ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 8/1

2010-08-08 06:48:23 | ローズンゲン
8月1日(日)
岩と頼むのはわたしたちの神のみ。(サムエル上2:2)
わたしたちが持っている希望であるイエスは、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものです。(ヘブル6:19)
私の黙想
これはサムエルの母ハンナの祈りの一節。最後の「のみ」が強い。この「のみ」によって、他のあらゆるものが否定される。夫も、両親も、子供も、友人も、近所の人たちも。ハンナは「これらの人々によって」ここまで追い詰められている。今日から8月、時間が早い。

8月2日(月)
わたしはあなたに命じる。あなたの兄弟である、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。(申命記15:11)
キリストがわたしたちを愛して、御自分をわたしたちのために与えてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。((エフェソ5:2)
私の黙想
せっかくの慈善が「兄弟にだけ」向けられている。律法学者がイエスに「隣人とは誰か」と問うた根拠はここにある。イエスにとって「兄弟」とは時代を共有する全ての人々、民族的枠は完全に乗り越えられている。

8月3日(火)
この貧しい人が呼び求める声を主は聞き、苦難から常に救ってくださった。(詩編34:7)
わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。(1ヨハネ5:15)
私の黙想
今日の聖句では冒頭の「この」が省かれ、一般的な真理のように述べられている。それは危険な思想になる。あくまでも「この貧しい者」で、それは「私自身」という個人的で、主観的な経験を語っている。「私という貧しい者」という自覚が重要。確かにあの時ダビデは貧しかった。

8月4日(水)
主よ、神々の中に、あなたのような方が誰かあるでしょうか。誰か、あなたのように聖において輝き、ほむべき御業によって畏れられ、くすしき御業を行う方があるでしょうか。(出エジプト15:11)
イエスの祈り:父よ、御名の栄光を現してください。すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」(ヨハネ12:28)
私の黙想
ヤハウェは神々の中の最も有力な神。唯一神信仰よりも、この方が強力な感じがする。唯一神信仰は理念的。「聖において輝き」はイスラエル的表現。

8月5日(木)
泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。(エレミヤ31:16)
わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。(2コリント4:17)
私の黙想
そうとでも思わなければたまったものではない、という信仰の在り方もある。二人の幼子が母親の育児放棄、家事放棄によって、無惨な死に方をした。思うだけで身震いするほど怒りを感じる。育児放棄、家事放棄を承認するとそこまで行ってしまう。この2人の子どもたちには天国での「報い」しかない。アブラハムの食卓で豊かな食事が与えられ、柔らかいベッドの上で睡れますように。

8月6日(金)
わたしは言いました。「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました。(詩32:5)
イエス・キリストこそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。(1ヨハネ2:2)
私の黙想
神との関係における「罪」は告白し赦される。ウリヤの妻バト・シェバに対する「罪」は彼女を愛することによって赦される。しかし、死んだウリヤに対する罪はいかにして赦されるのか。ダビデの最大の罪はウリヤに対するものである。ダビデはこれを一生担っていかねばならない。

8月7日(土)
主はあなたたちを御自分の民と決めておられる。(サムエル上12:22)
救いはユダヤ人から来るからだ。(ヨハネ4:22)
私の黙想
今日のような聖句はローズンゲンでなければ気が付かずに読み飛ばしてしまう。読み直してみると凄い言葉である。日本民族は神との関係をこのように受け止めることが出来るのか。他の民族はどうだろう。普遍的なようで特殊、特殊なようで普遍的な感じもする。

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