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「洗礼者ヨハネの説教」についての断想  ルカ3:7~18

2015-12-13 08:58:30 | 説教
「洗礼者ヨハネの説教」についての断想  ルカ3:7~18

まえがき
降臨節第3主日は、古い祈祷書では洗礼者ヨハネのことを学び、「教役者の日曜日」と呼ばれていた。特祷では「願わくは今、主の奥義をつかさどる仕えびとをめぐみ、もとれる者の心を正しき人に帰らす力を与えて主の道を備うることを得させ給え」と祈る。それで、この週の水曜日、金曜日、土曜日は「冬期聖職按手節」として定められ、降臨節ではあるが、聖職按手式並びにその祝会などが開催される。ところが新しい祈祷書では洗礼者ヨハネのことは既に降臨節第2主日で学び、この日にはその洗礼者ヨハネの説教が取り上げられ、「教役者の日曜日」という意識は薄れてしまっている。ある意味では考えようによっては、降臨節第2も第3もともに「教役者の日曜日」だという説明も出来るであろう。

1. 洗礼者ヨハネの説教
この日の福音書テキストは洗礼者ヨハネの説教である。が取り上げられている。先週のテキストではヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と総括的な表現にとどまっていたが、本日のテキストではその具体例があげられている。

先ずヨハネの説教そのものを読み分析しておこう。ここでの説教は3つの部分に分けられる。
第1部(3:7b~9)は「蝮の子らよ」という言葉で始まるかなり激しい批判と警告である。「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」という言葉はイスラエル民族の危機的状況から眼を逸らそうとする指導者への激しい批判の言葉であり、また同時にそれを支持している民衆への批判の言葉でもある。この部分はマタイ3:7b~10とほとんど完全に一致している。この部分はマルコにはないのでQ資料によるのであろう。しかし、この部分は同じ言葉であっても語る人の立場によって全然異なった意味になる良い例でもある。ユダヤ人であるマタイが語る場合には、同じ同胞として民族の退廃を嘆く言葉としてほとんど違和感なく読める。しかしルカの場合は非ユダヤ人であり、「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(3節)という言葉は「ユダヤ人の特権意識に対する一種のアイロニーとして「神は石ころからでも」ユダヤ人を作り出すことができるという意味に響く。つまりルカ福音書における洗礼者ヨハネはユダヤ民族主義を克服した普遍的な「荒野の声」である。
それに続く第2部分(3:10~14)では群衆の中から出された3つの質問に対してヨハネが答えるという対話的形式で語られる。この部分はマタイにもマルコにも見られないルカ独自のもので独自の資料によるのかあるいはルカ自身の創作であろう。専門的には「身分説教」(コンチェルマン『時の中心』、44頁)と呼ばれる。その内容は驚くほど凡庸である。この部分については後に詳細に述べる。この平凡すぎるほどの答えに対して群衆は「もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」(3:15)という解説が挿入される。この言葉は明らかにルカの解説である。
この言葉によって第3部(3:16~17)が引き出される。この部分についてはマタイもほぼ同じ言葉を記録している。おそらくこの部分もQ資料によるものであろうが、マルコもほぼ同じ内容のことを述べているので、これが原始教団におけるイエスと洗礼者ヨハネとの関係についての公式な見解だったのであろう。

2. 身分説教の主眼点
さて、この説教全体の主眼点は「悔い改めにふさわしい実を結べ」(3:8a)ということである。このメッセージを受けとって群衆は「では、わたしたちはどうすればいいのか」(3:10)とヨハネに迫る。群衆も徴税人も、兵士も基本的には同じ質問をしている。それに対するヨハネの「指導」も単純明快である。それがこの説教の中心部となる。つまり悔い改めということについて3つの具体的な提案をしている。ここには福音とか清めとかという宗教的要素は一切見られない。ごく普通の社会生活の規範である。
      (1) 公正な分配
      (2) 規定以上のものは取るな
      (3) ごまかすな(自分の給料で満足せよ)
特別なことは何もない。あまりにも平凡すぎる。第1部の激しさと比べてあまりにもやさしすぎて、驚いてしまう。洗礼者ヨハネの言う悔い改めとはこういうことであったのかと改めて考えさせられる。私たちはキリスト教の伝統に従ってヨハネの言う悔い改めということにあまりにも多くのことを盛り込みすぎてしまったのではなかろうか。その結果生活態度の変革という悔い改めの原点を曖昧にしてしまったのかも知れない。逆に言うとそのような当たり前のことを語ることが社会批判になるということは社会の側に問題があるということを示している。非ユダヤ人であるルカから見るならば、ここに登場するヨハネは旧約聖書の預言者というよりも社会活動家である。語られている内容はどこの民族にも通用する社会倫理であり非宗教的である。ユダヤ人の歴史や宗教にあまりにもこだわりすぎることへの批判が感じられる。その意味ではユダヤ人が後生大事にしている「律法」も何も特別なことはない。語られている内容は人間が人間として普通に生きる道、普遍的な倫理である。ルカはヨハネにそのことを語らせる。
ヨハネの説教の中でこの部分(3:10~14)はマルコにもQ資料にもよらないルカ独自のものである。だからこそルカのキリスト教理解においては非常に重要な問題の指摘がある。

3. 福音
本日のテキストにおいて、先ず注目すべき点は18節の「ヨハネはほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた」という言葉である。ヨハネの説教を福音だという。ルカは使徒言行録の著者でもある。彼にとって「福音」とはキリスト教そのものを意味する言葉である。福音書中でもイエスの死が間近に迫ったころ、ベタニヤで一人の女性がイエスの足下にひざまずき、高価な香油をイエスの足に注いだ。それを見た弟子たちは彼女の行為を批判した。それに対してイエス自身の言葉として「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と語られた(マタイ26:13)。また福音書の中でも最も古いとされるマルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で書き始めている(マルコ1:1)。ここから「福音書」という文学のジャンルが生まれたとされる。確かにマルコはヨハネの活動から書き始めてはいるが、マルコでさえヨハネの説教を「福音」とは言わない。彼が「福音」という言葉を最初に用いるのは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)であり、この句はイエスの言葉と行為を総括する言葉とされる。マタイも同様で「イエスがガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝えた」(マタイ4:23)で初めて用いられている。ヨハネ福音書では「福音」という言葉は一度も用いられていない。
こういうことを背景にして考えると、ルカのこの言葉を「福音を告げ知らせた」と翻訳するのは妥当なのかということが問題になる。「福音を告げ知らせる」と翻訳されているもともとの言葉「エウアンゲリゾー」で単に「良いことを知らせる」という意味である。ルカはここまでの部分で既に2回この言葉を用いている。最初はヨハネの誕生に際し天使ガブリエルがヨハネの父ザカリアに向かって「あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである」(1:19)と語りかけた言葉である。次にクリスマスの物語で有名な場面で、天使たちが羊飼いたちの語ったとされる「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(2:10)という言葉である。確かに、これら2箇所とも天使が語った言葉であり、それは喜ばしいお告げであった。従って、これらの言葉を「福音」と翻訳するのには抵抗があり、ふさわしくないものと思ったのであろう。従ってここでもこの言葉を「福音」と訳さなければならないわけではない。むしろ、もともとの意味の通り「良い知らせ」、あるいは「良い教え」と訳す方がすんなりする。ルカにとって福音とは「神の国の福音」(16:16)であって、ヨハネの説教はキリスト教会用語としての「福音」ではなく、単に「良い教え」である。口語訳聖書ではこの部分は「民衆に教えを説いた」と翻訳されている。それより前の文語訳では「福音」という言葉が用いられていたので、口語訳聖書ではそれを訂正したのであるが、新共同訳になって再び「福音」に戻ってしまった。これは明らかに誤訳である。

4. ルカにとっての旧約聖書
ルカは洗礼者ヨハネの説教を「群衆への良い教え」としてとらえている。そのことの意味は小さくない。既に論じたようにルカはヨハネを旧約聖書の預言者を代表し総括する者として理解しているので、ヨハネの説教もまた旧約聖書全体を総括するものである。言い換えると非ユダヤ人であるルカにとって律法にしても人間が社会生活をする上で有益な良い教えとして理解している。ユダヤ人にとっては旧約聖書は神に選ばれた神の民としての神との契約の書であり、ユダヤ教の聖典であるが、非ユダヤ人にとってはそんなことは関係ない。その意味ではキリスト教にとっての旧約聖書は本質的には歴史的資料に過ぎないと考えられるが、ルカはそうは考えない。ルカにとって旧約聖書それ自体が非常に魅力的な良い教えであった。たとえそれはイエスにおいて成就した「神の国の福音」(ルカ16:16)ではないにせよ、預言者たちにとって語られた良い教えであった。それはユダヤ人には理解できない新しい見解である。
そのことを示す最もいい実例は洗礼者ヨハネのことを述べるイザヤ書の引用に示されている。マルコは預言者イザヤの言葉として次のように語る。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」(マルコ1:2~4)。そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れた。実はイザヤの預言とされる言葉の前半の「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」の部分はイザヤ書にはなく、多分マラキ書3:1からの引用だと考えられるが、ルカはその部分を削除する。そして、その代わりという訳ではないがイザヤ書の続きの部分を付加する。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る』」。この部分は明らかに道を整えるということの内容を示す言葉で、重要なポイントは「人は皆、神の救いを見る」にあり、ユダヤ人の偏狭な民族主義を克服し普遍的な救済を語る。これがルカの立場である。従って、これを語るヨハネから「らくだの毛衣」をはぎ取り、腰から「革の帯」と取り除き、「いなごと野蜜」という食生活をやめさせている(1:6)。それでも、なおヨハネは「女から生まれた者のうち」(ルカ7:27)で最大の人物であった。その意味で彼の語る言葉は全世界のあらゆる人々に対しする「良い教え」であった。

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