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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/12/07~12/13

2014-12-13 10:36:36 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/12/07~12/13

2014日々の聖句 12月07日(日)
遠い昔の日々を思い起こし、代々の年を顧みよ。あなたの父に問えば、告げてくれるだろう。長老に尋ねれば、話してくれるだろう。(申命記32:7)
パウロのテモテへの手紙:わたしはあなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、わたしは確信しています。(2テモテ1:5)
私の黙想:
歴史の伝承。歴史は現在および将来への最高の教科書である。そもそも申命記は典型的な「歴史書」である。これを編集した人たちがいる。彼らが「歴史の叙述」というものの難しさを最もよく知っている。歴史は語り手によって変更される。歴史とは現在の視点から書き改められた「物語」である。申命記を編集した人々はバビロンの地において遠い先祖たちの歴史を顧みて、現在の問題点、民族の将来に思いを馳せた。それがいわゆる「申命記史観」である。その意味では、「歴史の記憶」を可能な限り残すということの大切さを最もよく知っている人々でもある。
今日の聖句において「父に問えば」「長老に尋ねれば」と述べられている点は、殊更重要である。人間は「問われなければ」、「尋ねられなければ」、思い出さない。問われて思い出す。問うのは「現在」であり、答えるのは「過去」である。現在と過去との対話によって、歴史は継承される。若い人々は私たちの年代の者に「戦争経験」を書き残せという。そんなもの、「ハイ、そうですか」と言って書けるものではない。もし、そういう風にして書いたとしたら、それは「歴史」ではなく非常に主観的で、私的な「思い出話」に過ぎない。「問われて語る」とき、答えるものと問うものとが同じ一つの「歴史」に属していることが「経験」される。これは民族史だけではなく、家族史においても、個人史においても、信仰史においても同様である。

2014日々の聖句 12月08日(月)
もしあなたたちが主を求めるなら、主はあなたたちに御自分を示してくださる。(歴代誌下15:2)
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(ルカ11:10)
私の黙想:
今日の聖句は文脈から見て、人間と神との一般論的な関係を取り上げていると見るべきであろう。イスラエル史におけるある特定の状況における「ユダとベニヤミン」と「ヤハウエ」との関係に重点を置いて考えるならば、この言葉よりもその一つ前の「あなたたちが主と共にいるなら、主もあなたたちと共にいてくださる」の言葉の方がはるかにリアリティがある。今日の聖句は、このことを一般論化した言葉であると見るべきであろう。それを更に普遍化した言葉が今日の新約聖書の聖句である。
ところで一般論として「神を求める」とは一体どういう事態を意味しているのであろうか。このことに関して、ここでは面白いことが述べられている。「長い間、イスラエルにはまことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった」(3節)。つまり、神のことについての神学も哲学もなかった、という。その種のものが一切ないという状況。まさに「無神論」が支配しているという状況、それはイスラエル史においては考えられない状況であるが、仮にそういう状況であったとしても、「しかし彼らは、苦悩の中でイスラエルの神、主に立ち帰り、主を求めたので、主は彼らに御自分を示してくださった」(4節)。つまり人間は「苦しみの中で」神を求めるという。それはほとんど無意識に近い「つぶやき」である。
これはイスラエル史における特別な事柄ではなく、人間一般のこととして、神を求めるということは人間の力ではどうしようもない状況において「神」を求めるという。それはもはや「理念としての神」ではない。そういう状況において「姿を現す神」である。

2014日々の聖句 12月09日(火)
わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。(エレミヤ31:3)
神はわたしたちを愛して、イエス・キリストによって神の子にしようと、前もってお定めになったのです。(エフェソ1:4~5)
私の黙想:
今日の聖句の直前の「主は遠くから彼に現れた」という言葉との関係で、「わたし」と「あなた」とが誰なのか、新共同訳も口語訳も曖昧である。その点で文語訳もフランシスコ会訳も新改訳も明瞭である。この言葉は主の言葉であるということが明瞭である。私たちに対する神の愛が永遠であること、変わらないことは、非常に有難いことではあるが、いわば当然のことである。何しろ神は永遠、不変であるから。むしろこの言葉の直前の言葉の方が興味を注がれる。「主は遠くからわたしに現れた(、言われた)」。ここでの文脈をイメージすると、ヤハウエのイスラエルの民に対する「愛の言葉」が「遠くから」預言者エレミヤに届いたという情景であろう。いわば遠隔恋愛の両者に対して預言者はラブレターの配達人の役割を果たしている。イスラエルの民にとってヤハウエは「遠い存在」になっている。だからヤハウエの愛に対する不信感が出てくる。ヤハウエは本当に私たちを愛しているのだろうか。そのような迷いの中にある民に「待ちに待っていたラブレター」が届いた。彼の愛には変わりはなかった。エレミヤ書を読むときの一つの鍵の言葉は「遠い神」と「近い神」、つまりヤハウエと民との「遠近感」である。
「わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか」(エレミヤ23:23)。

2014日々の聖句 12月10日(水)
主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやす。(列王記下20:5)
アナニアはサウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」(使徒言行録9:17)
私の黙想:
一般論として言えるかどうか。病も神から来る。病は人間の弱さを知るチャンスであり、生き方を変更する絶好のタイミングでもある。
ヒゼキア王が「死の病」にかかった。預言者イザヤはヒぜキア王のもとに「死の宣告」をするために訪れた。イザヤもなんとまぁ、嫌な役割を」させられたことか。その頃イスラエル王国も生きるか死ぬかの危機に直面していた。ヒゼキア王は死んではいられないと、必死になって神に祈った。イザヤが王宮を去ろうとする前に、つまりヒゼキア王の祈りがまだ終わらないうちに、ヤハウエの言葉がイザヤに臨んだ。今日の聖句はその時のヤハウエの言葉である。これが一つの転機となって、王は「主が共におられ、祈りを聞いてくださる」ことを確信し、ヒゼキア王の病も癒やされ、同時に国家の危機的状況も好転し平和が取り戻されたという。

2014日々の聖句 12月11日(木)
主はモーセに言われた。「彼らに伝えよ。『夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」(出エジプト16:11~12)
イエスは弟子たちに言われた。「群衆はもう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま、途中で疲れきってしまうかもしれない。」(マタイ15:32)
私の黙想:
今日の聖句は旧約も新約もかなり省略されているので前後の文脈を読まないとよくわからないかもしれない。しかし、逆にここまで省略すると、面白い視点が見えてくる。「食べて」「神を知る」。先ず「食べる」ということ。食べないと生きられない。相棒が入院し一人で生活していると(まだわずか1週間にすぎない)、先ず食べるということがこんなに大変なことであるのかということがよく分かる。食べないと本も読めない。食べることのために本を読む時間が取られる。
(行を改めて)食べるための工夫や行動とはとても楽しい。人間にとって食べるということは「文化」である。つまり、先ず人間は食べることによって自分が動物であることを知り、そして人間であることを「知る」。これが1週間の経験。これが40年も続くと「食べる」ということによって「神を知る」のであろう。いや、その前に「社会関係(=「愛情関係)」を知るのが先かもしれない。つまり「食べる」ということのために働いてくれる人がいて、初めて本が読める(=神を知る)。
今日の聖句はなかなか面白い。蛇足であるが、この聖句は私が選んだのではない。今日の私のために「向こうから」やって来たのである。

2014日々の聖句 12月12日(金)
神は羽をもってあなたを覆い翼の下にかばってくださる。(詩91:4)
あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(フィリピ(4:7)
私の黙想:
親鳥が雛鳥を守るイメージで神と民(人間)との関係を語る。親鳥は自分よりもはるかに大きく、強い相手にでも、雛鳥を守るためならば、果敢に戦う。イメージは鮮明であり、親鳥の雛鳥に対する「愛情」は美しく、それを見るものに感動を与える。しかし、これは少しおかしい。神よりも強くて大きな「敵」はない。神の強さは絶対である。翼の下に隠して守る必要などない。ただ、「敵」を睨めばすむ。というようなことを、考える私は「屁理屈屋」であろうか。
ロマ書8章31節から39節までを読めば、パウロはもっと屁理屈屋であることが分かる。

2014日々の聖句 12月13日(土)
わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください。(創世記18:3、口語訳)
見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(黙示録3:20)
私の黙想:
今日の聖句はイサク誕生の予告についての有名なテキスト。何故、口語訳なのか、単純に新共同訳の「お客様、よろしければ」なんぼ何でもないだろう。この3人はいわば「通りすぎようとしている旅人」である。「客」ではない。アブラハムは目の前を黙って通りすぎようとする旅人を、「主人」(フランシスコ会訳、新改訳)を丁寧に迎え入れて食事を振る舞ったのである。ところが、この3人が実はアブラハムに「待望の息子誕生」をお告げに来た「神からの使い」であった、というのが話しのオチである。
それにしても、ここというところで、神は「わざわざ」やって来たのに、黙って「通り過ぎよう」とするのだろうか。ガリラヤ湖にて嵐のために難破しそうになっている弟子たちの場面でも、イエスは「湖の上を歩いて、弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」(マルコ6:48)。このことについて聖書は何の説明もしない。今日の新約聖書の聖句のように「戸口に立って、たたいて」もいない。ただ、通り過ぎようとをしている。もし、見落としていたら、そのまま、何の出来事も起こらずに過ぎてしまう。私の人生において、どれほど、「神の近づき」を見落とし、「通りすぎてしまった」ことだろう。もったいないことをしたものだと、考えさせられる。


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