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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/12/21~12/27

2014-12-28 05:03:06 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/12/21~12/27

2014日々の聖句 12月21日(日)
天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。(詩103:11)
今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、恵みと平和があなたがたにあるように。(黙示録1:4)
私の黙想:
今日の聖句、文語訳、口語訳、新改訳等読み比べるとそれぞれ面白い。面白さの第1、ヘブル語原文では冒頭に「キー」という単語がある。なかなか翻訳しにくい言葉である。これを岩波訳がこれを「まことに」と訳している以外はほとんど無視している。この「まことに」も必ずしも「キー」の訳語とは言えないであろう。この単語は明らかに前の文章「 主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく、わたしたちの悪に従って報いられることもない」をひきづり、その理由を述べていると思われる。人間関係で言うなら、悪人には悪人に、善人には善人に対する態度がある。いわばそれは常識であり、当然の姿勢であろう。ところが、人間に対する神の姿勢は違うという。その違い方が、理由を述べているのが今日の聖句である。「超えて大きい」という部分をどう訳すか。文語訳では「大いにして」と訳し、だいたいその線で訳しているが、フランシスコ会訳では「主を畏れる者が考えるよりも遥かに大きい」と訳している。神の恵みというものは人間の常識では考えられない。つまり神が人間に対して示す態度は人間の「想定外」だというのであろう。岩波訳ではこれを「(神の)恵みはかれを畏れる者たちを圧倒する」と訳している。人間が考えているのとは天と地の差がある。日本語的な表現で言うと「雲泥の差」ということであろうか。
もう一度確認しておく。これは10節の私たちに対する神の態度を述べた言葉の理由であり、いわば根拠を述べた言葉である。

2014日々の聖句 12月22日(月)
あなたは、太陽と光を放つ物を備えられました。昼はあなたのもの、そして夜もあなたのものです。(詩74:16)
今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。(ロマ13:11~12)
私の黙想:
詩74はエルサレムの町と神殿とが外国によって占拠され、勝手放題に荒らされる状況において、神は敵の暴虐を前にして「手を懐に入れたまま」、彼らの好き放題にさせている。12節以下の部分では、神とイスラエルとの関係を持ち出して助けを求める嘆願の祈りである。もともとイスラエルの民は民族成立の当初から特別な関係にあったのではないでしょうか。これが彼らのが嘆願の根拠である。
今日の聖句は出エジプト記の「昼は雲の柱、夜は火の柱」(出エジプト13:21~22)の伝説を思い起こさせる。「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。「雲の柱・火の柱」とは民を導き、外敵から守るシンボルである。

2014日々の聖句 12月23日(火)
心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。(1サムエル7:3)
ザカリアの言葉:主はその民を訪れて解放された。こうして我らは生涯、主の御前に清く正しく仕える。(ルカ1:68,75)
私の黙想:
少年サムエルがサムエルが成長し(3:19)、全イスラエルに対する公式の預言者として認められて(3:20)、恩師エリも逝去し(4:12~18)、国内外の情勢は最悪の状態になっていた。それ以来、もう既に20年を経ていた。民族としての危機的な状況をやっと克服した頃「(その頃)イスラエルの家はこぞって主を慕い求めていた」という。
サムエル記上を注意深く読むと、今日のテキスト(3節)が預言者サムエルが公の場でイスラエルの民に語りかけた最初の演説である。
私のこの演説を読み、この演説がモーセの後継者ヨシュアが生涯の最後にイスラエルの民全体に対してなされた演説の最後の部分(ヨシュア記24:14~15)と重なると思う。
「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」。ここにヨシュアからサムエルへの連続性が示されている。これが神の民の土台である。
実は、私事になるが、この最後の言葉「わたしとわたしの家は主に仕えます」という御言葉(聖句)が私の父と母との結婚式場に飾られた「約束の言葉」で、一種の家訓として伝えられている。

2014日々の聖句 12月24日(水)
主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。(詩19:8)
羊飼いたちは非常に恐れた。すると天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。あなたがたのために救い主がお生まれになった。」(ルカ2:9~11)
私の黙想:
8節から10節に、「主の律法」「主の定め」「主の命令」「主の戒め」「主の裁き」と「主の〜〜」が5つ並ぶ。これだけ並ぶと圧巻である。
フランシスコ会訳では、これら5つを「主の教え」「主の諭し」「主の定め」「主の戒め」「主の仰せ」と訳している。微妙に違う。新改訳では「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」「主の裁き」で、これも微妙に違う。その他に口語訳、文語訳、岩波訳等読み比べてもそれぞれ微妙に異なる。これだけ1箇所に集まると翻訳者も訳語選択に困ったことだろう。こうなると、それぞれの単語の意味を分析しても大して意味が無い。むしろ、これら5つを貫く「一つのこと」を求める方がはるかに有意義であろう。それはこの詩の冒頭にヒントが示されている。「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」。この「物語」である。「天が語っているもの」「大空が示しているもの」である。「声は聞こえなくても、その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう」。この声を聞こうではないか。これを「自然神学」として誰が切り捨てることができるのだろうか。何の権威で「天の物語」をひていできるのか。この声を聞く時、それは「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」と詩人は言う。

2014日々の聖句 12月25日(木)
いにしえの神は難を避ける場所である。(申命記33:27)
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:14)
私の黙想:
昨日と今日の聖句を見ていると、新約聖書は明らかに降誕日を意識しているが、旧約聖書の方は余り関係がないようである。
申命記33章は「これは神の人モーセが生涯を終えるに先立って、イスラエルの人々に与えた祝福の言葉である」で始まる長い美しい詩である。ここでモーセは12部族に対する祝福と預言とをしてるが、必ずしも12部族の名前が揃っているわけではない。26節の「エシュルン」は部族名というよりもイスラエルの民族全体に対する尊敬の念を込めた別称であるらしい。
今日の聖句「いにしえの神は難を避ける場所である」という表現は一体どういう意味であろう。ここの「いにしえの神」とそれに続く「とこしえのみ腕」との関係は?口語訳では「とこしえにいます神はあなたのすみかであり」と思い切って「いにしえ」を「永遠」と同一化している(文語訳も同じ)。新改訳は「昔よりの神」という風に訳している。これを「いにしえの神」と言ってしまうと、昔はこうだったが現在は違うというある種、批判的な言葉になってしまう。
「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブル13:8)。

2014日々の聖句 12月26日(金)
渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。(イザヤ55:1)
玉座に座っておられる方が言われた。「渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。」(黙示録21:6)
私の黙想:
今日の聖句の鍵は隠れたところにある。「水」に象徴される人間が生きていく上で無くてはならないもの、それは「値なしに与えられる」ということ。この「値なしに」ということが鍵である。それは身体が要求するものも、魂が求めるものも含む。逆に言うと、人間が生きていく上で絶対に必要な物は「銀」では買えない。
このメッセージは貨幣経済が支配する現代社会においてこそ必要なものである。と、ここで終わってしまったら、ただ単なる、というより「おめでたい(宗教的)メッセージ」で終わってしまう。私たちが抱えている最大の課題は「銀(=貨幣)」なしには生きていけない現実である。何故、こうなってしまったのか。
そこには「値なしに配給されているもの」を独占し、「わがものとし」、値をとって配る奴がいるからだ。このメカニズムをアタカモ自然の原理であるかのように思わせ、人間を支配している連中がいるからである。今日の聖句は、こういう現実を暴き出すパワーがある。2節以下の言葉を読む時、2節冒頭の「なぜ」という言葉は強烈である。

2014日々の聖句 12月27日(土)
立ち上がって実行せよ。主が共にいてくださるように。(歴代誌上22:16)
主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。」(マタイ2:13)
私の黙想:
今日の聖句は、ダビデが彼自身の生涯の悲願である神殿建築という大事業の準備を進めうえで、建築そのものを息子ソロモンに託す言葉である。しかし、この言葉自体は独立していろいろな場面に「神の言葉」として当てはめることができる。今日の新約聖書の聖句もその一つであろう。少々問題は残るが、最後の晩餐の席でイエスがユダに「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」という言葉も、これに類する。
この言葉に対する私たちの模範的な態度は「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1:38)であり、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)である。
この世における神の御業は、神の御心と人間の決断との結びつきによってなされる。

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