ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

渡辺奨学資金の件

2010-08-09 20:28:03 | 小論
卒業も間近に迫った松村は1933年2月19日に波多野精一教授から「一度来るように」という手紙を受け取り、翌2月20日に波多野教授の自宅を訪問する。その時、渡辺奨学資金の話しを聞く。その時の話の内容を松村は以下のように日記に記している。松村の一生を決定づける重要な出来事などで記録しておく。
<(この)奨学資金というのは故渡辺荘氏(文屋註:渡辺銀行オーナー)の意志によるもので、波多野先生ご夫妻と石原謙先生ご夫妻(奥様は荘氏の息女)の4人の相談によって決定しうるものなる由。本年度は既に人選を終わった後であったが、石原氏夫人の方より更に幾分か増額可能の旨申し来られ、月25円は出るとのこと。
目的はキリスト教を学的に研究する者への補助ということだから、その志を充分に汲んでやってくれるならば受けてもらいたいというお話であった。
仕事のあるなしに拘わらず自分の希望であったことをやれるわけであるから、心より喜んで頂くことにした。外的なレポートも何もいらないから、ガッチリと基礎的な勉強をするようにとのご注意、且つドイツ語、ギリシア語を先ずものにすることをすすめられた。
そして新約聖書の勉強にかかること、これが初年度の計画である。Calvinの翻訳の件(文屋註:これは黒崎幸吉氏からの依頼により、カルバンの「キリスト教要綱」をフランス語から翻訳する件)もありのままにお話をして了解を求めた。先生はただ仕事のためにやらぬよう、又日本の教界は学的に何といってもなお遅れているから、それによって小成に安んじて誇らぬようと有り難い忠告を頂く。仕事をしないように、結論を早く出さんと求めないように、それには歴史的な研究がよいと。これで1年の勉強の方針がたった様な気がする。これらのことは予期以上のことであり、厳かなる恩寵のみ手を感ずる。3時半先生の宅を辞した。>
この奨学資金を受け取ることによって松村は哲学から神学へ移った。晩年、そのことを回顧して、「(あの時)神学のジャングルに迷い込んでしまった」という。その時、もう一つの大きな移行があった。それがフランス語の世界からドイツ語の世界への移り出会った。その時、私は先生に何故そんなにフランス語がいいのですかと問いかけると、先生は「フランス語の純粋な論理が好きだ」と答えた。私にはその意味が未だ十分に理解できていない。

<文屋註>渡辺銀行は東京都内にある中堅の銀行であったが、1927年(昭和2年)に始まる世界恐慌の大波を受けて経営状態は決して言い訳ではなかった。ところが、同年3月14日、衆議院予算委員会において、大蔵大臣の片岡直温が答弁に立ち、財政の困難と、倒産企業の救済策について、るる述べているときに、大蔵省の次官から、メモがまわされてきた。片岡蔵相はそれを読み、顔をあげて、 「今日の正午ごろ、渡辺銀行が破綻をしました」 といった。正確には休業なのだが、片岡蔵相は早合点した。 議場は騒然となり、預金者は銀行の窓口に殺到し、倒産してしまった。従って、ここでの渡辺資金とは渡辺家の個人資産によるもので銀行倒産とは一応関係がなかった。

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