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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/12/06~12/12

2015-12-12 19:58:42 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/12/06~12/12

2015日々の聖句 12月06日(日)
起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。(イザヤ60:1)

あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。(1テサロニケ5:5)

私の黙想:
「照らされて輝く」。自らは光ではないのに、照らされて光となる。光の方から見ると、光それ自体は見えない、つまり光っていない。何かに当たって光は輝く。
朝、太陽が出てくる情景をつぶさに観察していると面白い。真っ暗闇の中ですべての山はあたかも無いかのように闇に包まれている。やがて辺りが白みはじめると、先ず黒い山が見える。もう暫くしていると、黒い山が緑色に変わってくる。そして辺りがすっかり明るくなってから、東の空に光の源である太陽が初めは真っ赤な点のように、そしてだんだん高く昇り、金色色に変わり、太陽本体がすっかり姿を現すと、むしろ太陽は昼の明るさの中でただ「光源」となる。その間、雲の動きによって様々な情景を産み出す。これが朝日が出る光景である。
口語訳では2節に「あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ」という言葉が入り、私の好きなフレーズであったが、他のどの訳にも「朝日のごとく」という名文句がなくて寂しい。

2015日々の聖句 12月07日(月)
水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。(イザヤ11:9)

わたしたちの救い主である神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。(1テモテ2:3~4)

私の黙想:
「水が海を覆っている」って、おかしな表現だ。天地の創造者は、大地で「乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた」(創世記1:10)のである。だから海には水が集まっているのであり、水が海を覆っているという表現は当たり前すぎて、ほとんど無意味である。それと同じように、「大地が主を知る知識で満たされる」、という表現も理屈を言えば理解不能である。でも、不思議なことに何となくわかる。何がわかるのか。結論をいえば、これは当たり前のことなんだが、「主を知る知識」が当たり前の知識として全世界に普及するということであろう。口語訳では後半の部分を「主を知る知識が地に満ちるからである」と訳している。ここでの「地」は「海に対する地」ではなく、単に全世界という意味である。それを「大地」などと訳すから、「大海」に対比されてしまう。「主を知る知識」を単純に「神による救済」だとすると、今日の聖句は救済の普遍性、普遍的救済論を述べている。

2015日々の聖句 12月08日(火)
かつてあなたは大地の基を据え、御手をもって天を造られました。(詩102:26)

天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。(黙示録14:7)

私の黙想:
今日の聖句、特に新約聖書の方の聖句を見て、変なことを思い出してしまいました。「変なこと」なんて言ったら失礼になりますが、私の母の母、普通にいうと私の祖母のことです。彼女は何時も身だしなみをきちんと整えている凛とした武家のお嬢さまだったと聞いています。元々は熱心な仏教徒だったらしく、その頃は、おそらく、朝晩、仏壇の前で念仏を唱えていたものと思われます。
私がまだ小学生の頃、満州から引き揚げてきた私たち一家はしばらくの間、叔父の家に居候していたました。その頃、私たち兄弟は祖母の隣の部屋で寝起きし、襖を開ければ祖父母の部屋でした。この祖父母は私の母がキリスト者になってからその生き方の大きな変化に驚き、キリスト者になったとのことです。私たちがそこに住むようになった頃はすでに熱心なキリスト者になっていました。彼女は、毎朝、服装を外出着に着替えて、家庭祭壇の前で一人で聖歌をお経のように唱え、聖書を読み、祈っていました。その姿勢は厳粛そのものでした。そんな環境で、私は少年時代をすごしました。
その祖母は教会での「証し」のとき、決まって一つのことを語っていました。それは、「私は長い間、暗闇の中を提灯一つで歩いてきました。その時は提灯が有難くて、一生懸命、提灯を拝んでいました。でもキリスト教に出会って、その提灯の本当の持ち主を知りました。昔は仏教徒であった頃は、感謝の心で天地万物を拝んでいましたが、今は天地万物を創り、私たちに恵みを与えて下さっている本当の神さまを拝んでいる。こんなに嬉しいことはない」と。

2015日々の聖句 12月09日(水)
主よ、わたしの神よ、わたしの目をあなたに向け、あなたを避けどころとします。わたしの魂をうつろにしないでください。(詩141:8)

イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。(マルコ4:38)

私の黙想:
「わたしの魂をうつろにしないでください」。聖書にこんな言葉があったか、記憶になり。ということで口語訳を見ると、やはり「わたしを助けるものもないままに捨ておかないでください」と訳されていた。文語訳では「わが霊魂を乏しきままに捨ておき給ふなかれ」で、「うつろ」なんていう言葉は使われていない。フランシスコ会訳では単純に「わたしを見捨てないでください」、新改訳はもっと強烈で「私を放り出さないでください」。新共同訳の特異性が目立つ。悪い訳ではないが、聖書においてこういう「奇を衒う」ような言葉は使わない方がいいと思う。この句について説教者が説教の中でこういう表現をとるのは良いが、その意味では説教の方に踏み込みすぎている。おそらく原文は、岩波訳のように「わが魂を空にしないでください」に近いのであろう。要するに「心の空虚感」を意味するのであろう。

2015日々の聖句 12月10日(木)
くじは膝の上に投げるが、ふさわしい定めはすべて主から与えられる。(箴言16:33)

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(マタイ16:29)

私の黙想:
聖書は「占い」を厳しく否定するが「くじ」は肯定的である。最も有名な籤は使徒言行録第1章で12弟子から脱落したユダに変わる使徒を選ぶときであろう。イエスが選んだのでない一人の使徒を決定するという教会の歴史上非常に重要な場面で「籤」が出ている。勿論、数人の候補者の中からいろいろ協議して候補者が2人に絞られ、最終的には「籤」によりマツテヤが選ばれた。どうやら聖書では「籤」には神の意志が働くという信仰があったように思われる。そこには「人間による判断」の限界が示されているように思う。
まぁ、ここまでは「籤」についての正当な判断であろうが、もう一つ、別の側面から言うと、「籤」によって決定されるということについての「諦め」があるように思う。あの人は嫌だとか、こんな奴が選ばれるとは選ぶ奴のレベルが分かるとか、という種類の「人の思い」を断ち切るというのが「籤」である(ように思う)。

2015日々の聖句 12月11日(金)
わたしの言葉はあなたの口からも、あなたの子孫の口からも、あなたの子孫の子孫の口からも、今も、そしてとこしえに離れることはない、と主は言われる。(イザヤ59:21)

自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。(1テモテ4:16)

私の黙想:
文頭の「これは」は20節の文章を受けているとすると、「わたしの言葉」つまり神の言葉の内容は「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来る」である。「贖う者」つまり救済者がイスラエルの民の中で「罪を悔いる者」のもとに来る。つまり最後の審判の時、裁く者としてではなく、救済者として神は来られる。このことを代々、語り継げよと主は言われる。「離れることはない」という言葉は意味としては「離すな」という命令である。
ところが、口語訳では少し異なる。契約の内容が、「あなたの上にあるわが霊、あなたの口においたわが言葉は、今から後とこしえに、あなたの口から、あなたの子らの口から、あなたの子らの子の口から離れることはない」である。フランシスコ会訳でも、新改訳でも、20節と21節との間に段落があり、21節文頭の「これは」はその後ろの文に繋がっている。そうすると「最後の審判」は今日の聖句とは関係ないことになり、神の言葉が子どもから子孫へ代々受け継がれていく。そうすると言葉と共に「神の霊」と「神の言葉」とが平行関係になり、言葉と共に神の霊も代々継承されることになる。この方がスッキリする。

2015日々の聖句 12月12日(土)
主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。(詩34:8)

夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出した。(使徒言行録5:19)

私の黙想:
文語訳では「主の使いは主を畏れる者のまわりに営を列ねて、これを援(たす)く」(「エホバ」を「主」に読み替え)であった。「営を列(つら)ねて」とか「援く」という言葉が好きだった。これらの言葉を聞くと、戦場の雰囲気がいきいきとイメージされる。まぁ、それだけ軍国主義教育が徹底していたのであろう。「陣を敷き」(フランシスコ会訳)、「陣を張り」(新改訳)でも同じ意味ではあるが、多分、緊迫感が違うのだろう。「援く」もニュアンスがある。「守り助ける」では迫力が違う。フランシスコ会訳と新改訳は「助け出す」と訳し、多少緊迫感が感じられるが、「守り助け」ではいかにも「専守防衛」の感じで、危機感に乏しい。何も私は軍国主義教育を賛美しているのではないが、闘うべき時は闘わなければならない。敵陣に味方が包囲されていたら、何をさておいても、飛んでいって救出しなければならない。今日の聖句にはそのような危機感がある。

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