ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

昨日のFB 12/30

2017-01-01 07:24:34 | ツイッター
お早うございます。主の平和。家内は整骨院へ。『正典論』、正典を支える根拠としての「聖霊の内的証示」にうんざり。これが出てきたら、神学なっている人間の営みは成立しない。何でもかんでも聖霊の内的証示で片付いてします。昼前に、田川郡の山奥のカレー屋さんに出かけて昼食。帰宅後、私のPCの機種変更とデーターの大整理。12時に就寝。7時に起床。体温:36.5、血圧(150:64、78)・体調・快調、チュン、チュン。

36 東山 富昭さん、藤木 冨士子さん、他34人
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久保和男 文屋先生おはようございます。主の平和。

久保和男 PC新しく買ったのですか。

萩野 秀子 おはようございます。早いですね。チラシ配りです。守られますようにお祈りします。
村田 多鶴子 おはようございます~♪よく晴れていますが、とても寒い朝です。
先生ご夫妻はもとよりお身内の皆さんがお守りの内によい一日をお過ごしになられますようにm(__)m
以前に申しましたように、今日から4日までは息子夫婦が合流してバタバタと忙しい日々になりそうです。FBを覗く時間が取れないかも…、その場合には、どうか失礼をお赦し下さいませ。
皆さんが希望の内によい年をお迎えになられますようにm(__)m

東山 富昭 おはようございます😃。大晦日まで、あと1日です。来年も、主なる神と主イエス・キリストにあって、よろしく、お願いします。
Mizota Michael Satoshi おはようございます。聖書のみの悪癖ですね。
Mizota Michael Satoshi カトリックの側からの正典論と比較すると面白いです。私はこちらに同意します。

http://ci.nii.ac.jp/els/110004715465.pdf?id=ART0007459044...
CiNii 論文 - 聖書正典成立史の諸問題
聖書正典成立史の諸問題 宮川 俊行 純心人文研究 10, 101-146, 2004-03-01
CI.NII.AC.JP

文屋 善明 いい論文を紹介していただき感謝。

藤木 冨士子 おはようございます。

三浦 三千春 >「聖霊の内的証示」にうんざり ってたってそうなんじゃないですか?
 逆に、無誤性の理論で聖書の正典性を守ろうとしたやり方は、いのちを削ぐ方向にも作用したのであって・・・。この辺、私はこだわりがあります。
 なぜなら神学校の卒論はこの辺だったからです。
 もし興味あられれば、ご批判のほど・・・・(音声で聞けば1時間で聞けます。なかなかの名文です(^o^)/
 
 「卒論 ルターの「語られるみことば」と福音的な信仰――無誤性でない路線でも福音派の志を生かせるかを探って(前半)」

三浦 三千春
2012年5月20日 ·
卒論 ルターの「語られるみことば」と福音的な信仰――無誤性でない路線でも福音派の志を生かせるかを探って(前半)

音声(機械による棒読み、誤読あり) ▼http://webchapel.jp/upload/klts_sotsuronboyomi1.mp3

神戸ルーテル神学校卒業論文です(2004年)。

Mizota Michael Satoshi でもまあ「うんざり」ってのは私はわかるし、最初はうんざりしただけかと思ったら、実は歴史的にも「人工的な試み」だったとわかったので、そこらへんとは一線を画したいですね。(だから文屋司祭もプロテスタントバリバリ教派からサクラメンタルな聖公会に「移った」んだとおもいます。)

Mizota Michael Satoshi というか文屋司祭がルーテル教会だったなら「うんざり」しなかったのではないかと。それ以降の教派がルターの思いを行き過ぎ、ルターが思い描いていない方向でまで飛び越えて完全廃止した、というところに、おそらく一線の違いがあるんだろうと思います。ルターが生きてたら「ここまで廃止しやがって、なんもわからんじゃないか」と言いそうな。。。それは『ドイツ語のミサ』とか読むとわかるわけで。。。
三浦 三千春 ルター(本人)の時点でどうだったんか、というんが卒論の主旨の大事なとこです。ぜひ読んでご批判下さい。
 だいぶ「詰めて」書いたつもりですけど、どこか本質的に欠けがあるかどうか? 見るべきところはどこか。

Mizota Michael Satoshi 前よんだんですが、聖書の位置づけがやっぱりルターを行き過ぎたんだろうなあ、という感想をさらに強くしました。

三浦 三千春 >行き過ぎた それは今のプロテスタント全般についての感想ですね、きっと。

Mizota Michael Satoshi 全般ってことでもないですけどね。。。ルーテル教会はカトリックと「和解」を目指すと思いますよ。。。
Mizota Michael Satoshi 儀式が「少々残っている」から、「聖書のみ」と「言うことができた」ってのもあるんでは?完全廃止して聖書だけがポンとおいてあるだけしかなかったら、ルターは典礼を「復興させる側」になってたんじゃないかとか・・・ここら辺はミサの完全廃止に対するルターの態度でもわかることで。。。

三浦 三千春 >ミサの完全廃止に対するルターの態度 この辺よほどカルヴァンとは違うところですね。
Mizota Michael Satoshi カルヴァンというよりつヴィングリズムってことかもしれないけど、少なくとも当時の宗教改革者の頭には、「妄想した東洋へのあこがれ」があってその「妄想した東洋を復興させようとした」だけなのではないかとか。。。。

三浦 三千春 >「妄想した東洋  って何ですか?

Mizota Michael Satoshi ラテン語だけの世界の中に、ギリシャ語の聖書の刊行をしたいとか、アラビア語とかが入ってくる、そのうちユダヤ人に目が向き、ヘブライ語聖書への関心やアラム語の写本を移入したりとか。。。

Mizota Michael Satoshi それはわかるけど、実際に使用されているところに「行くことがない」で教えをつくるんだから。「文字データだけで判断」しちゃった。当時としてはアラビアやユダヤ、ひょっとしたらギリシャ語聖書も「東洋」なんですよ。

Mizota Michael Satoshi 「エキゾチックなエスニック」ってことでしょう。カルヴァンなんかも実際にエルサレムとか旅行したらよかったのに。実際に使われてるところを見ないまま作ったと。
三浦 三千春 >カルヴァンなんかも実際に
>エルサレムとか旅行したらよかった
 Mizotaさんのひらめきは意表をついてるよ!
 しかし、フマスムスのおつむは、エルサレム旅行くらいで変わったかどうか???

Mizota Michael Satoshi だって完全に「無」なんだもん。それなら仏教の座禅のほうがいいわ。。。

Mizota Michael Satoshi 南伝仏教あたりであまり像をつくる影響のないところとかにカルヴァンが行くとかね。それでも「妄想教団」をつくりそう。「そもそも人間の存在しないホルマリンの充ちた教会が一番いい」と思ってるようなもんだから。

三浦 三千春 よほどカルヴァンが嫌いなのね(笑
Mizota Michael Satoshi 異端を焼き殺したって一件をいろいろ読んでゲロしましたからねえ。

Mizota Michael Satoshi 抵抗力のなくなる無菌室信仰て感じです。まあそれがいい人もいますから信教の自由だしw

Mizota Michael Satoshi というか宗教改革前後の『他言語聖書』の出版の歴史を抑えるべきだとおもいますね。ああいう伝統があったから「聖書」という考え方が出来上がった。「旧新約聖書という概念は宗教改革が生んだもの」というのは私の持論です。

三浦 三千春 21世紀の遠く東の果てに生まれた我々としてはどうしようもないとこですわね。
 神は私を「ここに」「ティテーミ」(置く)ことをされたのだから。ここを足がかりにするように、神が備えて下さったというのが小生の信仰であり神学です。

Mizota Michael Satoshi そう。もう「新しい宗教です」でやるしかないでしょうね。確かめないで信じた「間違い」も「一種の味わい」のうちでしょう。人工臭もいいものです。ガソリンの排ガスにも「子供を引き付ける魔力」があるわけで。。。。

文屋 善明
2016年12月30日 7:17 ·

お目覚めの花。「今年やり残したことは何か」「いろいろありますが、結局、すべてどうでもいいことばかりでしょう」「やはり部屋の掃除が第1でしょうね」「それがなかなか手が付かないのでね・・・・」。
画像に含まれている可能性があるもの:雲、空、木、植物、屋外、自然

26 望月 克仁さん、藤木 冨士子さん、他24人

文屋 善明
2016年12月30日 8:42 ·

2016 日々の聖句 12月30日(金)
大水のとどろく声よりも力強く海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主。(詩93:4)
イエス・キリストの言葉:あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ16:33)
私の黙想:
ほとんどすべての日本人は、実体験はともかくとして、少なくとも映像的には「大水のとどろく声、力強く海に砕け散る波」を経験している。あのどうしようもないエネルギーの固まり、何もかも呑み込んでしまう渦、波の轟く音。ただ見てくるだけで身がすくむ。その時、日本人の誰も神の力を想像しない。むしろ自然の驚異である。それを見たとき、詩人は、イヤ恐らくすべてのイスラエルの民は「神の恐ろしさ」を感じたのであろう。そしてそれを「神の絶対性」として受け止めた。
彼らにとって神とは「絶対に」人間の手に負える存在ではないと感じたのであろう。聖書の宗教の根底にはこれがある。バルトが「神の言葉は上から垂直に降りてくる」というとき、そのことを念頭に置いている。

27 北村 良輔さん、望月 克仁さん、他25人
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水草 修治 私は瀬戸内海の須磨に育ったので、高校まで、サーフィンができるような大波は日本にはないのだと思っていました。海は友人と静かに語らいながら散歩できる砂浜があるところでした。ところが、太平洋に出かけたらうるさくて何を話しているのかわからない、恐るべき大波がこの国にもあることを知りました。家内は信州育ちなので、海というものをほとんど知りません。

文屋 善明 おそらく、古代イスラエル人も原則的には「海」を知らないと思います。だから、現実に海に接したとき「恐怖」を感じたのだというのが私の解釈です。

三浦 三千春 >原則的には「海」を知らない どうなんでしょう? 海(沿い)の道というのはあったような気がしますが。でもやはり、長野県の人や奈良県の人のように、山に住む人々には海は馴染みが薄かったのでしょうか?

文屋 善明 古代イスラエル人活動範囲がどの程度だったのかということが関係していると思います。

Mizota Michael Satoshi 死海とか。

藤木 冨士子 地中海?穏やかなんですか?
文屋 善明 そうでもないでしょう。パウロが乗った船が難波していますから。

文屋 善明
2016年12月30日 8:54 ·

今日の名言:@C_G_Jung_jp
私の一生は、無意識の自己実現の物語である。無意識の中にあるものは全て、外界へ向かって現れることを欲しており、人格もまた、その無意識的状況から発達し、自らを全体として体験することを望んでいる。私は私自身の中のこの成長過程を跡づけるのに科学の用語を以てすることはできない。(カール・グスタフ・ユング、『自伝』)
<一言>これが本当の意味での「自己責任」ということであろう。私はこの言葉を「であろう」としか書けず、「である」といい切る勇気がない。自分の自伝にこんなことを書けるとは、驚きだ。さすがに心理学者ユングの言葉である。

19 北村 良輔さん、藤木 冨士子さん、他17人
コメント

水草 修治 ユングは汎神論者なので、彼のいう無意識はブラフマン(宇宙原理)を意味していて、「私」はブラーフマンの発現の場としてのアートマンであると考えたら、理解できるように思います。

文屋 善明
2016年12月30日 8:56 ·

イミタチオ・クリスチ(351):
キリストのため、またキリストにあって、あなたは敵をも味方をも同様に愛す。それなら、彼らがすべてキリストを知りかつ愛するようにと祈らねばならない。2:8:24

文屋 善明さんが過去の思い出をシェアしました。
2016年12月30日 9:14 ·

これが2年前の私の黙想
2年前
この日の思い出を見る

文屋 善明
2014年12月30日 ·
2014日々の聖句 12月30日(火)
イスラエルの人々は主に言った。「わたしたちは罪を犯しました。何事でも御目にかなうことを行ってください。」(士師記10:15)
わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。(テトス3:4~5)
私の黙想:
偉大な指導者ヨシュアの死後、預言者サムエルによって王制が確立するまでの間、イスラエルの民はカナンの地における原住民(農耕民)との文化的・宗教的に相違による葛藤の中にあった。その間を部分的に指導したのが「士師たち」であった。今日の聖句でいう「罪」とはイスラエルの民族宗教であるヤハウエ信仰を捨てて現地の宗教に馴染むことである。土地に執着しないという牧畜民が、農耕民として生きるときに土地にへばりついて生きてきた農耕民の宗教の影響を受けるということは、ある意味でやむを得ないことであった。ここに現代にも通じるイスラエル民族の根本的な問題がある。「矛盾」と言ってもいいであろう。こうした「矛盾」はそのままキリスト教にも受け継がれている。ここに士師記の面白さがある。従って今日の聖句はそのような矛盾の中で生きる人間の根源的な祈りでもある。「しゃないやんか。そうしなければ生きていかれへんのや。それもアカンいうなら、あんたの思うようにしなはれ」という神への全面的な降伏、明け渡し。だからこの句に続く次の一句が大きい。「ただ、今日わたしたちを救い出してください」。つまり、私たちが生き残れるようにしてください。

11 植村 光郎さん、藤木 冨士子さん、他9人

文屋 善明
2016年12月30日 9:20 ·

う〜無、良い記事です。グッドタイミングです。西原先生ご紹介ありがとう。
以下、西原先生のコメントです。
本日(2016年12月29日付)『東京新聞』コラム「筆洗」は、フォークランド紛争時に、真の和解を説いて、当時のサッチャー首相を激怒させた、ロバート・ランシ―(Robert Runcie)第102代カンタベリー大主教を紹介している。真珠湾で和解?を語った翌朝に、靖国神社を訪問する防衛大臣を同行させた、某国首相にはおそらく、このランシ―大主教の語る意味を理解することはできないのであろう。「フォークランド紛争の勝利に英国が沸いていた一九八二年の夏、カンタベリー大主教のロバート・ランシー氏が戦争終結への感謝の礼拝で語った言葉は、サッチャー首相を激怒させたと伝えられる▼勝利を祝し、愛国心の尊さをうたい上げる。首相らは、そういう言葉を期待していた。だが、第二次大戦を将校として戦い、戦争の現実を目に焼き付けた大主教は、国民に「殺されたアルゼンチンの若い兵士のために祈ろう」と語り掛けた▼「悲しみをともにすることが、戦い合った者を再び結び付ける力となるはずです。苦悩を分かち合うことが、和解への橋を架けてくれることでしょう」。それは「和解」のための祈りの言葉だった・・・」。

フォークランド紛争の勝利に英国が沸いていた一九八二年の夏、…
 フォークランド紛争の勝利に英国が沸いていた一九八二年の夏、カンタベリー大主教のロバート・ランシー氏が戦争終結への感謝の礼拝で語った言葉は、サッチャー首相を激…
TOKYO-NP.CO.JP

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2016122902000132.html

38 植村 光郎さん、Izumi Naraさん、他36人

文屋 善明
2016年12月30日 9:40 ·

「昨日のFB 12/28」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP
8 藤木 冨士子さん、川染 三郎さん、他6人

文屋 善明
2016年12月30日 10:12 ·

「2017A旧約 断想:主イエス命名日(A年)」をブログにアップしました。

BLOG.GOO.NE.JP

15 植村 光郎さん、藤木 冨士子さん、他13人

文屋 善明
2016年12月30日 14:22 ·

何も説明しません。とにかく読んでください。真実の言葉は重い。
画像に含まれている可能性があるもの:テキスト
後藤 富和
2016年12月28日 16:00 ·
工房陶友の「陶友通信」158号(2016年12月号)から。

中学生の時は、数学や英語の時間に、「お前はわからんから絵でも書いておきなさい!」って先生に言われました。わかるように教えてもらいたかったのに、差別されるのはイヤです。
僕はひかり作業所に来てミシンの仕事をがんばり、それから陶友に来て、食品班でリヤカーはんばいや売上計算や色々がんばっています。
去年の中学の同窓会で、「変わったね。成長したね」と友達に言われて、とても嬉しかったです。

障害者の人も、目がわるい人も耳がわるい人も、同じ人間やし、いっしょうけんめい生きているから、さべつしたらいかんと思います。
僕は養護学校の中学部をそつぎょうして、いろいろはたらきましたが、「バカ!」とか「のろい!」とかおこられて、いやになってやめました。障害者をバカにせんでほしいとおもいます。
陶友にきて、今はだれもバカにしないし、みんなといっしょに仕事して、たのしいです。

25 糸原 由美子さん、植村 光郎さん、他23人

文屋 善明
2016年12月30日 16:56 ·

今年最後の「陶友」を送って頂きました。先ほど、相模原事件を考えるリレートークで、実際に語られた障害者の声を読ませて頂き、シェアしました。私も、ダウン症の娘さんとそのお母さんとの関係を綴った手記を投稿させて頂きます。私は「ダウン症」は疾患と言うよりも、むしろ神さまから人類に与えられた賜物だと思っています。とはいえ、現実はそんなに甘いことを言っておられる状況ではありません。ダウン症のお子様を抱えた家族は、そうでない家族では理解出来ないような苦しみがあることでしょう。そんな中、このお母さんの手記は心が温まります。そして、これは神さまからの尊いギフトだと思います。だからこそ、この親子の幸せを共に分かち合いたいと思いました。「生まれてきてくれて、ありがとう」「産んでくれて、ありがとう」。
画像に含まれている可能性があるもの:2人

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24 植村 光郎さん、鎌野 健一さん、他22人
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櫻井啓子 先日、ある医大のサイトの記事を見たのですが、全受精卵の50%は染色体異常があり(そのかなりはそもそも着床しないかすぐ流産)、そのうち「トリソミー」で、無事に生きて生まれて来られるのはダウン症を含む3種類のトリソミーだけ(それもかなりの赤ちゃんは自然流産や早産や死産になる)とのこと。
もちろん障害のある当事者や家族の大変さは計り知れませんが、我々も、ダウン症のある人も、すごい確率で、生かされて生まれてきたのだなと思いました。。。

大脇 友弘 ご紹介いただき、ありがとうございます

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