という恵み、何という喜び。この句を口語訳では公約している。「兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう」。この「和合」という言葉、一度聞いたら忘れられない美しい言葉である。口語訳でもここだけである。文語訳では「視よ、はらから相陸みて共に居るは、いかに善くいかに楽しきかな」これも美しい言葉だ。そのまま武者小路実篤ばりの掛け軸になる。フランシスコ会訳では「兄弟が睦まじく住むのは」で、これは違和感がある。「住む」というところまで来ると、あまり麗しくない。新改訳も「兄弟たちが一つになって共に住む」、何か嘘っぽい。こういう言葉は「文字通り」というより雰囲気が大切だ。数時間、あるいは数日「共に時間を過ごす」のはいいが、一緒に住むとなると一寸考える。岩波訳では「兄弟がいっしょに住むことは」と訳し、この兄弟とは「同国人」を意味するから、離散状態でないことと歴史的情況を思わせる説明をしている。おそらく、この説明が最も正確なのであろう。
では、良いお年をお迎えください。

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