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今週のローズンゲン 2017/11/05~11/11

2017-11-11 11:36:44 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/11/05~11/11

2017 日々の聖句 11月5日(日)
あなたは罪を赦す神。恵みに満ち、憐れみ深く忍耐強く、慈しみに溢れ先祖を見捨てることはなさらなかった。(ネヘミヤ9:17)

主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。(コロサイ3:13)

私の黙想:
聖書における神認識の内、具体的で最も明解なのが「罪を赦す神」ということであろう。そしてその上で贖罪ということがイスラエル宗教の中心的儀式となった。ということで、今日の聖句を読み直す。
ここでの「赦す」ということは非常にハッキリした神に対する反抗(反乱)、失礼な行為があった。これなら神も怒るであろうと納得する。それが「彼らが牛の像を鋳て造りエジプトから救ってくれた神だと称し背信の大罪を犯したときも、まことに憐れみ深いあなたは彼らを荒れ野に見捨てることはなさらなかった(9:18~19)。この出来事は、出エジプト以来の最初の「神に対する罪」である。そして、その罪はかなり厳しい罰によって精算された。しかし、このときの「民族的記憶」がその後のイスラエル史の原型となっているように思う。
聖書における神に対する罪は明解である。決して、ただ生まれたときから人間は罪人であるというようなキリスト教の「原罪論」などない。そして、その罪はその都度、精算されている。その意味では、イスラエル史において「赦す神」対「罪を犯す民」という固定的なパターンは正常ではない。従って、今日の聖句でいうと、「赦す神」ということではなく、「恵みに満ち、憐れみ深く忍耐強く、慈しみに溢れ先祖を見捨てることはなさらなかった」という点に強調点がある。一口で言うと「赦す神」よりも「慈しみ深い神」である。キリスト教も、この点をもっと強く、深く認識すべきではないだろうか。

2017 日々の聖句 11月6日(月)
大いなる主、限りなく賛美される主、大きな御業は究めることもできません。(詩145:3)

キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです。キリストはすべての支配や権威の頭です。(コロサイ2:9~10)

私の黙想:
「(その)大きな御業は究めることもできません」。まさにそれを究めることができないのは人間であり、それは当然のことである。究めることはできないが、讃美することはできる。その意味で、讃美とは素晴らしいことである。もう少し拡大していうなら、「芸術」とは素晴らしい営みである。人間は芸術において人間の限界を超えることが出来る。確かに、音楽にせよ、美術にせよ、その他すべての造形において作り出された作品は、芸術家個人の限界を超えている。哲学や自然科学ではできない人間の認識の枠を芸術は軽々と越える。
そう思いながら、ふと前を見ると「限りなく賛美される主」とある。この「限りなく」とはどういう意味か、わかったような気がする。口語訳では「大いに」と訳されており、その「大いに」は、その前の「大いなる主」に呼応している。

2017 日々の聖句 11月7日(火)
武具を帯びようとする者が、武具を解く者と同じように勝ち誇ることはできない。(列王記上20:11)

わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。(ヤコブ1:19~20)

私の黙想:
強大国アラム王は北のイスラエルの首都サマリアに対する軍事的圧力に協力するように南のユダのアハブ王に要求してきた。最初は従ったが、預言者や民衆の指導者たちの言葉に従って、危ないところでとどまり、軍事的参加を拒否するアハブ王の返事である。
なぜ、今日、この言葉が選ばれたのか、不思議である。イスラエル国はアラムの王の参戦への要求を拒否した。アベさんはトランプの要求に従って対北朝鮮・中国への軍事的圧力に参加しようとしている。
今日の聖句は4つの単語から成るヘブライ語の格言だといわれている。意味は日本語の諺でいうと「捕らぬ狸の皮算用」で、その戦いは負けるという意味である。

2017 日々の聖句 11月8日(水)
主よ、我々と結んだ契約を心に留め、それを破らないでください。(エレミヤ14:21)

我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。(ルカ1:69,72)

私の黙想:
イスラエルの民にとって最終的にヤハウェに祈る根拠は、ヤハウェが先祖になされた「契約」であり、これ以外にない。ここでのエレミヤの言葉は厳しい。エレミヤと同時代の預言者たちも、先祖の契約に基づいて、「お前たちは剣を見ることはなく、飢饉がお前たちに臨むこともない。わたしは確かな平和を、このところでお前たちに与える」(13節)と説教をしている。構造的にはエレミヤの説教と同じである。しかし、ヤハウェはエレミヤにいう。「預言者たちは、わたしの名において偽りの預言をしている。わたしは彼らを遣わしてはいない。彼らを任命したことも、彼らに言葉を託したこともない。彼らは偽りの幻、むなしい呪術、欺く心によってお前たちに預言しているのだ」(14節)。彼等の説教は偽りだという。では、エレミヤの説教と彼等の説教とはどう違うのだろうか。その重要なワンポイント、あなたは彼らにこの言葉を語りなさい。「わたしの目は夜も昼も涙を流しとどまることがない。娘なるわが民は破滅しその傷はあまりにも重い」。エレミヤの説教が他の預言者の説教と異なる点は「ヤハウェの涙」(17節)を語っているという点である。彼等は杓子定規に伝統的な説教を繰り返しているだけである。しかしエレミヤは、今、涙を流しているヤハウェの心を語る。巷に出て、現実を見よ。「野に出て見れば、見よ、剣に刺された者。町に入って見れば、見よ、飢えに苦しむ者。預言者も祭司も見知らぬ地にさまよって行く」という現実が溢れているではないか。エレミヤが他の預言者と異なっているのは、この点をハッキリと見ているということである。伝承された「言葉」を解釈して語る彼等の説教と、現実という視点からヤハウェの涙を語るエレミヤの説教とは根本的に異なる。その意味でヤハウェの涙を語るエレミヤ自身も涙を流している。同じこと、いや、同じようなことを語っていても、見ているもの、聞いているものが異なる。
これは現在の教会における説教でも言えることである。

2017 日々の聖句 11月9日(木)
(主はわたしに油を注ぎ主なる神の霊がわたしをとらえた。)わたしを遣わして(貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み捕らわれ人には自由をつながれている人には解放を告知させるために。)主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知(して嘆いている人々を慰め)される。(イザヤ61:1~2)

イエスの言葉:時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(マルコ1:15)

私の黙想:
今日の聖句、括弧内は省略されている。ここまでスッキリさせると、(油注がれた者がなすべきことは「告知」であることがハッキリする。「告知」は「その日」ではない。「その日」に向かって準備することを呼びかけることだという。このイザヤの言葉はそのままイエスの言葉と直結する。つまり、イエスのメインの仕事は「告知」であり、弟子たちがイエスから受け継いだ仕事も「告知」であり、そして私たちの課題も「告知」である。イエスの時代から見ると、私たちの今は、かなり告知されている「その日」に近づいている。「主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日」が間近に迫っている。もう、そろそろ私たちの課題も最終段階に入っていなければならない。
というのが、今日の聖句のメッセージである。

2017 日々の聖句 11月10日(金)
エレミアの言葉:わが民の破滅のゆえにわたしは打ち砕かれ、嘆き、恐怖に襲われる。ギレアドに乳香がないというのかそこには医者がいないのか。(エレミア8:21~22)

イエスの言葉:医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。(ルカ5:31~32)

私の黙想:
預言者エレミアは自国ユダ国の滅亡を目前にして嘆いている。もう、手の施しようがない。ここでの「わが民の破滅」と「わたしは打ち砕かれ」は、同じ言葉で訳すべきであろう。フランシスコ会訳では両方とも「打ちのめされ」、新改訳、岩波訳では「傷」、文語訳では「傷み」というように同じ言葉が繰り返されている。つまり、民族の「傷み」は預言者の「傷み」であり、それをいやす薬はない、ということが述べられている。だから別な単語に訳してはならない。
北森嘉蔵先生の「神の傷みの神学」はエレミヤ書に聖書的根拠をお奥と言われているが、それはエレミア書31:20「わが腸(はらわた)かれのために痛む」に基づくと言われている。今朝の言葉は預言者の「傷み」である。新改訳ではわざわざ「18~20節の語り手は預言者である」と断っているのが面白い。勘違いする人が多いのであろう。

2017 日々の聖句 11月11日(土)
わたし自身が町(イスラエル)を囲む火の城壁となると、主は言われる。(ゼカリア2:9)

イエスの言葉:わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。(マタイ16:18)

私の黙想:
「火の城壁」とはまた恐ろしい言葉だ。ここは有名な「測り縄の幻」の部分だ。ヤハウェ自身がエルサレムの町の測量をするという。何故なのか。エルサレムが城壁のない町になるという。つまり、敵がエルサレムを襲い、エルサレムを包囲し、完全に占領するという。今日の聖句は、そういう状況になた時、ヤハウェ自身が「火の城壁」となる。
岩波訳では「城壁のない町として残る」と訳されている。この場合にはエルサレムは開放された町として残る、という意味となり、「火の城壁」は神の支配する町を意味する。なかなか、解釈の難しい部分である。
ドイツのローズンゲンの学者たちは、この聖句に、教会形成のテキストを当てているのは面白い。新しいエルサレムとしての教会、開かれていながら、平和の国、この「火」を聖霊と解釈しているのであろう。

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