ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2014/06/22~06/28

2014-06-29 06:45:33 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2014/06/22~06/28

2014日々の聖句 06月22日(日)
主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます。(エレミヤ17:14)
バルティマイという盲人の物乞いは、ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。(マルコ10:47,49)

私の黙想:
今日の聖句は「当たり前のこと」。全ては神の意志のままになることは「当たり前のこと」。この当たり前のことを否定する人がいる。だから当たり前のことを繰り返し言い続けなければならない。神は神であり、人は人である。神が一言語れば、その通りのことが起こる。神が滅ぶと言われたら滅ぶ。これは当たり前のことである。預言者エレミヤはこの当たり前のことに命をかけている。
エレミヤを囲む人々は「主の言葉はどこへ行ってしまったのか。それを出してみせるがよい」(口語訳)とエレミヤを馬鹿にする。彼らには神の言葉が聞こえていないらしい。いや、彼らの神は「語らない神」である。彼らの神は彼ら自身の虚しい願望の反映でしかない。その神は自分たちの自由になる神だと思っているらしい。そんな神は死んでいる。いや、死ぬ前に存在しない神である。預言者エレミヤは繰り返す。「主よ、あなたがいやしてくださるなら、わたしはいやされます。あなたが救ってくださるなら、わたしは救われます」。

2014日々の聖句 06月23日(月)
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。(エレミヤ29:11)
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。(ヨハネ14:27)

私の黙想:
これは預言者エレミヤが第1次バビロン捕囚(597BC)の民に送った手紙の1節である。この文章の直前10節にはバビロン捕囚が70年で終わることが預言されており、これがここで述べられている「神の計画」であると告げられている。エレミヤがどこから、何を根拠に「70年」という捕囚期間を告げることができたのかということは「謎」のままにしておく。
苦難の終わりを知るということは非常に大きな慰めである。今の苦難がいつまで続くのか、どのようにして終わるのか、未来を予知できない人間にとって、それが最も大きな苦しみである。しかし、今の苦難が神の計画のうちにあり、それは「災の計画」ではなく「平和の計画」であるという確信が与えられたら、人間はその苦難に耐えることができる。その神のご計画に対応する人間の計画も建てることができる。このことがイスラエルの民がバビロン捕囚の期間に、律法を編集し、信仰共同体としての再生を考えるエネルギーとなった。

2014日々の聖句 06月24日(火)
我々の罪が我々自身を告発しています。主よ、御名にふさわしく行ってください。(エレミヤ14:7)
ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(ヨハネ1:29)

私の黙想:
ほとんどの邦訳が口語訳のように「われわれの罪がわれわれを訴えて不利な証言をしています」というように訳している。多分原語はそうなっているのであろうが、新共同訳が端的で分かりやすい。つまり仏教用語で言う「自業自得」ということであろう。「自業自縛」ともいう。だからいま、私自身が受けている「罰」は仕方がない。これを他人に対する批判の言葉としてしまってはならない。あくまでも自分自身への反省の言葉である。ここから諦観の思想へと進む。
しかし預言者エレミヤの言葉は違う。自業自得、それは確かに自業自得であるが、私の自業自得によって神の姿勢や行動を変えないでくださいと祈る。私は私であるが、神は神である。これは一見祈りの形式になっているが、これは祈りというよりエレミヤの神観である。神は神であって、私の善行や悪行によって、神が神であること、神のご計画が変わるわけではない。この点については昨日の聖句(エレミヤ29:11)を引っ張っている。

2014日々の聖句 06月25日(水)
主の慈しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。(詩117:2)
あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。(コロサイ1:6)

私の黙想:
詩117はたった2節の超短い詩である。しかも1節は「すべての国」に対する讃美の呼びかけであり、詩の本体は今日の聖句だけである。しかし短いながら魅力的な言葉を含んでいる。「わたしたちを超えて力強い」。他の訳は「大きい」(口語訳)、「おおいなり」(文語訳)、「私たちに大きく」(新改訳)、「力強く」(フランシス会訳)、等平凡な訳である。岩波訳では「われらを圧倒し」と訳し詩103:11を引用している。ここを直訳すると、全世界の諸民族にヤハウェをほめ讃えるべきことを告げた言葉を受けて、「何故なら」という言葉で始まる。その理由が「その慈しみが私たちより強い(ガヴァール)」からであるという。「わたしたちを超えて力強い」、何か直訳臭いが、何とかその原意を活かしたいという訳者の努力が伺える。岩波訳の「われらを圧倒し」も悪くない。つまり、それが古代ユダヤ人の神に対する経験的実感であったのだろう。ヨブ記も「私を圧倒する神」が主題であった。

2014日々の聖句 06月26日(木)
主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。(1サムエル12:22)
あなたがたは、主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。(2コリント8:9)

私の黙想:
今日の聖句に続く次の言葉も凄い。「主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである」。つまり、これはヤハウェの「身内宣言」ないしは「身内意識の表明」である。神があなたを私の身内とする。「身贔屓」という言葉がある。自分と特別な関係にあるものを贔屓する。人間の世界ではあまりいい意味ではない。一種の偏見である。教室で教師がこれをすると生徒たちや保護者たちから批判される。教師はすべての生徒に平等でなければならないという。市長が自分の親類の企業に特別な配慮をしたら叩かれる。裁判官が身贔屓をしたら社会の公正は崩れる。しかし、今日の聖句は全人類に対して公正であるべき神がイスラエルの民に身贔屓すると言う宣言に等しい。
逆に身内だからこそ、厳しいという側面もある。身内だからこその信頼関係があるとともに、身内だからこそ批判の言葉も激しい。他人ならどうでもいいことを身内だからこそ干渉することがある。
しかし、身内が他人から傷めつけられている姿を見たら無性に腹が立つ。文句なしに守ってやりたいという気持ちになる。これも身内意識であろう。だからサッカーのワールドカップに敗れた選手たちへの「他人行儀なインタヴュー」に腹が立つ。黙って、そっとしておけよ。

2014日々の聖句 06月27日(金)
どうか、あなたの父の神があなたを助け、全能者によってあなたは祝福を受けるように。(創世記49:25)
イエスは病気を癒やされた人に言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(マルコ5:19)

私の黙想:
今日の聖句は、父祖ヤコブが12人の息子たちの将来を予告し、最後に述べた祝福の言葉。人生最後の一言である。ここでの「父」は「父なる神」ではなく、肉親の父である。つまり「私の神」があなたたちを助け、祝福してくださるようにという祈りである。ヤコブの波乱万丈の人生は「父イサクの祝福を兄エサウを出し抜いて騙し取る」ことから始まった。人生の分かれ目、ヤボクの渡しでは神から祝福を得るために、夜通し怪物と戦った(創世記32章)。ヤコブにとって「祝福を得る」とはそれほど重要な事柄であった。Blessing、Blessとは、そういうものである。ヤコブにおいては「父のBless」は神のblessでもあった。私の人生が神のBlessingのもとにあるのか。この神のBlessとは天地創造の時の神の「良しとされた」に通じる。

2014日々の聖句 06月28日(土)
わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。(エゼキエル34:22)
イエスの言葉:羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。(ヨハネ10:12,14)

私の黙想:
今日の聖句の前後(11節から23節)もぜひ読んでもらいたい。ここに羊飼いであるキリストの姿が見事に描かれている。特に18節から21節に注目して欲しい。
「お前たちは良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒らし、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回すことは、小さいことだろうか。わたしの群れは、お前たちが足で踏み荒らした草を食べ、足でかき回した水を飲んでいる。それゆえ、主なる神は彼らにこう言われる。わたし自身が、肥えた羊とやせた羊の間を裁く。お前たちは、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった」。
ここで言う「お前たち」とは誰のことだろうか。同胞の中の「肥えた羊」である。肥えた羊連中は、自分が満腹すると、残りの牧草を「足で踏み荒らし」、残りの水を「足でかき回す」。やせた羊はそれを食べ、その水を飲んでいる。その上、「お前たちは、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった」という。何という悪い連中だ。「これは(我慢して済ませるような)小さいことではない」。神は必ず彼らに報復する(彼らを裁く)。それが良き羊飼いの登場である。

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