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ぶんやさんの記録

断想:復活節第6主日(2018.5.6)

2018-07-24 14:34:58 | 説教
断想:復活節第6主日(2018.5.6)

父なる神の御名   ヨハネ15:9~17

<テキスト>
9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
<以上)

1.教会的編集者の視点
ヨハネ15章~17章は明らかに教会的編集者(以下、「編集者」と記す)の挿入である。とくに15章は14章で語りきれなかった主要な項目を補い、それをさらに展開している。前回見たとおり、14章ではイエスの「「私が父の中に、また父が私の中に」(14:11)をキリスト者をも包み込み拡大する。(※これら3章はほぼヨハネ書翰と共通の視点に立っている。)

2.イエスと弟子たちとの関係
何はともあれ、イエスは弟子たちを信頼していた。現状は覚束なく頼りはないが、彼らの将来にかけた。この関係を一口で言うと「こんなに長い間、あなた方は私と一 緒にいるのに、私のことがまだ分からないのかな」(14:9a)という一言は、この時のイエスの期待が逆説的に表現されている。「父なる神とイエス」という最も肝腎のポイントである。もちろん後代の私たちから考えると彼らは未だイエスの十字架を経験していない。むしろ十字架は彼らにとってマイナス要因であってもプラス要因にはなり得ないとさえ考えられたであろう。しかし歴史は人間の考えることとは逆に働く。おそらくイエス亡き後、弟子たちは「いいかい、私を見た人は父を見たのです」(14:9b)という経験をしたのであろう。その経験は私たちの想像力を越えている。
イエスは最後の晩餐の席で、「さて、私が何をあなた方にしたのか、分かりましたか。あなた方は私のことを、「先生」とか、また、「主」とか呼んでいますが、それはその通り正しいのですが、その私が、主とか先生と呼ばれているこの私があなた方の足を洗ったのです。ですから、あなた方もお互いの足を洗いあうべきでしょう。私は身をもってその模範を示したのですから、あなた方も私がしたようにして欲しいんです」(13:14)。師であるイエスが弟子たちの足を洗うことによって、人間がお互いに愛し合うことの土台には「仕え合う」こと、言い換えるとお互いに「召使いになる」という実践的な姿勢と意味を教えられたのである。こんな簡単なことでと思うかも知れないが、ここに深い意味が隠されている。イエスが通常の人間同士としても深い意味があるが、後に「神」だと悟ったとき、イエスの足洗の意味は絶対的な「神と人間」との関係に転換され、単なる人間同士の倫理のレベルを超えて救済論(神人)へと展開する。神が召使いとなって人間に仕える。

3 .相互内在
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」(15:9)という言葉も、ここまで来ると「私と父は一つです」(10:30)という言葉の意味が新しくされる。ここまでが原本ヨハネ福音書のイエスの主張の最重要ポイントである。
その上でイエスは次の言葉を付け加える。「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(15:10)。ここに「父なる神」「神の子イエス」「弟子たち」との基本関係が確定する。「父と子と聖霊」の三一信仰成立以前の三一論の原型がここにある、と思われる。それはもはや「愛し、愛されるの関係」という平板な愛のレベルを超えている。これがキリスト教における「神人関係」の奥義である。イエスと弟子たちの関係が、神の子イエスと父なる神との関係に基礎ずけられている。
そこから弟子たちの本当の弟子たちの働きが始まる。
今までの師弟関係の再検討、イエスとの「愛し愛される関係」の見直し、言い換える、3年間の共同生活を思い出すことである。ここに「とどまりつつ」、この期間をかけがえのない時として思い出す。その期間を台無しにしないようにその後の生き方を方向付ける。その時、イエスが語った言葉、その時、イエスが笑ったあの笑顔、その時、私自身が口にした言葉、イエスと共に喜んだこと、共に涙を流したこと、それら一つ一つの事を思い出し、大切にする。それが、イエスの愛にとどまるということに他ならない。これが弟子たちの「聖霊経験」であり、事実上の「復活のイエス」との出会いである。
「これらのことについては、今はまだ十分に理解出来ないかも知れませんが、父が私の名において遣わして下さるであろう助け手、すなわち聖霊のことですが、あなた方にすベてのことを悟らせ、また私があなた方に言ったすベてのことをあなた方に思い起こさせて下さるでしょう」(14:26)。これが生きていたときのイエスの遺言そのものである。この言葉の中で、私は「悟らせ」「思い起こさせて下さるでしょう」という言葉が好きであり大切にしている。
それらの、すべての喜びを、今、私たちはかけがえのない宝物として共有している。この喜びを共有している友がここにいる。この友がいる限り、私たちは何も恐れない。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(15:12)。「イエスがわたしたちを愛したように」、何か非常に難しそうである。そんなことは私たちのような凡人にはできそうもない命令のように感じる。それはそう感じる方が間違いである。イエスと3年間一緒に生活した弟子たちにとっては、その愛し方は既に経験済みであるはずだ。イエスが普通の人間として考えられないような愛し方をしたとは思えない。むしろ普通の愛し方であったであろう。私たちが日常的に愛し合っているような仕方でイエスは弟子たちを愛したに違いない。そうでなければ、弟子たちもイエスから愛されたことが分からない。愛についての難しさは、事実として、愛しているのかどうかということであって、愛に方程式というようなものはない。
従って、ここでイエスは弟子たちに不可能を要求しているのではない。ただイエスとの楽しかった生活を続けるるようにという願いである。これがイエスの「掟」である。イエスの掟とは、古い律法に変わる新しい律法ではない。

4. 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)
これは難しい。明らかに、この言葉は生前のイエス言葉ではありえない。むしろイエスの十字架を「思い起こし」「再理解」した言葉である。「友のために自分の生命を捨てる」ことができるか。そう簡単に答えがでない。イエスは、そのように生き、そのように死んだかも知れない。しかしイエスはそのように生きることを私たちに求めておられるのだろうか。そんなはずがない。それではあまりにも「恩着せがましい」。そんなことを要求されるならば、何も私のために死んでもらわなくてもいい。しかし、もしそういう人がいるなら、「これ以上に大きな愛はない」ということだけは、認めざるを得ない。
しかし、いや本当に「しかし」であるが、弟子たちはイエスが弟子たちのために「死んだ」と信じたらしい。それが事実どういうことを意味したのか、なぜ弟子たちはそういう風にイエスの死を理解したのかは分からない。聖霊による理解としか言えないであろう。
しかし弟子たちには強烈な思い出があった。イエスがローマの兵士に逮捕されたとき、非常に単純に一つの反体制運動の結末として、他のすべての運動の賛同者の身を守るために、一人で犠牲になったことなのかも知れない。今となったら、事実は永遠の謎である。ただ弟子たちはそういう風にイエスの死を理解した。その理解がその後のキリスト教の中心的な信念となった。「友のために自分の生命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」ということが、キリスト者の最高の倫理となった。「できる、できない」の問題ではない。これが、人間の生き方として最高の生き方となった。それが「イエスの友」という名誉ある称号である。

5. 内なるキリスト(パウロとの近親性)
それに対して、キリストが「私の内に」生きておられるということは、言い換えると、キリストは「私たちにおいて」この世界に現れていることを示す。その意味でパウロはキリスト者を「神の神殿」と呼ぶ。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(1コリント6:19,20)。天使も、人々も、私ちを見てキリストを知る。
パウロは「内なるキリスト」ということについて、興味深いことを言っている。非常に重要な言葉なので、引用しておく。「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは知らないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが」(2コリント13:5)と言う。パウロがここで言っていることは明白である。私たち自身が「信仰を持って生きているかどうか」を自分自身で吟味しなさい、と言う。人から言われることはない。自分自身で自分自身を吟味せよ、と言う。
ここで用いられている「信仰を持って生きているか」という言葉は「信仰の中にいるかどうか」という表現である。つまり、「キリスト」という言葉と「信仰」という言葉とが同意語として用いられている。つまり、「エン・クリストー」かどうかということである。そう言われると、おそらく誰でも自信を失う。ここでもパウロは先ほどの言葉と同様に「あなたがたは自分自身のことが分からないのですか」と追いかける。そして、あなたがたの中にキリストがおられるではないか、と結ぶ。キリストが私の内におられる。私たちはしばしばそのことに気が付かない。気が付かないと言うよりも、あまり気にしていない。

6. 真理の霊
ヨハネの言葉に戻る。この点について、ヨハネは面白いことを言う。先ず、「内なるキリスト」は「内なる霊」であり、それは「真理の霊」であるという。私たちの内に住む霊とは単に私たちを元気づけるだけの「霊」ではなく、真理を悟らせる霊である。分かりやすく言うと、生きる知恵、人を理解する知恵、人生の真相を見破る知恵である。その意味ではキリスト者は「内なるキリスト」により賢くなる。ところが、このことがこの世の人たちには分からない。ヨハネは、「この世は、この霊を見よとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている」(14:17)と言う。このことについては私たちは既に知っている。私も知っている。あなたも知っている。イエスはこの決別説教の最後をこう結んでおられる。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(16:33)。私たちは「キリストにおいて」既にこの世の戦いに勝っている。

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